■夏の残像 -after image-
ACT1

 蝉時雨じゃなくて、これじゃ蝉豪雨だ。
 そう思いながら、小泉穂高は神社の境内にすわっていた。
 おなかがすいた。こんなことなら、今朝作ってもらったお弁当、持ってくればよかった。そしたら図書館のラウンジで食べられたのに。
 昼に帰ってくるから置いといて、なんて言っちゃって。
 せっかくおかあさんが玄関先まで持ってきてくれたのに。
「失敗したなあ」
 穂高はまだ明るい空を見て、ため息をついた。
「小泉くんじゃない?」
 急に名前を呼ばれて、穂高はふりむいた。
 石畳の参道に、真っ白なカッターシャツを着た高校生ぐらいの少年が立っている。
「やっぱりそうだ。どうしたんだい。もう六時だよ」
「おにいさん、だれ」
「あ、ごめんごめん。びっくりしたよね。おれ、滝沢八雲。二丁目の本屋の向かいに住んでるんだけど、おれのこと覚えてない?」
 穂高はじっと少年の顔を見た。
 もしかして・・・・・・。
「学校行くとき、いつもコンビニのあたりで追い越していくおにいさん?」
「そうそう。おれ、時間ぎりぎりで家出るからさあ。走らないと電車に間に合わないんだよ」
「電車に乗って、学校通ってるの」 
「うん。駅、六つ向こうの高校」
「あの時間で間に合うの」
「その日の運次第かな。担任の先生が一分早く釆たらアウト」
「じゃ、あと一分早く出ればいいのに」
「残念でした。ひとつ前の電車に乗るためには、あと三分早く出なきゃいけないの」
 だったらあと三分早く起きればいいじゃないかと思ったが、それは言わないことにした。
「でも、おにいさん。どうしてぼくの名前知ってるの」
「だって、きみんち、本屋の角をまがって三軒日の家だろ」
「そうだけど」
「苗字が苗字だからさ。引っ越してきたとき一番に覚えたよ」
「苗字って?」
「おれの名前は、小泉八雲から取ってるの」
「小泉八雲ってだれ」
「昔の小説家」
「ふ−ん」  
 うなずいたものの、八歳の穂高には小泉八雲がどういう人物なのか知る由もない。
「で、どうしたのさ。帰らなくていいの」
「ぼくんち、おとうさんもおかあさんも仕事してるから」
「じゃ、だれもいないのか?」
「うん」
 十歳離れた姉がいるが、彼女はこの春、地方の大学に進学して家を出ている。
「そりゃさぴしいなあ・・・・・・」
 八雲がそう言ったとき、穂高の胃のあたりがキュルル、と鳴った。
「・・・・・・腹、へってるのか」
「うん。お弁当、持ってこなかったから」
「お弁当って・・・・・・昼も食べてないのか」
「うん」
「じゃ、なんでいまごろまでこんなとこにいるんだよ。家に帰りゃなんか食べるもんがあるだろ」
「うん。おかあさんが作ってくれたお弁当がある」
 八雲は首をかしげた。話が見えないらしい。
「・・・・・・家に弁当があるなら、なんで帰らないんだ?」
「家の鍵、なくしちゃったから」
「なくした? どこで。さがしてみたのか」
「川の中。深いから取りに行けなくて」 
「川ん中に落としたのか? またなんだって、そんなとこに」
「健二くんと悟くんが、ぽくの鍵でキャッチボールみたいなことしてて、落としちゃった」
 八雲はまじまじと穂高を見た。
「・・・・・・違ってたらごめんな。もしかして、いじめられてんのか」
「遊んでくれるときもあるよ」
 精一杯の虚勢。
 八雲はにっこりと笑って、穂高の肩をたたいた。
「じゃあ、さ。いまからおれんちに来ない?」
「え?」
「そろそろおふくろが晩メシ用意してくれてるはずだし。それ食べて、きみのお父さんかお母さんが帰ってくるまで、うちで待っていればいい」
「行ってもいいの」
「もちろん」
 八雲は手をさしだした。穂高はその手をとった。
 大きな手。力強い手。
 穂高ははじめて、家族以外の人間に安心できるものを感じた。

「西京大の大学院生らしいぞ」
 ラメール予備校の大教室。
 昼休みもまもなく終わりとあって、受講生たちが次々と集まってきていた。
「なんだってそんなやつが、うちの講師になるんだよ」
「島田がぶっ倒れて入院したじゃん。その代理だって」
「ヘー。どんなツテがあったんだろ」
「おれが知るかよ。でも、ラッキーかもしんねえぜ。島田って教え方へタだったもんな−」
「うんうん。あれでよく、いままでクビにならなかったもんだよな」
 うしろの席の会話を聞くともなしに聞いていた穂高は、まったくその通りだと心の中で相樋を打った。
 夏休みの特別講習を取って、一週間ばかりここに通っている。午前中二講義、午後一講義。それぞれ九十分ずつで、けっこうハードだ。
 穂高は私立文系コースの英語、国語、日本史を受講している。島田というのは英語の講師で、五十すぎのやせた男だった。甲高い声で問題集を解いていくだけという、予備校の講師とは思えないような講義をしていて、受講生たちの評判はすこぶる悪かった。
「うヘー。今日は間に合ったぜ」
 穂高のとなりにどさっとかばんを置いて、岩崎克巳は息をついた。
「駅から三分フラット。新記録かも」
「あと一本早い電車に乗ろうという気はないのかよ」  
「この時間帯って本数少ないんだぜ。もひとつ早いので来たら、十分も早く着いちまう」
「遅れるよりはいいと思うけど」
「おふくろみたいなこと言うなよ」
 岩崎は穂高の高校の同級生だ。この講座を申し込んだのも、彼に誘われたのがきっかけだった。もっとも岩崎は英語しか受講していないが。
「やけに遅いじゃんか。島田のやつ」
 仮にも講師を「やつ」呼ばわりである。穂高は先刻聞いた話を伝えた。
「え、まじで? そりゃめでたい」
 島田の入院に乾杯、などとふざけて岩崎がスポーツドリンクを一気飲みしていると、前方の扉が開いて、長身の青年が入ってきた。
 白いカッターシャツに濃いべージュのチノパン。少し長めの前髪が眼鏡にかかっている。
 まさか・・・・・・。
 穂高は目を疑った。
「Be quiet,Please」
よく通る声。きれいな発音。
青年はホワイトボードにすらすらと英文を書いた。どうやら自己紹介らしい。
「諸君らには訳さずともわかるだろうが、私は滝沢八雲。島田先生が急病のため、このコースの英語を担当する。二週間、よろしく頼む」
 八雲。
 本当に、八雲だ。
 穂高はこみあげてくるものを必死でおさえた。

 講義を終えて、八雲は入ってきたときと同じ扉から出ていった。
「なんか食べに行かねえか」
 すっかり帰り支度のできている岩崎が言った。
「悪い。自習室でノート作ってから帰るよ」
 思いがけず八雲に再会できたショックで、まともにノートを取っていない。
「んじゃ、あしたそのノート写させてくれよ」
 あいかわらず、ちゃっかりしている。階段のところで岩崎と別れ、穂高は自習室に入った。
 仕切りのある一角にすわり、ノートを広げる。流れるような発音で、ポイントをていねいに教える八雲の講義は、本当にわかりやすかった。
 ぼくのこと、わかっただろうか。
 穂高は考えた。
「忘れてる、かな」
 講義中なんどかこちらを見たけれど、とくに意識してなかったみたいだし。
「八年・・・・・か」
 あのとき自分は十歳だった。八雲を追いかけて、成田まで行った。たったひとりで。
 八雲はイギリスに留学して、そのまま大学に進学したいと言っていた。
「十年は帰れないかなあ」
「そんなに?」
「やっぱり、行くからにはそれなりの成果をあげたいし」
「日本にだっていい大学はたくさんあるのに」
「そりゃそうだけど、せっかくの機会だからね」
「やだな、ぽく。八雲がいなくなるなんて」
「なさけない顔するなよ」
 いまさら何を言っても、どうしようもないことだってわかってた。
 八雲は自分の道を見つけたんだから。
 あの日。
 成田でぼくを見つけたときの八雲の顔が、いまだに忘れられない。
 ちょっとずれてた眼鏡をあわてて直して、大股で飛んできた。
「なんでここにいるんだよ」
「見送りしようと思って」
「おばさんは? それとも姉さんについてきてもらったのか」
「ううん。ひとりで来た」
「ひとり?」
 それからの八雲のあわてようといったら、いま思い出しても笑ってしまう。いや、本当は笑ってはいけないのだが。
 チェックインの時間は迫る。十歳の子供をひとりで帰すわけにはいかない。八雲は家にいる母親に連絡して、穂高を迎えにきてもらうことにした。
「おふくろが来るまで、ここにいるんだぞ」
 インフォメーションセンターの前で、八雲は言った。係員にもふかぶかと頭を下げる。
「じゃ、もうすぐ時間だから」
「うん」
 穂高は必死に涙をこらえていた。肩が小刻みにゆれる。
「ありがとな」
 八雲は穂高の頭をなでた。
「泣いてもいいぞ。おまえはなんでも我慢しすぎる」
「我慢なんか・・・・・・」
「おとなになったら、いやでも我慢しなきゃいけないんだ。子供のうちは余計な我慢はしなくていいんだよ」
 そのとたん、穂高は堰を切ったように泣き出した。
「八雲・・・・・・八雲・・・・・・」
「よしよし。その方がいいぞ」
 八雲はひざをついて、穂高を抱きしめた。
 しばらくして、搭乗時間を告げるアナウンスが流れた。八雲はゆっくりと体をはなした。
「行くよ」
「うん」
 八雲の姿が、だんだん小さくなる。
 そのとき、穂高は気づいた。
 ぼくは八雲が好きなんだ、と。

 だからって、どうしようもなかったが。

 穂高はノートを閉じた。どうも勉強する気分になれない。
 イギリスの大学に進んだはずの八雲がなぜ日本にいるのか。なぜ予備校の講師になったのか。だいいち西京大の大学院にいるのなら、いくら夏休みとはいえ講師のアルバイトなどしていてよいのか。
 疑問はいくつもあった。だがそれをじかに訊く勇気はなかった。
 講義中に自分を見た八雲の目は、まるで見知らぬ者を足る目だったから。
 穂高はかばんをかかえて自習室を出た。午後六時。外はまだ明るい。
「よっ。またひとりか、おまえ」
「え・・・・・・?」
「講義のあとで来てくれると思ってたのになあ。三時間も待ったよ」
「・・・・・・八雲」
「あ−、よかった。忘れてたんじゃなかったんだな」
 にっこりと、八雲は笑った。
 忘れるわけない。忘れられるわけないじゃないか。
 穂高はかばんで八雲の腕をたたいた。
「そっちこそ! さっきは知らん顔してたくせに」
「そりゃ仕事中はきちんと仕事しなきゃ。なつかしい顔見つけたからって、ほいほい喜んでるわけにもいかないだろ」
「・・・・・・なんか、講義中と人格違ってない?」
「あれは業務用なの。生活にめりはりつけようと思って」
「だいぶくだけたね、八雲」
「おう。もまれたからな。おまえもいい男になったじゃないか」
 八雲は穂高の顔をまじまじと見つめた。
「八年前のおれよりは、ちと落ちるけど」
 がっくりと脱力して、穂高はその場にしゃがみこんだ。
 八雲はくすくすと笑いながら、晩飯食べに行こうか、と言った。

 八雲の話によると、彼はイギリスで一年間語学学校に通い、そののち大学に進んだという。卒業後に別の大学の聴講生として二年間学び、この春、西京大の大学院に編入したらしい。
 もっとも六月までは向こうにいたとかで、実質的には帰国してまだひと月ほどだという。
「帰ってきたらきたで、いろいろ雑用が多くてさあ。西京大の近くにアパート借りなきゃいけないし、おふくろはあちこちにおれをつれていきたがるし、もう目が回りそうだったよ」
 講師の件に関しては、留学を世話してくれた恩師に頼まれたのだという。大学には内緒だけどな、と八雲は片目をつむってみせた。     
 話はつきなかったが、そうそう遅くまで出歩いているわけにもいかない。それに何も今日で最後ってわけじゃない。あしたから二週間は予備校でも会えるし、夏休み中は実家にいるらしいから、また昔のように遊びにいけばいい。
 昔のように。
 穂高はふと考えた。
 昔のように、できるだろうか。
 ぼくは気づいてしまったのに。この気持ちに、ふたができるだろうか。
 八雲に会えてうれしいはずなのに、たまらなく不安だった。
Edited by NARUMI.
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