■夏の残像 -after image-
ACT2

 滝沢八雲が英語の臨時講師となってから、講義中に居眠りをする受講生はいなくなった。遅刻の常習者だった岩崎克巳でさえ、十分前には席についている。
「なあ、小泉。滝沢センセの家って、おまえんちの近所だって?」
「そうだけど。なんで知ってるんだよ」
「さっき下の食堂で聞いた」
「食堂?」
「おうよ。早く着きすぎてコーヒー飲みに行ってたんだよ。そしたらセンセがランチ食べててさ。それがまた笑えんの。ひとくちに二十回以上かんでるんじゃないかな。やたらゆっくり食べてて、こっちのベース狂っちまう」
 中学のときに胃潰瘍の手術をした、と八雲は言っていた。開腹手術をするぐらいだから、よほど重症だったのだろう。それ以来、食べものにも食べ方にも気をつけているらしい。
「センセはきっとひとりっ子だぜ。おれんちみたいに兄弟が4人もいたら、あんなに悠長にしていられないからな」
「たしか三つか四つ離れた妹がいたはずだよ」
「妹と弟は違う。おれだって妹ならもうちっとかわいがってたさ」
「そんなもんか」           
「おう。男同士は壮絶だぜ」
「女きょうだいも熾烈だったけどな」
「あ、そうか。おまえんちの姉貴は強力だもんなあ。いくつ違いだっけ」
「十歳。物心ついたころからおもちゃ扱いされてたよ」
 穂高の姉は日向(ひなた)といって、いまは親元を離れてひとり暮らしをしている。親には興信所の事務をしていると言っているが、じつは浮気調査から企業の内部調査までなんでもござれの調査員だった。
 その日の講義もとどこおりなく終わり、岩崎がいつも通り疾風のごとく帰ったあと、八雲が穂高の席にやってきた。
「今晩、ひまか?」
「ひま・・・・・・ですけど」
 いくらなんでも教室でタメロはまずい。
「花火見に行かないか」
「河川敷の?」
「そう。例によっておふくろが一緒に行こうってうるさくてさ。でも晶子が相手してくれるって言ってるから」
 晶子というのは八雲の妹だ。
 ちなみに彼女の名前は与謝野晶子から取っている。本人はこの比較的地味な名前が気に入らないらしく、せめて「鏡花」ぐらいにしてほしかったと言っている。
「おまえをつれていけば途中で抜け出せるだろ。夜店でなんかおごるから、つきあってくれないか」
「ぼくは、だしですか」
「そう。極上利尻こんぶだし」
「・・・・・・その手の冗談、やめろって」
 つい、ふだんの口調で返す。
「じゃ、七時に迎えにいくから」
 穂高の返事も聞かず、八雲はすたすたと教室を出ていった。

 七時を十分ばかりすぎたころ、八雲は小泉家のインターホンを鳴らした。
 百メートルも離れていないというのに、なぜ十分も遅れるのか。きっとテレビで七時のニュースが始まったのを見てから「あ、そろそろ出なきゃ」と思い、それからさらにトイレに行ったりしているのではないだろうか。
「遅い」           
「え、そうかな。悪い悪い。おわぴになんでも好きなものおごるからさ」
 夜店である。たかがしれてると思いながらも、穂高は頭の中で食べたいものをリストアップした。
 花火大会の会場までは徒歩十五分ほど。着いたときには見渡すかぎり人でいっぱいだった。
「うわ−。今年はまた一段とすごいな−」
 穂高は堤防の上で言った。
「すわるとこ、ないね。もう少し前に行ってみる?」
「ちょっと待ってくれよ。たしかこのあたりに・・・・・・あ、いたいた。ほら、あそこ」
 八雲が指さした先には、彼の母親と妹がすわっていた。
「遅かったじゃないの、八雲。人に場所取りさせといて」
「ごめんごめん」
「あんたの約束はあてにならないんだから。あら、小泉くん。なんだか久しぶりねえ。ご近所なのに最近あんまり会わなかったもの。八雲が教えてる予備校に通ってるんだって?」
「夏休みだけですけど」
「この子ったら、きのうになってはじめてそんな話するんだもの。それならそうと、ちゃんと言ってほしいもんだわ」
「言ってどうすんだよ」
「そしたらもっと早く、小泉くんに遊びにきてもらえたじゃないの」
「おかあさんは小泉くんのファンだもんね−」
 と、晶子。
「そうよ。毎朝うちの前を通っていくの、見るのが楽しみで」
「・・・・・・おふくろ、そりゃ単なる危ないおばさんだぜ」
「あんたみたいにかわいげのない子を持つと、明るくてすなおな子に目がいっちゃうのよ」
「それならテレビの中のアイドルだけにしといてくれよ」
「来た早々、文句ばっかり言ってないで、すわんなさいよ。小泉くんもね。おばさん、お重を持ってきたのよ」
「荷物になるのに」
「あんたに持ってくれって言ってないでしょ。せっかくの花火を見るのに、ふつうのお弁当じゃ味気ないもの。はい、小泉くん。取り皿」
「いただきます」
 穂高は皿を受け取り、敷きものの上に広げられた重箱に箸をつけた。
「こんなの、小学校の運動会以来です」
「そうでしょ。昔は行事のたびに、お重を持っていったものよ。いまじゃ運動会でも給食があったり、お花見だっていうのにコンビニのお弁当だったり、風情ってものがなくなったわねえ」
 彼女の「昔はよかった」話を聞きながら、穂高ははじめて八雲の家に行ったときのことを思い出していた。
 突然やってきた穂高にいやな顔ひとつせず、「たくさん食べてね」と言って揚げたての天ぷらと煮物を出してくれた.あつあつのごはんに味噌汁。絶妙のタイミングで「はいっ、おかわりどうぞ」とさしだされた手。
 余計な気を使わせないように、披女は穂高を特別扱いしなかった。子供だからと甘やかしもしなかったが。
「ねぶり箸はだめよ」
 いつもの癖で、つい箸をなめていた穂高に彼女は言った。
「見ていてきれいじゃないし、のどをついたら危ないでしょ」
 自分の子でもよその子でも、言うべきことはきちんと言う。披女はそういう人だった。
 おおむね食べ終わったころ、花火の打ち上げが始まった。
 古典的な丸く広がるものもあれば、リボン型や星型、しだれ菊のようなものなど、いろいろな種類の花火が夜空を彩った。
「じゃ、おふくろ。おれと穂高はあっちを見てくるよ」
 八雲がそう言って、河川敷の夜店を指さした。
「あら、最後の仕掛け花火がいちばんきれいなのに」
「下からでも見えるよ。穂高、行こう」
「うん。ごちそうさまでした。おいしかったです」
「小泉くんも行っちゃうの? 今度はうちの方に来てね」
「はい。ありがとうございます」
 穂高はペこりと頭を下げて、八雲のあとに続いた。

「腹ふくれちまったな。なんかおごるって言ってたのに」
 八雲が申し訳なさそうに言った。
「まさか、おふくろが重箱持ってきてるなんて思わなかったからさあ」
「おばさんの料理、好きだよ。うちのかあさんは和食苦手で、運動会のお重だってハンバーグやグラタンだったもん。煮物や茶碗蒸しがあんなにおいしいなんて、八雲の家に行くまで知らなかったんだから」
「そうやってほめるから、おふくろが図に乗るんだよ。おれなんか弁当の中身に文句ばっかり言ってたけどなあ」
「文句って?」
「たまにはハンバーグぐらい入れてくれって」
 お互いに、となりの芝生は青く見えるものらしい。
「そしたら晩飯が、豆腐ハンバーグにいわしハンバーグ」
「・・・・・・それがオチ?」
「すまん。失敗した」
八雲はぽりぽりと頭をかいた。
「金魚すくいでもやるか」
「スーパーポールの方がいい。金魚持って帰っても、すぐに死なせちゃうよ」
「そっか。・・・・・・まだだめか」
 穂高は幼いころ、飼っていた犬に袋入りの菓子を与えて死なせてしまったことがある。それ以来、生きものを飼うのがこわくなった。正しい飼い方をすれば、たとえ死んだとしても寿命なのだが、そこがまだ割り切れない。
 スーパーボールすくいやくじ引きなどをして回っているあいだにも、花火は次々と打ち上がっていた。
 そういえば。
 あのときもこうして、夜店を見て歩いた。九年前。
 やきそばやたこやきや、クレープやかき氷をおごってもらって、槍投げや射的をして。いらないって言うのに、わた菓子まで買ってくれて。口のまわりをベタベタにしながら食べたっけ。
 楽しかった。八雲と手をつないで、百以上ある夜店を全部のぞいた。
 手をつないで。
 あのころはまだ、なにも気づいていなかった。ただうれしくて、八雲にひっついて歩いた。しかし、いまは。
 八雲が近くにいると思うだけで、こんなに苦しい。
 肩がふれる。すぐそばで声が聞こえる。
 自分はちゃんと、ふつうにしているだろうか。なにか変なそぶりを見せていないだろうか。
「なにボーッとしてんだよ。ほら」
 八雲は穂高の手をとった。
「え・・・・・・?」
「飲みもの買いに行こう。迷子になるなよ」
 八雲は穂高の手をひっぱって、人混みの中をずんずん進んだ。
 迷子って・・・・・・。
 ぼくはもう子供じゃない。はぐれたって、ひとりで帰れるのに。
 八雲の心の中では、自分はいまだにあのときの「子供」のままなのか。
 穂高は唇をかんだ。
 そうか。ぼくはまだ、友達にすらなっていないのか・・・・・・。
 つながれた手が、なんだかやけに寂しかった。

 帰宅したのは、午後10時すぎだった。
 玄関に、真赤なパンプス。
「あれ。日向、来てるのか」
 言いながらリビングに入る。
「おねえさん、でしょ。受験生がどこほっつき歩いてるのよ」
 日向はソファから立ち上がり、持っていた雑誌で穂高の頭をひとつたたいた。
「いてっ・・・・・・。花火見に行ってたんだよ」
「花火ならとっくに終わってるでしょ」
「夜店見てたからさ。もう、やめてくれないかな。その尋問口調」
「ふん。まあいいわ。滝沢くんと一緒だったんだって?」
 知っているなら、しつこく追求しないでほしい。この姉は、いまでもまだ弟をおもちゃとしか思っていないらしい。
「うん・・・・・・まあね」
「なによ、その微妙な間は。けんかでもしたの」
「べつに」
「かわいくな−い。特別ボーナスもらったから、あんたにもなんかプレゼントしたげようかと思ったけど、やめとこうかなー」
「なんだよ、特別ボーナスって」
「うふふー。某大富豪の後妻の化けの皮をはいでやったのよー。いやあ、爽快だったわね。んで、遺族のみなさまからうちの事務所にお礼があったの。さすがに桁が違うわね−。あのケチな所長が、あたしにポンとボーナスくれるわけだわ」
「で、いくらもらったんだよ」
「残念でした。それは秘密」
「それ自慢するためにわざわざ来たの?」
「まさか。おかあさんたちに話せるわけないでしょ。あたしは事務員ってことになってんだから。今日は定期報告日なの。おかあさんたら、月に一度は必ず顔出せって言うもんだから」
「で、そのかあさんは」
「おとうさんと外食。いくつになっても仲いいよねー」
 日向はくすくすと笑った。
「今日は泊まってくの」
「ううん。帰る。あんたがもどってくるまで留守番しててって頼まれたのよ」
 日向はバッグを手にして、リビングを出ようとした。
「・・・・・・穂高」
 何事か思い出したかのように、振り向く。
「え、なに」
「滝沢くんとデートして、楽しかった?」
「・・・・・・デートって、なんだよ。へんなこと言うなよ」
 日向はじっと穂高を見ている。
「ぼく、もう寝るから・・・・・・」
「早いとこ、あきらめた方がいいわよ」
「日向・・・・・・」
「あたしは人の裏も表もいっぱい見てるのよ。あんたの気持ちは、たぶん滝沢くんには受け入れてもらえない」
 いつから、気づいていたのだろう。穂高はいまさらながらに、この姉にあなどれないものを感じた。
「受験がすべてだなんて言うつもりはないけど、心の整理をつけないと、そのうち一歩も進めなくなるわ。経験者が言うんだから、たしかよ」
「経験者って・・・・・・」
 彼女も、苦しい恋をしたことがあるのだろうか。
「十年も長く生きてれば、いろいろあるわよ。じゃあね」
 穂高の肩をぽんとたたき、日向は玄関に向かった。靴音を響かせて、出ていく。ドアが閉まった瞬間、穂高はその場にすわりこんだ。
 あきらめる?
 とっくにあきらめている。
 この気持ちを伝えることさえ、禁忌だと。
 八雲がぼくに応えてくれることなど、ありえないのだから。
 なぜか、無性におかしくなった。
 自分はいったいなにをしているのだろう。誘われて、ほいほいついていって、八雲が自分を近所の子供だとしか考えていないと思い知らされて。
 でも、つないだ手のぬくもりを忘れられない。
「なんで、いまごろ帰ってきたんだよ」
 のどが、ひきつったようにふるえている。
「ぱかみてえ・・・・・」
 笑いたいのか泣きたいのか。
 いまの穂高には、それさえもわからなかった。
Edited by NARUMI.
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