■Early autumn2〜はじまりの場所〜
ACT2

 小泉日向が勤めている興信所はじつにめだたない場所にあった。官公署には近いのだ
が、せまい路地の奥にある古いビルの一室で、飛び込みの客はまず入ってこない。
「探偵はめだってはいかん」
 というのが、所長の藤原真理(ふじわら しんり)の意見だ。藤原は元警察官で、十年ばかり前に「藤原事務所」を立上げた。四十なかばのがっちりとした体格の男で、現在同年代の恋人と同棲中だ。その恋人が男であるというのはもう周知の事実で、日向ももちろん知っている。
「上司にセクハラされる危険のない職場だわ」
 と、本人はその状況に満足しているようだ。
 藤原事務所には何人か調査員がいるが、つい先日、新人が入ってきた。年は二十五歳。コンピューター関係の会社に就職したものの、上司と衝突して退職し、一年ばかり動物園の飼育係や土木作業員、宅配の運転手からホストまでさまざまなアルバイトをしたのち、とある事件のコネで藤原事務所の調査員になった。名前は、岡田拓馬という。
「岡田くん、報告書のコピーは二部って言ったでしょ」
 日向の叱責が飛ぶ。新人はもっぱら雑用係なのだ。
「所長は一部でいいって言ってましたよ」
「依頼人側で二部ほしいって言ってきたのよ。指示通りにしてくれないと困るわね」
「指示が不十分だったからですよ。そういう事情は先に知らせてくれないと」
 これでは上司ににらまれるはずだ。
「……わかったわ。とにかく、コピーお願い。午後二時に取りに来るそうだから」
「了解しました」
 拓馬はコピー機に向かった。
 仕事は早いし、きっちりしている。ただ、ときおり自分の判断で行動する点が困りものだ。調査の現場では臨機応変に動くことも必要だが、デスクワークでは機械的な作業が要求される。
 彼の場合は早く外に出した方がいいのかもしれない。
 日向がそんなことを考えていると、事務所のドアが勢いよく開いた。
「日向、いる?」
 大きなカメラバッグをかついだ二十代後半ぐらいの女性が、どかどかと入ってきた。
半年ばかり前の認知裁判のときに知り合ったジャーナリストの香取麻友美だった。
「あっついわねえ。あ、拓ちゃん、麦茶ちょうだい」
 麻友美はカメラバッグを床に置いて、言った。
「あれ、今日はマリちゃん、いないの」
 麻友美は藤原のことを「マリちゃん」と呼んでいる。どうも彼女は人に仇名をつけるのを楽しんでいるとしか思えない。
「所長は京都に出張中よ。……どしたの、その子」
 日向はソファーにちょこんとすわっている三歳ぐらいの女の子を見て、訊ねた。
「こんにちはー」
 女の子は元気よくあいさつした。
「あたしの子よ。名緒っていうの。急に予定が変わっちゃってねえ。二時間ばかり預かってくんないかな。昼ごはんはもう食べたから」
「……あなた、結婚してたの?」
「してないわよ」
「じゃ、シングルマザーってこと」
「まあ、そうね。……麦茶、まだ?」
「はい、どうぞ」
 いつのまにか拓馬が麦茶を三つ持って横に立っていた。こういうところは気が利いている。ホストのバイトをやっているとき、店のナンバーワンの顧客を獲っただけのことはある。
「ありがと、拓ちゃん。ああ、おいしいわー」
 麻友美はごくごくと麦茶を飲み干した。横では、名緒が手を合わせて「いたあきます」と舌足らずな発音で言ってからコップに口をつけた。
「おいしーねー、おかーさん」
「そうね。よかったね」
 口調がすっかり母親になっている。
「お行儀がいいわね。いまいくつなの」
 日向が訊いた。
「二歳よ。ね、名緒」
「うん。ふたつ」
 名緒は右手の指を二本たててみせた。
「ふたつ? もっと大きいかと思ったわ。しっかりしてるし、背も高いから」
「もうちょっとで九十センチかな、たしか」
 標準よりやや高めだ。
「じゃ、頼むわね。あとで迎えにこさせるから」
「あなたが来るんじゃないの?」
「これから香港に行くのよ」
 麻友美はカメラバッグの中を確認した。このまま空港に行くつもりらしい。
「それじゃ、だれが迎えに来るの。あなたのおかあさん?」
「従兄弟よ。ああ、又従兄弟になるんだっけ。親同士が従姉妹だから。田代聖哉っていう色の白い文学青年。もしかしたら、やたらと怒ってばかりいる背の高い男もついてくるかもしれないけど」
「なによ、それ」
「マリちゃんのご同類よ」
「へえ……あなたの親戚にそういう人がいるなんてねえ」
「いまどき、めずらしくもないでしょ」
「……あいつも、もう少し頭がやわらかければいいのに」
 日向はため息をついた。
「あいつって?」
「ちょっとねー。男の子に告白されて、自分もまんざらじゃないくせに、いまいち煮え切らないやつがいるのよ。もう、はたから見ててイライラするわ」
 さすがにその男の子が自分の弟だとは言いにくい。
「ふーん。まあ、ふつうはそうよね。なーんにも考えないで突っ切っちゃったやつ、知ってるけど」
「……で、どうなったの」
 日向は身を乗り出した。
「そのまんま、ばく進中よ」
 くすくす笑いながら、麻友美は言った。
「さーて、そろそろ行かなくちゃ。名緒、聖哉が来るまでこにいるのよ。外に出ないようにね」
「はーい。おしごと、がんばってねー」
「んじゃ、チューしよっか」
「するー」
 名緒は両手を上げた。麻友美は名緒を抱き上げて、頬と唇に二回ずつキスをした。
「……あなたが今日、化粧をしていない理由がやっとわかったわ」
 日向が言った。麻友美はなにをいまさらといった表情で、
「子供と一緒にいるときに化粧なんかしてられないわよ。ねー、名緒」
「うん。チューも『好き好き』もできないもん」
 名緒と麻友美は顔を見合わせて、再度「ねーっ」と納得しあっている。
「それじゃ、行ってくるわ。よろしくね、日向」
「はいはい。ひとつ貸しにしとくわよ」
「いってらっしゃーい」
 名緒は大きく手を振った。麻友美もドアのところで大きく手を振りかえして出ていった。
 はじめて訪れた場所に置いていかれたというのに、名緒は不安も緊張も感じていないようだった。それだけ母親を信用しているということか。それとも単に、こういうことが日常茶飯事で慣れているだけなのか。
「どちらも真なり、かな」
 麻友美が飲んだ麦茶のカップを片付けながら、日向はつぶやいた。
「……岡田くん、コピー終わった?」
「はい。できましたけど」
「だったら、名緒ちゃんの面倒みててちょうだい。私は弁護士会館に行く用事があるから」
「……おれひとりでですか?」
 拓馬は心配そうに言った。
「女の人がいた方がいいですよ。まだおむつもしているみたいだし」
「おにーちゃん、ぱんつだよ」
 名緒がふたりの話に割って入った。
「え、なんだって?」
 拓馬は名緒の顔をのぞきこんだ。
「なおねー、ぱんつなの。できるの。だいじょーぶだもん」
「ぱんつって……ああ、これのことね」
 日向は麻友美が置いていった荷物を見た。パンツタイプの紙おむつが五枚、入っている。
「名緒ちゃん、これ、自分ではけるの?」
「できるよー。すてるときねえ、クルクルッてするの」
 使用後は丸めて捨てることも知っているようだ。
「おてても、あらうもん」
「そう。えらいわね。じゃ、おねえさんがいないあいだ、このおにいさんとお留守番しててね」
 日向は麻友美より年上だが、ここで自分のことを「おばさん」というのには抵抗がある。
「はーい。いってらっしゃーい。おにーちゃん、お絵描きしよー」
 名緒は荷物の中かららくがき帳と色えんぴつを取り出した。拓馬はこれも仕事と割り切ったのか、名緒から紙と鉛筆を受け取ってソファーに腰をおろした。

 二時間ほど、と麻友美は言っていたが、午後三時をすぎても又従兄弟だという文学青年は現れなかった。
「どうしたのかしらね。連絡してみようかしら」
 日向は麻友美から聞いた携帯電話の番号を押そうと、メモを見た。
「せいやちゃんに、でんわするの?」
 拓馬と一緒に折り紙をしていた名緒が訊ねた。
「なおがするー。せいやちゃんの番号、知ってるもん」
「ほんとに?」
「うん。1221でしょ。知ってるもん」
 たしかに、末尾は1221だ。しかし全部は覚えていないらしい。
「じゃあね、おねえさんが途中までするから、そのあとを名緒ちゃんがやってね」
「いいよー」
 日向が自分の携帯電話を取り出したとき、事務所のドアが開いた。
「失礼します」
 遠慮がちな声。
「香取名緒という女の子がお邪魔していると思うんですが……」
「せいやちゃんだー」
 名緒はドアの方に走っていった。麻友美が言った通りの、色白の青年が立っている。
「なおちゃん、待ったかい。悪かったね、遅くなって」
 青年……田代聖哉はひざまずいて名緒を見上げた。
「いいよー。せいやちゃん、これ、拓ちゃん」
 名緒は拓馬を指さして言った。
「お絵描きも折り紙もじょーずなの」
「お世話になりまして……」
「あ、いいえ。べつに、たいしたことしてないっすから」
 拓馬は頭をかきながら答えた。
「おねーさんはねー、おやつ、くれたの」
「よかったね。さあ、お礼を言って帰ろうか」
 聖哉がそう言って立ち上がったとき、階段を駆け上がってくる派手な足音が聞こえた。
「おいっ! いたか?」
 ただでさえ大きな声が階段に反響している。
「あ、けーすけー」
 名緒はあとから入ってきた長身の男のひざに飛びついた。
「なおちゃん! ああ、よかった。ったく、香取のやつ、七五三の衣装見に行くなんて言いやがって、途中で子供を放り出すんじゃねえよっ」
 相当、頭にきているようだ。
「なおねー、拓ちゃんのお嫁さんになるー」
 ずっと拓馬に遊んでもらって、すっかりご機嫌の名緒がそう言った。
「なんだとっ。どこの馬の骨だ、そりゃ」
 男は事務所の中をにらんだ。拓馬がそろそろと手を上げる。
「何者だ、おまえ」
「ここの調査員ですけど」
「名前は」
「岡田拓馬です」
「……覚えておく」
 男は名緒を抱き上げて、ドアを押した。
「さ、帰るぞ。……七曲、車!」
 階段の下に向かって叫ぶ。ややあって、「はあーい」という間の抜けた返事が聞こえてきた。
「お騒がせしました」
 聖哉が日向にぺこりと頭を下げた。名緒は男の肩ごしに拓馬に手を振っている。
「拓ちゃーん、バイバーイ。またあそんでねー」
 無邪気なものである。拓馬は男のにらみに負けず、なんとか手を振り返した。
 彼らが引き上げたあと、日向は麻友美の言っていた意味を理解した。あの長身の男が「なんにも考えないで突っ切った」やつなのだろう。
「……なるほど。ばく進中、ね」
 まったく、あの男の爪の垢でも煎じて飲ませてやろうか……。
 日向は敵前逃亡した八雲をどうやってつかまえようかと考えていた。
Edited by NARUMI.
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