花菜の里
「不比等、頼む…。」
 苦しい息の下から無理にでも身体を起こし、草壁皇子は藤原不比等の手に黒作懸佩刀(くろづくりかけはきのたち)を握らせた。
「皇子様…。」
 普段静かな表情しか浮かべたことのない皇子の必死なる思いに不比等は負けた。不比等は軽くまぶたを閉じると、しかと刃渡り一尺一寸九分(約35センチ)の小太刀を受け取り平伏した。その様子を見て安心したのか、草壁は疲れた身体を床に横たわらせた。ふたりの様子を陰ながらみていた阿閉皇女が駆け寄ってきたとき、草壁は浅い眠りの縁にいた。
「不比等、皇子の願い、聞き届けてたも。」
 阿閉皇女も普段は穏やかなる人柄の女人である。ふたりの日頃にない態度に不比等も根負けした。自分ごとき下位の臣には身分不相応な小太刀だが、そこまで言われては断りようがなかった。
「我が身の側にとの仰せではありますが、他人の目もあります故、家に置くことだけでお許し下さい。」
 辛うじてそれだけは押し通した。渋々ながらも阿閉皇女の了解を取り付け、不比等はようやくその場から解放された。仕事はまだ残っていたが、それ以上に疲労困憊していた。なにより、草壁から託された小太刀をそのまま携えて仕事場に戻るわけにもいかず、不比等は数日ぶりに屋敷へ帰ったのだった。
 部屋にはいると不比等は、そのままじっと小太刀を見つめていた。
「畏れ多くも皇子様の小太刀を蔵などに入れて置くわけにもゆかぬ。さりとてこのままにもしておけず…。」
 しばらく思案した後、不比等はもうひとつ奥まった小部屋に入った。不比等の私室は誰でも入れるわけではないが、格式張って余人を近づけない場所でもない。それに…。
「あまり奥まった場所に置いては返って賊に狙われる元だ。」
 草壁の小太刀はそのまま壁に掛けられた。不比等の私室にあって何の違和感もないその存在に、家人の誰もが皇子の小太刀とは気付かぬまま日が過ぎていった。

 草壁皇子が病の床について以来、不比等は嶋の宮に詰めきりでめったに自分の屋敷に戻ることがない。もともと女手の少ない家のこと、不比等の身の回りを気遣ってくれたのは意外なことに年若い妻、賀茂比売だった。正室である蘇我晶子は生来病弱で、ことに季節の変わり目には体調を崩しやすくて不比等の身の回りを世話するどころではなかったこともある。
「こちらは本当に女手が少なくていらっしゃるから。」
 嫌味でも何でもなくさらりと言って、賀茂比売は春の衣替えに不比等の屋敷を訪れた。連なった車には幼い娘の宮子の姿も見える。葛城家の血を強く受け継いだらしい幼子は、時々突拍子のないことを言い出して周りを慌てさせるが、賀茂比売はおおように構えていた。
「年を重ねれば、その力も薄れていくはずだから、今は自然に任せておけばよいのです。」
 母親らしい貫禄も備え、賀茂比売は娘を自由にさせていた。
 賀茂比売の一行は不比等の屋敷にはいると、賀茂比売の采配の元、テキパキと冬の衣を終い、春の衣に風を通しては整えていった。こういう段取りをしている間、娘の宮子は煩い監視の目から逃れて屋敷内を物珍しそうに探検してまわっていた。好奇心旺盛な子供にありがちな行動は、忙しい大人の関心を引くこともない。
 葛城の里でおおらかに育った宮子はめったなことでは動じない度胸も備えている。はじめは人の多い部屋の中で遊んでいた宮子は、次第に人気のない屋敷の奥に入り込んでいた。
「だあれ?」
 静かな奥間に宮子の声が響く。
「そこに隠れても駄目。宮子には見えるよ?」
 宮子はいつしか不比等の私室まで踏み込んでいた。

 古くから大王家と姻戚関係を結び強大な権力を握っていた葛城家には、時折、巫女の能力を備えた子供が誕生することがあった。古の神々が政の中心にあった時代は去り、それに伴い葛城家の権勢も衰えてしまったが、家に根付いている血は今も健在である。宮子は藤原の家の一の姫であったが、同時に葛城の血を濃く受け継いできた娘でもあった。
 ちょこちょこと子供の足で宮子は不比等の私室の壁を見上げた。壁にはくだんの小太刀が掛かっている。
「ねえ、どうしてそんなところに隠れているの?」
 あどけない口がものごとの核心へズバリと割って入った。
「黙っていたんじゃわからないでしょ。宮子、秘密はちゃんと守るよ?」
 大きな目がまじっと小太刀を見つめている。
(…が見たかったんだ。)
 カタリ、と小太刀が鳴った。
「え?」
(だから、花が見たかったんだよ。)
「花って、何の花?」
 臆せず宮子は小太刀を見上げて言った。
(何の花っていわれても…)
「花の名前も知らないの?」
(そんなことは知らなくていいって言われたんだ。)
「ヘンなの。」
(おかしいかな?)
 言葉に出す代わりに宮子はこっくりと頷いた。素直に答えるのは簡単だが、口に出すと傷つけてしまいそうな気がしたからである。
「じゃあ、宮子が花の原へ連れてってあげる。」
 無邪気な笑顔で続けた。
「その代わり、宮子を守ってね。」
(え?)
「宮子にいつも付いててくれる男の人、そういうのを腰に付けてるの。どうしてって聞いたら、宮子を守るためだって言ったわ。あなたも一緒でしょ?」
(…そうだね。)
 一呼吸置くかのような間があって答えが返ってきた。
「嫌なの?」
 カタカタと小太刀が鳴った。
「じゃあ、一緒に行きましょ。」
 小太刀の「言葉」を待たずに宮子は背伸びをして壁から小太刀を外した。大人には一振りでも幼い宮子には抱えるほどの重量感がある。しかし宮子は両腕で小太刀を抱き込むようにして部屋から出て行った。

 ひらひらと藻の裾を翻して、宮子は庭先から続く里の原へと小走りに向かっていった。春の空を彩る桃の花は散ってしまっているが、足下を彩る黄色い絨毯は今が見頃なのだ。毎年母に連れられて不比等の屋敷を訪れる宮子は、こっそり秘密の花の里を見つけていた。ひとりで出かけたことがみつかると必ず叱られたが、大人は仕事に忙しくて、幼子の動向まで目が行き届かない。
「ほら、見て、見て!」
 宮子がたどり着いたのは、一面が菜の花で埋め尽くされた黄色い原っぱだった。遠くに見える山の端が雲に連なって見える。どこか霞がかった空模様が黄金色の景色と対比して美しい眺めをかもし出していた。
「お花さん、ちょっとごめんね。」
 宮子は小太刀を菜の花の間に滑り込ました。黒い鞘が黄色い花の間から陽光を弾いた。
「きれいでしょう?」
(ああ、きれいだ。)
 人間なら肢体を大きく伸ばして深呼吸するところだろう。小太刀は確かに菜の花の香りを満喫していた。
「こうするとね、」
 宮子はバランスよく小さな葉を備えた茎に手を伸ばしてポキリと折った。白い汁が茎からこぼれ落ちる。宮子はその汁が付かないよう、少し茎の上を人差し指と親指とでつまんで、シャラリと花を振った。空気が震え、シャラリ、シャラシャラと菜の花の葉が音をたてた。
(いい音がする。)
「でしょ?」
 シャラサラ、シャラサラ、リズムを変えて宮子は茎を振り続けた。
「こうするとね、春の風とお話できるの。」
 横目で話す宮子の顔は少しだけ鼻が高かった。普通の人には、ただ菜の花の葉がかさかさ音をたてているにしか聞こえない音で、宮子は風の神と話ができるのだという。
「どうしてあなたはこんなところにいるの?」
 ふと真顔に戻った宮子が尋ねた。
(花が見たかったんだよ。)
 最初と同じ答えがよどみなく返ってくる。
「みんなで見た方がずっと楽しいのに?」
(母様は、ぼくが花を摘んでたら怒るんだ。女々しいことをしちゃいけませんって。だから、ずっと我慢してきたんだよ。でも、もう、いいんだ。)
「宮子はよくないと思う。」
 宮子はそっと小太刀を携えて言った。
「ひとりより、たくさんの人に見てもらった方がお花さんもうれしいって。」
 邪気のない言葉は、時として残酷に響く。人に見てもらうことをよしとした亡き弟と人前に立つことすら苦手だった兄の姿が交差した。小太刀は沈黙を守った。
「でも、褒めてくれる人がいなくても花は咲くことが好きなんだって。」
 微妙に言葉を換えて風は語る。幼子には巫女の力が宿っていた。
(だが、もう、遅い。わたしには伝える術がないんだ。)
「宮子がいるわ。」
 その瞬間、ことりと小太刀が土に着いた。菜の花の中に幼い姫の身体が横たわる。

 夕方遅く、家人総出で探し回った末に、父、不比等までが加わり、菜の花畑で宮子と草壁皇子から託された小太刀は見つかった。昏々と眠った中でも小太刀を抱きしめて離そうとしない娘の姿に不比等はおぼろげな将来の展望を見いだした。
「今宵のこと、決して口外するでないぞ。」
 家人にも厳しく言い含め、不比等は小太刀をさりげなく奥の私室へ持ち去った。
「いずれその日が参りましたら、宮へお連れしましょうぞ。」
 再び小太刀は壁に掛けられた。今度小太刀が外される時、それは小太刀が藤原の家を離れるときである。その時、願わくば宮子と共に宮廷にありたいものだ。計算高い父の手腕に期待して、小太刀はしばしの眠りについた。

 西暦689年4月13日、鵜野皇后期待の息子、草壁皇子が亡くなった。春にしては強い風を感じながら、宮子は葛城の里で花摘みに興じていた。


おわり
藤原宮子(?-754)
藤原不比等と賀茂比売の娘。文武天皇の夫人として入内、首皇子(聖武天皇)を生む。だが、出産を前後して心を閉ざしてしまい、皇子の育児には関与していない。奈良の大仏開眼の頃、復調。天皇の母として生涯を終える。

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