一夜桜


(もうすぐ、もうすぐだわ。)
信号が変わると同時に往来の流れが変わり、その先の学校から授業を終えた生徒達が一斉に街へ繰り出してくる。
賑やかなその集団の中に少女の目的の人物がいた。
(ほら、見えた。)
友人達とたわいない話をしながら通り過ぎようとしている少年に彼女の視線は固定されている。
だが、彼は少女の視線に気付くことなく通り過ぎていく。
「あー、うっとおしい天気だな。」
「まったくだ。おい、タクミ。見ろよ、あの空。」
(タクミ?それが、あなたの名前なの・・・。)
タクミは、憂鬱そうにどんより曇った空を仰ぎ見た。
「今夜あたり、降るつもりなんじゃないのか。」
彼らはため息混じりで通り過ぎていっただけだが、少女は真っ青になって立ち尽くしていた。
(今夜?そんなの、早すぎるわ。)
そのことで頭はいっぱいになり、呼びかけられていることに気付くのが随分と遅れてしまった。
「ちょっと、あなた、聞こえないの!?」
無視されていることに対する怒りをまともに喰らって、少女は呼びかけていた人と向き合った。
服装からたぶんタクミと同じ学校の女生徒だと思われる。
顔を合わせた瞬間、少女はくるりと向きを変えて走り出した。
「あ、待ちなさい!」
初対面のはずの人なのに、なぜか逃げ出してしまった。
一方、無視された上、いきなり逃げ出されたことで、その生徒、マユリは今度こそ頭にきたようである。
「鞄、お願い!」
一緒に歩いていた友人に乱暴に鞄を押し付けると、猛然とダッシュした。
二人の間の距離は大したものではなかったから、マユリはすぐに追い着いた。
少女の手首を掴んだ瞬間、その冷たさに思わずたじろいだが、離すまでには至らなかった。
むしろ驚きのあまり、掴んだ手に逆に力が込もってしまったくらいである。
「い、いたい。」
微かな悲鳴にマユリは慌てて力を緩めたが、離すようなことはしなかった。
「あなた、いったい何なの?なんでタクミにまとわりついてるのよ。」
開口一番、険のある声が容赦なく浴びせられる。
「そんな・・・・こと・・・。」
言いかけて、少女は、驚いたようにマユリを見返した。
(私がタクミを見ていたことを、どうして知っているの?)
「タクミは他人から追いかけられるの、すごーーーっく嫌ってるの。
特に、あなたのようなミーハーにまとわりつかれるのは辟易してるのよ。」
マユリはお構いなしで、ポンポンと言葉を放っていった。
「わ、わたし・・・私は・・。」
「だいだいね、タクミに何かを期待したって無駄なんだから。」
「期待なんかしていない・・・何も望まない・・・。望んでなんかいない・・・。」
元々小さな声が、益々か細くなっていく。
「だったら、まとわりつくの、止めなさい。」
「・・・まとわりついてなんか、いない。」
初めて少女は、はっきりマユリと向かい合った。
「見てただけなの。ただ、見ているだけでいいの。彼が気づいてくれたから・・・。」
「あのねぇ、それが・・・。あら、雨。」
ぽつり、ぽつりとふたりの身体に天上の雫が落ちてくる。
「やだ、降ってきた。」
マユリは慌ててハンカチでパタパタと雫を払い出した。

「マユリ!」
後方から、先刻鞄を押し付けられた友人の声が近づいてくる。
「あー、やっと追い付いた〜。」
肩で息を弾ませ、鞄をマユリにぽんと投げてよこす。
「急に走り出すんだもん。」
「だって、この子が・・・。あれれ?」
そこにいるのはマユリと友人の二人だけであった。
「もう、逃げられたわ。」
「へ?」
「だから、タクミのストーカー。」
「どこに?」
「ここにいたじゃない。金髪碧眼の外国女。」
「金髪?マユリ、ちょっと神経質になりすぎてない?そんな子、あたしは見てないけど。」
「だって、今あたしはその女と話をしてたのよ。」
「はいはい、風邪ひく前に、さっさと帰ろう。」
「もう、今日は散々だわ。」
恨めしそうに雨の降り出した空を睨むと、家へ向かって走り出したのであった。

翌朝、学校直前の信号前で、マユリはタクミと顔を合わせた。
「あ、やっぱりダメだったか。」
タクミは微かな溜め息を吐いていた。
「何がダメなの?」
「桜だよ。」
タクミが指さしたのは、その角に植えられていた桜の木だった。
「昔、田舎にあったのと同じ色の花だったから、気に入ってたんだけどさ。やっぱり、一晩雨に降られたらダメだよな。」
「あ、この色。ホントだ。田舎以外で初めて見たわ。」
「だろ?」
「全然知らなかったわ。でもあれって友好何とかで交換移植した珍しい桜じゃなかったけ。あるとこにはあるものなんだ。」
「うん。僕も最近気が付いたんだ。まだ蕾の頃だったかな、なんか気になってさ。」
「またいつものように、ストーカーかと思った?」
タクミは苦笑混じりで頷いた。
「実際居たのかもしれないけど、僕が気づいたのはこの桜だったから。」
「ふうん。じゃ、満開も知ってるんだ。」
「まあね。昨日、だったかな。雨が降らなきゃ、もう2、3日持っただろうけど。」
タクミの引き寄せた枝先には、若葉の小さな芽が広がりつつあった。
「いいんじゃない。花は咲いてることに気が付いてもらえれば満足だっていうし。おばあちゃんの受け売りだけど。」
「そうだな。この木は若そうだから、当分花を咲かせてくれそうだし。」
「でも、来年は卒業だよ?」
進路先にもよるが、この花を見れる道を歩めるとは限らないのだ。
「街を出るわけじゃないだろ。歩いてこれる距離だし。」
いつになく執着を見せたタクミに、マユリは意外そうな視線を向けている。
けれどもそれ以上、話すことはなかった。
「あ、信号が変わった。おっさき〜。」
マユリが勢い良く学校の門を目指して駆け出していく。
道ばたに散らばる薄緑色の花びらをもう一度名残惜しそうに振り返ると、タクミもまた信号を渡って行ったのであった。

おわり