臥待月(ふしまちづき)
 その知らせを耳打ちされた時、泊瀬王子(後の雄略天皇)は、心当たりがまるでないといわんばかりに眉をひそめた。
「今一度、言ってみろ。」
「和珥臣深目の娘、童女君(おみなぎみ)が身ごもった由にございます。」
 恐る恐る答えた舎人に、泊瀬王子はやはり無言であった。
「あの…。」
 ごくり、と固唾を飲み込むと、舎人はなおも言葉を続けた。
「…いかが取り計らいましょうか。」
 いかがも何も、王子の子を身ごもった采女をこれまでどおりに扱う訳にいかないことは、宮に仕える者なら誰でも知っている。ひとたび子を為した采女は単なる側仕えの使用人ではなくなるのだ。そんなわかりきったことにわざわざ王子の判断を仰ぐのは全く持って愚問としか言いようがない。少なくともその場に居合わせた側近の誰もがそう思った。
 だが、泊瀬王子から返ってきた言葉は舎人の不安を肯定するものだった。
「そのような女は知らぬ。」
 一言のもとに泊瀬王子は童女君とその子の存在を切り捨てたのだ。
「し、しかし、一夜だけではありましたが、王子が童女君を召されたことは複数の者が記憶しております。」
「ほう、一度交わっただけで身ごもったと申すか?」
「全くあり得ぬことではございません。」
 青ざめたまま答えた舎人を泊瀬王子はフンと一瞥し、その座を立った。複数の証人がいると言われても泊瀬王子は童女君の名前はもとよりその容姿に至るまで、何一つ覚えていなかったのだ。言い換えると、童女君はそれほどに印象の薄い娘であり、王子の好みから大きく外れているということになる。泊瀬王子の気性が並はずれて激しいことを知っている側近達は、なおも食い下がろうとした舎人を押さえつけ、そのまま王子の退出を見送った。
 泊瀬王子が認めない以上、童女君は数多く仕える采女の一人に過ぎない。突然に訪れた身体の変調にとまどいながら、童女君は従容として日々を過ごしていくしかなかった。

 各地の有力豪族や皇位継承権を持つ皇族を武力で制圧してきた泊瀬王子には、当然敵も多い。わずかな油断が彼らに反撃の機会を与え、何かと政に仇を為す。だからといって泊瀬王子が守勢にこまねいているはずもなく、彼は常に堂々と人々の前に姿を現した。そのため、この状況を好機として命を狙う刺客が後を絶たず、泊瀬王子の周りはいつも緊迫した空気に包まれていた。
 泊瀬王子を警護するには、まず、彼の所在を常に把握しておかねばならない。剛毅で一所にじっとしていない泊瀬王子の行動は、警備を担当する舎人達だけにのみならず、側近達にとっても頭痛の種だった。勘の良い従者はともかく、要領を得ない臣の中には日がな泊瀬王子の姿を求めて宮内を歩き回ることになる者すらいた。
 側近のひとり物部目大連もどちらかというと泊瀬王子を探し回る側であった。しかし他の側近達と違って、物部目大連はひとつの目安を儲けて舎人達を探索に当たらせていた。
「騒ぎの起こっているところを探せ。」
「はあ。」
「王子がひとたび行動を起こされると、何かしらの騒動を必ず引き起こされる。できれば行動に移される前に未然に防ぐのが上策だが、それが間に合わぬとなれば、速やかに駆け付け、できるだけ穏便に事を収めるのが我らの務めというものだ。」
 ある意味、消極的な探索方法だが、やみくもに探すよりは効率的といえよう。実際、その指針は騒ぎの現場に駆け付けた時、泊瀬王子を発見した経験から出たものだった。
 はたして、今回も物部目大連は宮の奥での騒動に駆け付けた折、狼藉者を捕縛している兵士達に的確な指示を出している凛とした声を耳に捉えた。
「やはりこちらでしたか。」
 声を頼りに近付いた物部目大連は、その人物と目が合った瞬間息を呑んだ。
「違う!?」
 人違いであることはすぐにわかった。何より、年格好が泊瀬王子とまるで違うのだ。物部目大連の前にいたのは、十をひとつふたつ越えたくらいの子供であった。だが、それ以上に物部目大連を驚かせたのは、その子が少年ではなく少女であるということだった。しかも、正確な情報を確認する姿は泊瀬王子の少年時代を彷彿とさせる。
「皆、捕らえたか?」
「いえ、残念ながら数名逃したと思われます。」
「逃亡を許したのか?」
「それはありません。」
「では、倉の中あたりにでも潜んでいるということだな。」
「おそらくは。」
 物部目大連達に気が付いているだろうに、特段の注意を払うことなく目前の捕り物に彼らは集中していた。

 泊瀬王子の面影を宿す少女と兵士の取りまとめ役らしき武人とのやりとりをぼうっと聞いていた物部目大連は、我に返ると、宮の警備を担当している兵士を呼んでくるよう舎人に言いつけたが、伝令を出すまでにその手を遮られた。
「宮の者の手は借りぬ。」
 物部目大連に激しく拒絶の意を投げつけるや、数人の兵士を引き連れて少女は奥向きの建物の中へ姿を消した。
「あ、春日様!」
 出遅れた武人が呼んだ名前に物部目大連は記憶をまさぐった。だが、その場にいた兵士達ともども素早く散開してしまい、心当たりを確認することはできなかった。
 このあたりの棟は、采女の休息所に当たっている。豪族の中には皇族との婚姻繋がりを目的に娘を采女として仕えさす者も少なからずいたから、さきほどの子供もその類かも知れない。
「だが、それにしては、幼すぎる。」
 物部目大連は、泊瀬王子が我が子と認めている者の名前と顔をひとりひとり思い浮かべながら、先刻の少女に該当する子供がいないことに首を傾げた。しかし、他人の空似として片付けるには、あまりにも泊瀬王子に似すぎている。
「もう一度、確認してみる必要があるやも知れぬな。」
 ひとりごちたものの、それより今は、宮に侵入した賊を全て捕らえることが先決である。一度は手助け無用と拒否されたが、臣下として放置しておく訳にはいかないのだ。気を取り直した物部目大連は、宮の出入り口を入念に固めるよう改めて舎人に申し渡したのだった。

 その夜は、星明かりだけが頼りの闇夜だった。賊を刺激しないよう最低限の篝火の下で探索が行われている。その中心にいるのは「春日」と呼ばれている少女である。彼女は賊が隠れていると思われる場所を集中的に包囲し、その枠を縮めていくことでゆっくりと、だが確実に賊を追い込んでいた。
「思ったとおり、あの倉に潜んで逃げ出す機会を伺っている。」
 一般兵士達を遠巻きに配置し、春日は腕に覚えのある少数精鋭の武人を率いて捕縛の機会を待った。
「…来る!」
 時間が経てば経つほど逃げるのが難しくなると判断したのか、倉に潜んでいた賊達が一斉に飛び出した。
「一人も逃さぬ!」
 予測されたとおりの行動に出た賊は、あっさりと捕縛され、抵抗著しき者達は武人達の刃の前に倒された。最後まで執着していたらしい盗品が、倒れゆく賊の懐からぱらぱらと落ちていく。そのほとんどが海の至宝と呼ばれている真珠だった。
「ちょっともったいなかったかな。」
 あるいは弾けるように地面に転がっていく真珠の行方を春日は目線だけで追っていた。その中のいくつかは、春日の足下に散開した。
 春日は足下に転がる真珠をいくつか拾うと、足取り軽く棟へと駆け出した。
「母上!これ、直せますか?」
 少女の立ち止まった先にほっそりとした女性が立っている。差し出された真珠を受け取ろうとした刹那、それまで闇夜であった空が急に明るさを増した。
「月が出てきたようですね。」
 しんみりとした声に重なって、深夜の月がゆっくりと辺りを照らし出す。ふと顔を上げた女性と振り向いた少女の顔が月光の中に浮かび上がった。確かに親子なのだろうが、母親であろう女性の儚さと娘であろう子の持つ強い輝きがひどく対照的である。散乱している真珠が月光を受け、朝露を思わせる輝きを添えた。

 物部目大連の行動を背景に、深夜の賊退治の一部始終を見ていた泊瀬王子は、散乱した真珠の中にひとりの女の姿を思い出していた。夜伽の相手として侍らしたものの男の相手をするには幼すぎた少女の面影が、目の前の女性に重なった。それでも泊瀬王子の為すがままに受け入れ、深夜の月を無言で迎えた女だった。
「あの時の采女か。」
「お心当たりがございますか。」
「知らぬと言ったところで、あの娘を見た後では、それも通るまい。」
 颯爽とした行動力といい、毅然とした態度にあの容姿では、泊瀬王子の血を引いていないと言い切る方がよほど困難である。春日大娘が初めて見た時に感じた印象のとおりの人物であれば、泊瀬王子にとっても白髪皇子(後の清寧天皇)にとっても良い結果をもたらすはずだ。
「いずれ白髪皇子のよき協力者になろう。」
 その一言で、春日大娘は泊瀬王子の娘として認められ、皇族の一員として迎えられることになったのである。それと同時に物部目大連は童女君を泊瀬王子の妃として迎える準備に取りかかった。いつしか深夜に登った月は、夜明けの空に薄まり、淡い月影となって朝焼けの光に消えていった。


おわり
童女君(おみなぎみ)→イメージ画像はこちら
春日の和珥臣深目(わにのおみふかめ)の娘にして、第21代雄略天皇(泊瀬王子)の第三妃です。
しかし、妃として認められたのは、物部目大連が庭を歩く童女君の娘、春日大娘(かすがのおおいらつめ)を見て雄略天皇にそっくりであることを進言してからでした。それというのも、采女として後宮に入った童女君が一夜を共にしただけで妊娠したため、雄略天皇が生まれた子の出自を疑ったからです。
ともあれ、父親似の娘が皇女として認められ、自身も正式に妃として迎えられたのですから、結果オーライといえるのではないでしょうか。
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