春日の愛しけくも(はるひのはしけくも)
 ここ数日、勾大兄(まがりのおおえ)皇子は機嫌が悪かった。この年の春に、父、継体天皇の跡を継いで天皇になったまではよかったのだが、その先に待ち受けていたのは、政務という名の鎖である。プライベートな時間は全くといっていいほどなく、昼夜をあけずして次々と持ち込まれる書類の山に、心底ウンザリしていた。
「まだ、あるのか・・」
 朝から頑張って昼にこの有様では、今夜も自分の宮に帰れそうにないと、勾大兄は深い溜め息をひとつ漏らした。いったい今日で何日帰ってないだろうか?それでなくとも即位後、政治的配慮とやらで続けざまに3人の妃を迎えるハメになり、皇太子時代からの愛妻である春日山田皇女−通称、春日(かすが)−と過ごせる時間が少なくなっているのである。
「今夜こそは春日と一緒に過ごすつもりだったのに」
 今夜は即位後、初めての満月である。ふたりが初めて一夜を過ごした時も同じく満月であったから、是非とも同じように過ごしたいと思っていたのだが、どうも無理そうな感じである。
「どうしたものか」
 溜め息を吐きつつも、次の書類に手を伸ばす勾大兄であった。
「これは…」
 勾大兄は吸い寄せられるように、その書簡を読み進んだ。それは、特に急を要する内容のものではなかったが、非常に彼の個人的願望に訴えるものがあったのだ。
「うむ、これは使えるかもしれないな」
 勾大兄は二度、三度とその文面を読み返すと、いくつかの書簡を書き上げ、何食わぬ顔をして舎人を呼んだ。
「この書簡を直ちに大連(おおむらじ)に渡し、必要な手続きに入るよう伝えよ。また、皇后にもその旨伝え、直ちに参内するよう伝えて参れ」
 舎人が去ったあとは、準備が整うまで待つばかりと、勾大兄は大きくひとつ伸びをした。

 天皇から参内せよとの知らせを受けた春日は心当たりがなく、首を傾げることしきりであった。
「本当に私に参内せよと仰せなのですか?」
 届けられた書簡は確かに夫の手によるものだが、呼び出しの理由というのが春日には今ひとつ理解できないでいた。先の天皇から賜った倉の御名代に春日の名を与えるというのは嬉しいことなのだが、その理由が非常に曖昧なのである。
「別に私が参内するような内容とも思えないけれど…」
 ようやく支度が整い、いざ出かけようとした矢先、春日を訪れた客があった。
「ご無沙汰しております、皇后様」
「まあ、天国(あめくに−後の欽明天皇)。そなたから皇后などと堅苦しい呼び方をされると悲しくなります。」
 夫の年の離れた異母弟であるこの少年は、春日を実の母のように慕い、皇太子妃である頃からずっと親しく付き合ってきた間柄である。
「でも、けじめを付けろと周りの者が…」
「私の宮ではそのような遠慮は無用ですよ」
 皇后となっても、今までどおり心やすく接してもらえたことで、天国は内心ほっとしたようであった。
「どこかへお出かけですか?」
「ええ、天皇から急なお召しがあって、これから参内するところです」
「それは、また・・・。何かあったのかな?」
 特に急ぎの案件もないことだからと、天国は、役所を休んで春日の宮を訪れたのである。無論、昨日の今日だからといって、状況がそのままだとは限らないが、何かあれば当然自分にも出仕するよう呼び出しがかかるはずだ。しかし、そのような話は舎人からは聞いていない。
「まあ、天皇のお召しとあれば致し方ありませんが」
 残念そうな口振りに、春日は気の毒そうに目を伏せた。すると、天国の方が、思い付いたように手を打って供を申し出た。
「あ、それでは、私を参内のお供に加えていただけませんか?皇后様に不都合がなければ、このまま内裏までご一緒させてください」
「皇子様にそのようなことをお願いしては申し訳ありませんわ。それに、お休みを取ってまでおいでになったのですもの。何かご用がおありだったのではありませんか?」
 にこやかに微笑んでいる春日に、天国は「別に急ぎの用事ではありませんから」と答え、早速に自ら指示をだして外出の供揃えに気を配りはじめた。
 春日には子供がいない。それもあって、自分を慕ってくれている利発な天国を息子のようにかわいがり、また頼りにしている面が無きにしもあらずだった。
「では、一緒に参りましょうか」
「はい!」
 嬉しそうな天国に付き添われて春日は参内した。

 天皇のお召しがあったからといって参内後直ちに見えれるものではない。控えの間で春日は天国と話す時間が持てた。
「実は、珍しい玉が手に入ったので、お持ちしたのです」
 ひとしきり話が終わった頃、天国は照れくさそうに懐から小さな包みを取り出して広げて見せた。
「これなのですが、男の私が持つより、皇后様の飾りのひとつにでも加えていただいた方がいいかと思いまして」
 天国は、一応あたりを憚って、春日を皇后と呼んだ。彼の手には、おそらく大陸渡りであろうと思われる、見事な翡翠の玉がある。
「まあ、なんと見事な…」
 日の光に透けて美しく輝く玉に春日は思わず感嘆の声を漏らした。
「皇后様の御髪によく似合うと思ったのですが…」
 天国は玉を手にとって春日の髪に添えかけさせた。
 と、その時、ついっと別な手が伸びて天国の翠色の玉を払い、代わりに白い大玉の真珠が添えられた。
「春日のぬばたまのような黒髪には、こちらの方がよく似合うぞ」
 にこやかに、しかし、その反面息せき切った様子で勾大兄が現れたのである。
「天皇様!」
 驚きの声と共に慌てて平伏した春日に、勾大兄は手を取って身を起こさせた。
「いつもながら美しいそなたを見て安堵したぞ。このところずっと顔を見ていなかったのでな」
 勾大兄は自ら案内して春日に席を勧めた。
「急なお召しと伺い参内したのですが」
「なに、少しばかり献上品があってな。私より春日の方が受けるのに相応しいと思ったので来てもらったのだ」
 当惑している春日に、勾大兄はくったくなく返した。
「献上品、ですか?」
「うむ。上総国伊甚の国造から、真珠が贈られてきてな。これはその中でもいっとう大きくて、春日の髪に飾るに相応しいと目星を付けていたのだ」
 勾大兄の手には、大粒の真珠が握られている。
「左様でございますか」
 春日は上機嫌な夫の表情に、何気なく相づちを打ったが、次の瞬間、ふと「献上品」という言葉にひっかかりを覚えた。天皇に献上品があること自体は、別に珍しいことではない。ましてや勾大兄は即位後間もないこともあり、各地からお祝いを兼ねた献上品が殺到していることは耳にしていた。しかし、天皇に献上されたものは、それなりの手続きを踏んでからでないと勝手に持ち出すことはできない決まりになっていたはずである。
「上総国といえば、はるか東国と聞いておりますが、随分と早くに献上されたのですね」
「確か、昨日到着したばかりでは?」
 つと口を挟んだ天国を、勾大兄は鼻先で笑い、あしらった。
「天国が持っている玉も、昨日、筑紫から到着したばかりであろう?」
 春日は頭の中に上総と筑紫の国の位置を思い浮かべその遠さに驚いたが、それ以上にどちらも昨日の今日で到着したばかりの品と知って訝しんだ。一方、勾大兄と天国とは、春日の心配をよそに互いの玉の取り扱いについて何やら屁理屈を言い合っている様子である。
「兄上、いえ、天皇様と違って、私のは、個人的な土産としていただいたものですから」
「そうであっても、皇子としての礼は取らねばなるまい?」
 たとえ個人宛であっても皇子としての天国に公に献上された物であれば、それなりの手続きを踏まねばならないのだ。今日、役所を休んでいる天国がそのような段取りを踏んでいるはずのないことは一目瞭然であった。
「目録にさえしっかり記録しておけば、私の場合は問題にはなりません。その点、天皇様の場合とは重みが違います」
 妙な自信を持って胸を反らせた天国に勾大兄も負けてはいない。
「だから、私が春日を呼び出したのは、皇后への正式に献上品として受けてもらうためであり、ここに持ってきたのは、どんなものかを先に見せたかったからで…」
 ふたりの口振りから、どちらも現地点に置いては、便宜的な扱いであるらしいことは春日にもわかった。それだけに、ふたりはひとしきり屁理屈を捏ねたあとは、それ以上互いを追求することを止め、どちらともなく溜め息を吐いた。
「さて、そろそろ意見も出尽くしたようですので、執務にお戻りいただけましょうや?」
 静かになった部屋に、忽然と大連大伴金村の声が響いた。
「大伴、いつからそこにおったのだ!」
 勾大兄は取るもなおさず、後ろ手に回し、春日の手に真珠を滑り込ませた。
「火急のお召しと、舎人から伺い、急ぎ参内したところ、天皇様の姿が見えず、どうしたものかと思案しておりましたら、こちらから元気のよいお声が聞こえて参りましたので」
 大伴が涼しい顔で答えたところをみると、どうやらここでの話を最初から聞いていたものと思われる。春日と大連双方に舎人を使いに出したのは、ほぼ同時であったから、考えてみれば同じくらいに到着しても不思議はない。
「天皇様におかれましては、先の真珠を皇后様への正式な献上品として扱いたいとのご希望をお持ちのご様子。また、皇子様におかれましても、先刻、筑紫からの献上品をお持ちであると拝察いたします。臣といたしましては、お二方のご希望に速やかに沿うよう、早速に取り計らいたいと思いますが、ご協力いただけましょうか?」
 ふたりの希望に添うことを全面に打ち出しながらも、その内実は、両者に執務に戻れとの催促である。
「各地からの献上品を受け入れることも大切な仕事でございますぞ。ことに天皇様におかれましては、屯倉(みやけ)の設立に力を注いでおられる最中にございますれば、なにとぞお戻りの程、お願い申し上げます」
 大伴はうやうやしく勾大兄に頭を下げると、つと先に立って促した。
「まだ、皇后との話は終わっていないぞ」
「正式な詔が整うまでに今しばらく時間がかかりましょう。皇后様にはもうしばらくお待ちいただくことになりますが、その時間がどれほどかかるかは天皇様次第でございます」
 痛いところを突かれて勾大兄はぐっと言葉を呑み込んだ。
「ふん、まあ、どのみちやらねばならぬことだ。こら、天国。そなたも手伝え。ふたりで作成した方が早くできる」
「ええ!?今日、私はお休みをいただいて…」
「さきほど大伴が申したであろう。早急に手続きを取るから協力しろとな」
「しかし、私は皇后様のお供で来ただけですし…」
「そなたの玉は、ほれ、このとおり春日の手の中にある」
 勾大兄は、ひょいと天国の手から翡翠の玉を取り上げると、そのまま春日の手に押し込めた。
「早々に手続きを踏まねば、春日は宮から戻れぬぞ」
「う…」
 勝ち誇った勾大兄に天国はがっくりと首を落とした。
「では、皇后様、今しばらくこちらにてお待ちくださいませ。月が出る頃までには詔が整うと思いますので」
 うやうやしく一礼すると、大伴は勾大兄と天国を促して部屋から出ていった。

「本当に・・・。」
 その先は言葉に出さなかったけれど、春日は明らかに困惑していた。
(困った人たちですこと。)
 春日の手のひらの上では、ふたりから贈られた真珠と翡翠の玉が転がっている。要するに、ふたりとも献上品に理由付けて、一方は春日を訪れ、またもう一方は呼び出したということなのだ。堅苦しい身分が邪魔をして、何か理由がなければ、昔のように気軽に会うこともままならない窮屈さへのささやかなる反抗とでもいったところであろうか。大連に引き連られて渋々ながらに出ていったふたりは、今頃額を付き合わせて目録作りに精を出していることだろう。
「今宵は、確か、満月でしたね。」
 久しぶりに月を眺めながら語り合える楽しい夜になりそうだと、春日はいつしか心が弾んでいた。


おわり
春日山田皇女→皇女様のイメージ画像はこちら
仁賢天皇の皇女にして、第27代安閑天皇の皇后様です。
夫との間に子供はなかったけれど、義理弟である第29代欽明天皇とは仲がよかったらしい。
この時代の例にもれず、謎の多い方であります。
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