失われた時間
 十九世紀のロンドンは、活気に満ちあふれた街だった。そこに暮らす人々も活気に満ちている。なかでも、この男ロバート・ウィルソンは、ロンドン社交界の一部のご婦人方にひどく人気があった。彼の行く先々に美しい女性達が集まり、彼を囲んで話題に花が咲く。そのいっときいっときを、ロバートはそつなく過ごし、時には言葉巧みに恋を誘う。だが、ロバートは社交界の恋をゲームの駆け引きとしか思っていなかった。相手の女性だって秘密のゲームと割り切っているはず。少なくともロバートはそう思っていた。
「ねえ、ご存じ?」
 そんなひそひそ声で始まる会話をロバートは自分の事を噂していると知っていながらどこか楽しんでいる風がある。彼はあたかも他人事のように自分のうわさ話に加わるのだ。眉一つ動かさぬ冷徹な瞳で…。
 だからといって、ロバートが女性を卑下しているかと言えば、決してそんなことはない。彼はすべからく女性を尊敬し愛していた。よくいえば、博愛主義者なのだろうが、彼には恋する気持ちが欠落していたのである。
 そんなある日、ロバートは馴染みのサロンへ向かう途中、ひとりの婦人に目が吸い寄せられた。淡い若草色のドレスを身にまとい、品のよいレース地の洒落た日傘を差したブルネットの若い娘。彼女もまたどこかへ出かける途中なのだろう。彼とは反対方向へ向かって歩いている。
「世間とは広いものだな。まだ私の知らない素晴らしきご婦人がいようとは。」
 ロバートはすれ違いざまに声を掛けてみようかと懐から懐中時計を取り出して眺めた。一足一足、彼女が近づいてくる。ロバートもまた一歩一歩、歩み続けていく。そして、あと一歩ですれ違おうかというとき、その現象が起こった。
 それは現象と言うより、爆発といった方がいいかもしれない。二人の距離がぎりぎりまでに近づいたとき、そこから白熱の炎が吹き出して、一気にその場の景色が変化していったのだ。
 景色の変化といっても、別の場所へ飛ばされたとか、そう言った意味とは違う不思議な感覚だった。
「ここはどこだ?」
 そこでは全てのものが白い世界の中に歪んで存在していた。白濁色の世界というには無理のある透明な輝きを含んだなかに見知ったものが存在を許されている。およそ摩訶不思議な景色がロバートの視界に映し出されていたのだ。
−アナタハ、ココヘキテハ、イケナイヒトダ。
 頭の中に何か響いてくる。
−アナタニコノセカイハ、ユルサレテイナイ。
 頭の中へ直接話しかけるように言葉はしみ込んだ。
−アナタハ、セイサイヲウケネバナラヌ。
「制裁?」
−ダカラ、アナタカラ、ソノジカンヲトリアゲル。
「時間を取り上げる?いったい何のことだ。」
−恋スルジカンヲ、トリアゲル。
 不思議な世界での会話はまさに夢見心地で進んでいった。だが、それは一方的なものでロバートの答えにはなり得ていない。
 やがて無表情な言葉が消えると世界は再びロバートの知っている世界へと戻っていった。

 リンゴーン、リーンゴーンと華やかに教会の鐘が鳴り響く中、ロバートは満ち足りた表情で傍らの新婦をみやった。あの日、街角で出会った女性と彼は今日、結婚する。ロバートはその女性を愛していた。出会った瞬間から「この女性と家庭を持つ」と心に決め、愛を育ててきたのだ。
 けれども、二人の間に狂おしいまでに激しい恋も、切ないまでに哀しい想いも存在しない。あるのはただ、互いを愛しいと思う優しい時間だけ…。
 チクリと刺した胸の痛みは心の中に何かが欠落しているという警告だ。しかし、ロバートはその痛みに気が付くことなく、傍らの花嫁と幸せな口づけを交わしたのだった。


おわり

「風の王国」のキリ番リクエストで描いて頂きました。
ヴィクトリアンでSF調のイメージをお願いしました。
CG:みづき桂様、創作:NARU
back to index