雨夜の月
 気象衛星から送られてくる映像を追いながら、多くの気象予報士達は首を傾げていた。彼らの目は一様に日本よりの太平洋沖で発生した熱帯性低気圧の動きをみつめている。
 北半球における気象の変化は、地球の自転と風の流れに従って、多くの場合、西から東へと移り変わっていくのが普通である。ところが、今、彼らが追っている嵐の源は、日本を起点にアジア大陸へ異様な速さで移動しているのだ。
「非常識も大概にしろ!こんな低気圧があってたまるか!」
「だからといって、事実には違いないだろう。実際、これだけの者が見てるんだし、たまたま通過点上に居合わせたキャスターも悪天候の中でニュースを読み上げてるんだ。これ以上、確かなことはない。」
「しかしだな」
「お、どうやら落ち着きそうだぞ。かなり欧州寄りだが、アジアの中にはちがいない。」
 それまで活発な動きを見せていた雲の渦がゴビ砂漠を越えたあたりから急速に収縮しはじめたのである。
「このまま消えてしまうのかな。」
 ぽつりと呟かれた声に、「砂漠に台風よりマシだろう。」とあちこちから同意の声が漏れてくる。
「まあ、通過途上も大した被害はなかったことだし、うちの管轄からも離れてるんだ。これ以上、こいつに付き合ってる暇はない。」
「それもそうだな。それじゃあ、これからの天気を予想するか。」
 それまでのざわめいた雰囲気が一変し、真剣な緊張感で部屋は満たされた。

 日本中の気象予報士を困惑させたとは少し大袈裟な言いようだが、その原因となった低気圧の雲の中心にひとりの少年がいた。彼は文字どおり渦の中心から現れ、古い城下街の面影を残す煉瓦造りの煙突の上に降り立ったのだ。手には桂の木で作られた杖を持っている。杖の先には不可思議な宝玉がはめ込まれており、それが闇の中に淡い緑色の輝きを放っていた。
 少年は風雨の中にあっても怯えた様子はなく、落ち着いた面持ちで一度だけ杖を左から右へと薙ぎ払った。
「我が親愛なる下部達よ、友として我の願いを聞き届けたまえ。」
 最初に応えたのは風だった。闇夜を縦横無尽に吹きすさび、空を覆っている雨雲を蹂躙していったのだ。強風に煽られた雨雲が分断されるにつれて少しずつ、だが確実に、月の光は地上へその輝きをおとしはじめた。やがて、薄くなった雲の隙間からぼんやりと青ざめた月の輪郭が現れる。
「姉上。ツクヨミの姉上、聞こえますか?」
 少年の呼びかけに、月の光が淡い銀色を帯びた。
「よかった。」
 少年は心から安堵した様子で年相応の無邪気さを取り戻したようだ。その一方で、年端に似合わぬ堅い口上を返している。
「ツクヨミの姉上には、わざわざ異国へお運びいただくようなお手間を取らせて申し訳ありません。でも、ここより他に相談できる場所を思いつかなかったんです。だって、あれでは全部、アマテラスの大姉上に筒抜けなんだもの。いくら大姉上が治めているからといっても、僕にだって意地があります。」
 立派な口上とは裏腹に、子供っぽい様相を見せた弟スサノオにツクヨミは優しく微笑んでみせた。青ざめた月の光がますます金色の光を帯びて輝きを増している。
「お願いします。大姉上との約束どおり、神剣を取って参りますので、ツクヨミの姉上の下でヤマタノオロチと勝負させてください。」
 少しも臆することなく、恐れを知らぬ少年の瞳が満月を見上げていた。

 太陽の化身であり、全ての神々の頂点に立つアマテラスは父イザナギの命により昼の世界を治めている。同様にツクヨミは夜の世界を、スサノオは根の国を任されていた。
 三姉弟はそれぞれに与えられた役目を最初のうちこそ立派に果たしていたのだが、如何せん末っ子のスサノオは泣き虫で、彼が泣くたびに涙が地上に溢れ、ついには海を形成してしまうほどに溜まってしまった。それでもスサノオの泣き虫は納まらない。いつしか海の面積は陸地のそれを越えてしまったのである。
 ここに至ってさすがにアマテラスも放置できぬと妹のツクヨミと相談して、スサノオに嫁を取らせることにした。形(ナリ)こそ少年のままだが、年齢からいけば十分すぎるほど成人に達している。
 アマテラスとツクヨミがスサノオのお守り役として白羽の矢を立てたのはクシナダ姫だった。スサノオより遥かに子供っぽい彼の姫君に筋金入りの泣き虫のなだめ役が果たして勤まるのだろうかと周りの神々は不安を隠しきれなかったが、そこは弟の好みを知る二人の姉のこと。人選に誤りのあろう筈もなく、いとも簡単にスサノオとクシナダは恋に落ちた。本来ならこれで、めでたし、めでたしのはずなのだが、あまりにも速やかにコトが運びすぎて面白味に欠けると、アマテラスが口を挟んだのだ。
「どうせなら、生け贄にされかけた姫を救うくらいの演出が欲しいわよねっ。」
 思い付きで提案するのは勝手だが、命をかけて闘うのはスサノオなのだ。当然生け贄の対象になるクシナダだって危険なことは、この上ない。それなのに当事者のふたりときたら、「是非やりましょう!」と大乗りきりで、悪役に抜擢されたヤマタノオロチこそいい迷惑であった。
「ま、これも大姉上の要望だから諦めてくれ。その代わり、苦しまないよう、良い気分のまま、一撃で黄泉に送ってやるから。」
 容易く黄泉へ送るには、昼の世界より夜の世界の方が都合がよい。イザナギがそれぞれの支配権を定めたときに、お互いの圏内には干渉しないという条件を付けてくれていたことも幸いし、スサノオはヤマタノオロチとの勝負を夜の国で行えるようツクヨミに頼んだ。
 それだけのことを頼むのに、なぜスサノオが嵐に紛れてまでアマテラスの本拠地を離れ、月を最高神の一人として崇める異国にまで来たかというと、この勝負、言い出しっぺのアマテラスが一番見たいと望んでいたからである。
「相手はヤマタノオロチだぞ。少しばかり大きい蛇ごときに僕が負けるはずはないけど、楽勝できるほどの余裕もない。」
 間違っても無様な姿を見られたくないという男の意地と、ほんの少し早く生まれただけで長姉として威張っているアマテラスへのささやかな反抗心がスサノオに件の行動を取らせたのである。それにツクヨミが協力してくれたのは、彼女がアマテラスを慕う妹であるより、スサノオに甘い姉でいる方が何かと面白いからという理由に他ならない。
「ヤマタノオロチさん、本当にごめんなさいね。スサノオと結婚して根の国に落ち着いたら、また一緒に遊びましょうね。」
 心から謝ってくれたクシナダが、約束の証としてそっと頬にしてくれた口づけに満足して、ヤマタノオロチは樽酒に酔いしれスサノオに首を刎ねられたのだった。

おわり
朧月夜に佇む少年
Special Thanks by ぽち様
泣き虫スサノオ君のラクガキ→GO!
CG:ぽち様、創作:NARU
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