カフェタイム〜夢ひとり〜
大きな銀杏の木を軒先に持つ喫茶店「銀杏」は、この界隈では少しは名の知れた待ち合わせ場所である。
駆け出しのジャーナリスト、藤原美弥子がこの市に来るのは初めてという考古学者、三輪武彦との待ち合わせ場所にそこを選んだのは、そこなら迷わず来れるだろうと気を利かせたつもりであった。
なにしろ出先でいきなり割り込んできた仕事である。
歴史と名の付く物とは学校の門を出る時にきれいさっぱり置いてきたつもりだったから、美弥子はこの仕事を引き受けるのにはっきり言って躊躇いがあった。
第一、三輪武彦なる考古学者とは面識もなければ、その名前すら聞いたことがなかったのだ。
それでも仕事とあらば、予備知識がなかろうと会わなければならない。
「ここからだと、だいたい同じ頃に着くはずね。」
予定の変更を会社に再確認してから美弥子は「銀杏」へ向かうべく急ぎ足で歩き始めた。

「いらっしゃい・・・。いつもの席、開いてますよ。」
喫茶店のマスター、阿部文武が美弥子のお気に入りの窓際の席に視線を走らせにこやかに出迎えてくれた。
「今日はメリオールでお願いします。」
美弥子とは幼馴染みでもある文武は軽く頷くとカウンターの奥へと入っていった。
ドリップで注文しないときは、仕事中であるとの暗黙の了解が二人の間にある。
「銀杏」を待合わせ場所にしたのは、とっさに思いついた場所がそこしかなかったということもあるが、例え相手に待たされることがあっても退屈しないですむすべがそこならあるからだ。
それらしい待ち人が店内にいないことを確認すると、美弥子はほっとしたようにゆったりと席に着いた。
たいていの場所では席に着くとどこか不自然な姿勢に体が悲鳴をあげるのだが、この席は違う。
家にあるどんな椅子よりも座り心地がよかった。
それもそのはずで、彼女は知らなかったが、この椅子だけは美弥子の体に合わせて高さが調節してあったのだ。
いうなれば美弥子の体に合わてあるのだから、座り心地が良いのはある意味当たり前だった。
仕掛け人が文武であることはいうまでもない。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ。」
いかにも営業中という顔で文武は、メリオールからコーヒーをカップに注ぎ去っていった。
シュガーポットとお揃いの真っ白な磁器製のコーヒーカップから温かい香りが上気している。
秋の柔らかな黄金色の光を全身に感じながら、美弥子はお気に入りのコーヒー、モカにゆっくり口を付けた。

春と秋は人にとって過ごしやすい季節だと言われているが、その表情は大きく異にしている。
美弥子は春の方が好きだったが、秋の木漏れ日の方が彼女にはよく似合う。
少なくとも文武はそう思っていた。
いつも仕事で人と待ち合わせている時には、手帳なりをめくって必ずといっていいほどこれから会う人物の予習をしているのに今回は特段する事もないらしく、美弥子はぼうっと頬杖を付いて外を眺めていた。
「珍しいこともあるもんだ。」
ちらりと窓際に視線を向けた文武の呟きは美弥子にまで届かない。
いったい誰と待ち合わせているのか、少なからず気になりながらも文武は黙々と夕方のラッシュに備えて下ごしらえをしていた。

「相変わらずこまめね。」
遠鳴りに美弥子の声が聞こえてきた。
「何がだ?」
文武は包丁を持ったまま顔だけを声のした方に向けた。
「だって、それ毎日しなくてもいいことでしょ。そのために特大の冷凍庫まであるのに。」
料理の下ごしらえは、冷凍をうまく利用すればまとめ作りが可能なのだ。
それを文武は、冷凍せずに毎日作っている。
「それはそうだけど、うちでそれをやったら、午後からすることがなくなるだろ。」
「銀杏」は喫茶店として看板を掲げてはいるが、一番忙しいのは夕方、市井のレストランと大した違いがない。
儲けも当然夜のディナーとしての方が多いのだ。
そして夜が忙しい分、昼間は暇であった。
「でも、わからないな。それだけ下ごしらえとかこまめにできるのに、どうして肝心のメインが作れないのかしら。」
「そうだろ。不思議なんだよな。」
夜のメニューにコックとして腕を振るっているのは文武ではなく、その姉である。
「で、今夜は?」
「うーん、仕事次第かな。」
美弥子の待ち人はまだ来ない。
「まさか迷ってるってことないわよね。ここへは初めて来るとは聞いたけど。」
美弥子は少し身を乗り出すようにして窓から道ゆく人を覗き込んだ。

「銀杏」の入り口は2カ所ある。
表通りに面した文字通りの入り口と、横道から入れるようになっている小さなドアがあり、西日が入り込んでくるのは小さな入り口の方である。
「ここかな?」
扉が開いて、夕方の太陽と一緒にまたひとり、「銀杏」に客が訪れた。
きらりと陽光が美弥子の目を弾いた。
反射的に瞼を閉じた美弥子は、不思議なざわめきを耳元に感じた。
木の葉が風にこすれ合うような音にも似ているが、外からの音ではなく、もっと奥の深いところから響いてくるようであった。
同時に確かにそこに座っているのに、体に存在感がなくなっていく。
まるで夢の中に引き込まれているような捕らえどころのない感覚が美弥子を包み込んでいくのだ。
そして美弥子はその感覚を知っていた。
普段は忘れているのだが、幼いときから突発的に夢に見る銀色の孤独な世界の中に白昼堂々と入り込んでしまったようである。
(出口がない?)
意識だけがその中にあるようで、美弥子は言いしれぬ不安におそわれた。
(恐怖よりも不安を感じたということは、まだ大丈夫。)
いつの間にか、もうひとりの自分が顔を覗かせている。
(宮子?そこにいるの?)
夢の中だけに現れる「宮子」の出現に美弥子は戸惑いを禁じ得なかった。

宮子は美弥子の前世の姿である。
まだ物心着かない幼い美弥子の夢の中にある日突然現れ、宮子が前世で為しえなかったことを美弥子が終結させなければならないのだと、一方的に宣言したのがふたりの出会いの始まりだった。
自我を持ち始めた頃、そんなことは信じないし、自分とは無関係だと突っぱねた美弥子を、宮子はそれでもいいと笑っていた。
(なんで信じろって言わないの?)
不思議に思って問うた美弥子に、宮子は「本当に私の存在を否定するなら、美弥子には見えないし、感じないから。」と微笑むだけだった。
(そんなこと・・・。)
冗談ではないと、美弥子は言いかけて、ふいに口をつぐんだ。
自分のことを特別に霊感があるとか、感が強いとか思ったことはないが、宮子の存在をなぜか否定することができない自分がいたからである。
(認めろとは言わないわ。否定しないでくれれば、それでいいの。)
宮子はどこまでも消極的な存在だった。

美弥子はこの地の出身ではない。
小学生の半ばに父親の転勤で訪れ、そのまま過ごして現在に至っている。
ここに引っ越してくるまで、宮子は美弥子の夢の中に頻繁に現れていたのだが、ある日を境にほんの時折現れる程度の存在に変わっていった。
(阿部君も、宮子に関係あるの?)
気が付いたのはずいぶん経ってからだった。
宮子は、夢の中でやはり微笑んでいるだけだった。
阿部君から文武へと呼び方が変わった頃、夢の中に宮子は再び現れた。
(もうひとり、いるの。)
(もうひとり?)
ひとりぼっちの夢の中で、宮子はぽつりと漏らした。
(彼が来たら、時が回り出す。それまでは、美弥子ひとりの夢の中だけ。)
夢の中の出来事は夢から覚めた時には忘れている。
そしてそのとおり、美弥子は今の今まで忘れていた。
この銀色の世界は宮子が何かを美弥子に伝えたくて、強引に引き出したものらしい。
(彼が来たわ。)
(彼?)
(そう、私を守護していた・・・でも、あなたにとっては、わからない。・・・。)
宮子の声が次第に遠くなっていく。
(宮子?)
急速に宮子の存在は美弥子の中から消えていき、美弥子は銀色の世界の中にひとり取り残された。
(怖い・・・。)
夢の中で、美弥子は初めて恐怖を感じた。

「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね。」
文武の穏やかな声が波紋のように美弥子の中に広がってきた。
その瞬間、美弥子は銀色の光が弾けたような感覚に囚われた。
美弥子の視界に、横手の扉から店に入ってきた客が飛び込んできている。
「やだ、私ったら・・・。」
カクンと下がった顎に、美弥子は自分が居眠りをしていたのだと密かに苦笑した。
「藤原さんですか?」
躊躇うことなくまっすぐ美弥子の席まで歩いて来たその客は、人好きのする丸っこい顔立ちをしていた。
「そうですが。」
美弥子は彼を斜めに見上げて返事をした。
「ああ、やっと会えた。遅れてすみません。」
困惑している美弥子とは対照的に、彼はうれしそうに、だが、どこか申し訳なさそうに頭をぺこりと下げた。
学者というと、つい神経質そうで青白くひょろっとしたイメージを描いていたのだが、そこに現れた三輪武彦なる考古学者は大柄でがっちりした体格のどこかのんびりしたところのある青年だった。
本当は立ち上がって挨拶すべきだと頭ではわかっているのだが、美弥子の体は椅子に縛られたように動けなかった。
じっと座っているだけに見える美弥子に特段気を悪くする様子もなく、彼は名乗った。
「えーっと、三輪です。」
その名前を聞いた瞬間、美弥子の体は嘘のように自由を取り戻した。
ガタンっといつもの美弥子らしからぬ、いささか乱暴な音をさせて立ち上がると、名刺を差し出して挨拶を返した。
「藤原です。」
美弥子の名刺を受け取り、彼は同時に空っぽになっているコーヒーカップに目を落とした。
「ひとりでティータイムを過ごさせたみたいですね。」
予想だにしない台詞に、美弥子は目を丸くするとぷっと吹き出してしまった。
目の端に映っている文武は、笑い事ではないと憮然としているようである。
美弥子は文武に笑いかけ、改めて三輪武彦と向き合った。
「カフェタイムは、ひとりで過ごすことにしているのよ。」
そして目の前の椅子を勧めて、文武に注文を伝えた。
「紅茶を二人分。もちろん会社の経費でね。」
少しばかり優越感のある視線を武彦だけに向け、文武はカウンターに姿を消した。

おわり
CG:ぽち様、創作:NARU
back to index