砂漠の果てに

名誉を継ぐ者(1)

「姫様、姫様!」
扉を激しく叩く音に、ミタンニ王国の王女ムトネドイェメトは眠い目を擦りつつ起きあがった。
「サライ、どうしたのです?」
それでも養育係であるサライのただならぬ気配に思うところがあったのか、ムトネドイェメトは扉を開けて深夜の部屋に入室を許可した。
「アルタタマが大軍を率いてハブル河を越え、都のすぐ側まで来ているとの知らせが入りました!」
挨拶もそこそこに、サライはミタンニ王国の宿敵「フリ人の王アルタタマ」の急襲を息せき切って告げた。
「父上の軍がハブル河の上流に陣を取っているはずです。いかにアルタタマとてそう簡単にはあの防御は抜けぬ。それに、マッティワザ兄上が別働隊を率いて下流へ向かわれたのです。心配には・・・!?」
ムトネドイェメトの部屋は城の最上階にある。何気なく窓に目を向けた彼女は、東門にもやが立っているのに気が付いた。城を警護する松明の明かりにしてはあまりに不自然なその様子に、ムトネドイェメトは不審の目を向けた。
「あれは?サライ、我が軍にしては様子がおかしくありませんか?」
サライは言われた方角にじっと目を凝らした。
「アルタタマ!姫様、あれはフリ人の軍旗にございます!」
東の門から、こともあろうに敵が侵入しているのである。
ミタンニ軍は、ミタンニ王トシュラッタと皇太子マッティワザに率いられて大半がハブル河方面へ出撃しており、城にはわずかな兵力しか残されていない。軍旗を擁するアルタタマ本隊を迎え撃つなど、まず不可能であった。
「姫様、お支度を。」
ムトネドイェメトはくすっと笑った。城に乱入してきたと言うことは、王都ワシュカンニもすでに敵の手中に落ちたと言っていい。街中に溢れている敵兵の中を、いったいどうやって逃げろと言うのだろうか。どのみち「王族狩り」の命が出ているに違いないのだ。
「お急ぎ下さい!」
しかし、サライには何やら策があるらしく、急かしながらも落ち着いた様子がうかがえる。彼はムトネドイェメトが身支度を整える間に、気の利いた侍女に持ち出すものの手配を命じる余裕すら持っていた。

「では、参りますぞ。」
サライはムトネドイェメト達を城の北に位置する小神殿へと案内していった。そこには愛と生命の女神シャウシュガが祀られている。
「足元にお気をつけて。」
一行は更に神殿の地下へと降りていった。薄暗い壁に、歴代の王族らしき肖像画が刻まれている。時折、異国の衣装を着けた女性が描かれているのは、他国から嫁いできた王妃か、その反対に他国へと嫁いでいった王女たちであろう。
「神殿の地下にこのようなところがあるとは知りませんでした。」
「万が一のことを考え、先王が命じられたそうにございます。」
だが、ムトネドイェメトの関心は別なところにあった。なぜ、壁画が「王」でなく「王族」なのだろうか。それも異国の衣装を纏った王妃や王女が多い・・・。壁画は古の王族の女性達から延々と続く、最後の少女は比較的最近に描かれたものらしかった。
「これは、誰?」
その少女は異国の衣装を纏っているが、どこかしら自分の母と似た面影を持っていた。ムトネドイェメトの母はミタンニ王国の貴族出身である。もしも描かれるならば、ミタンニの王妃としてだから、この少女はそれに当たらない。
「タドゥ・ヘパ様にございます。」
ムトネドイェメトには初めて耳にする名前をサライは告げた。訝しげな視線を感じたのか、サライは懐かしむように話し始めた。
「姫様の姉上にございます。ただ・・・姫様がお生まれになる以前にエジプト王アメンホテプ3世に嫁がれました。」
エジプトへ嫁いだというのであれば、異国の衣装を着ている理由は納得できる。しかし、アメンホテプ3世の第一王妃の名がティーであることは、ムトネドィエメトでなくとも良く知るところであった。ティーの名は、王以上の政才を持って、特に外交面にその手腕を発揮した偉大なエジプト王妃として記憶に留められている。
「でも、今のエジプト王はアメンホテプ4世で、第一王妃はネフェルティティではなかったかしら?」
「良く覚えておられますな。」
サライは教え子の記憶の良さに目を細めた。
「アメンホテプ4世は、タドゥ・ヘパ様を第一王妃に迎えられました。ご成婚の折り、ネフェルティティと名を改められたのでございます。」
「!?」
自分の義母を第一王妃にとはにわかに信じることはできなかった。
「父の側室を正妃に?信じられぬ・・・。」
「タドゥ・ヘパ様とアメンホテプ4世はお似合いのご夫婦でございます。」
サライの口調には自信を持つ者の響きがあった。
「サライは二人を知っているの?」
「・・・よくは存じません。」
それが嘘であることは明白であったが、今は詳しく追求できる状態になかった。
「いずれ、聞かせて貰いますよ。」
「御意。」
再びムトネドィエメトはサライに案内されて地下道を走り抜けていった。

地下道の出口は、北門の近くの今は使われていない離宮へと続いていた。先々代の王妃として嫁いできた異国の姫のために建てられたという、どこか異国風の趣を備えたその宮殿は、ムトネドイェメトのお気に入りの遊び場のひとつでもあった。離宮の外には馬が用意されており、数人の兵士が控えていた。ムトネドイェメトは改めてサライの手回しのよさに感謝すると、侍女達と分かれ、直ちに馬に乗って王宮を脱出した。侍女達の身の振り方まで見届けるほどの余裕はなかった。けれども、彼女たちにはそれなりに助かる道があるし、王家に関わりあると知られない方が今は生き延びやすい。むしろ王女であるムトネドイェメトの方こそが一刻も早くワシュカンニの都から脱出しなくてはならないのだ。

この非常時において、ムトネドイェメトの乗馬術は他の姉妹達にはみられない強味であった。ムトネドイェメトと異なり輿に乗らねばならぬ彼女達が、無事に脱出できる可能性はかなり低い。
「西の市場の隊商に紛れて参ります。」
サライはその辺りの手配も抜かりなく済ませているらしかった。
「姫の名は伏せております。これよりはムトとお呼びいたしますことをご承知くださいませ。」
「サライのことは何と呼べばいいのですか?」
「これまでどおりサライでかまいませぬ。貴族とその私兵ということにしておりますゆえ。」
「わかりました。でも見ず知らずの貴族を連れていくほど隊商に余裕があるのですか?」
市場の隊商は、戦乱を避けようと先を争って王都から脱出しようとしているはずだ。
「だからこそ、護衛が必要とされるのです。今なら、武器が使えれば少々のことには目を瞑って雇ってくれます。」
その点でもムトネドイェメトは合格ラインに達していると思っていいだろう。事実、渡された剣を慣れた手つきでさばいて見せた男装姿のムトネドイェメトを王族の姫君と見破った者はいなかった。ムトネドイェメトの一行は、バビロニアに向かう隊商に雇われた護衛兵として王都ワシュカンニから無事脱出した。

バビロニアに向かう隊商を選んだのには訳があった。彼らは、通常ハブル河に沿って移動する。ハブル河はユーフラテス河の支流であり、その合流地点に皇太子マッティワザ軍の本陣が張られているのだ。王都脱出に際して、サライは伝令の兵士をマッティワザ軍へ送っていた。皇太子自らとまではいかずとも、将軍の一人くらいはムトネドイェメトの迎えによこすはずだ。そのあたりを計算しての行動だった。けれども、それは夜明け前にもたらされた知らせによって脆くも崩れ去った。使者は最悪の知らせをムトネドイェメトにもたらしたのだ。ムトネドイェメトの父にして、ミタンニの偉大なる国王トシュラッタが亡くなったという知らせをその使者は持ってきたのである。それも、アルタタマ軍と戦って敗れての死ではなく、名も無き反逆者の手による暗殺だった。反逆と王の死という混乱の最中に、あたかもタイミングを計ったように、アルタタマの軍勢が攻めてきたのだ。王を失い統率者を失った軍ほど脆いものはない。一瞬のうちに、オリエント覇権の片翼を為すと恐れられたミタンニ親征軍は、烏合の衆として散り散りになり全滅したのであった。
「それで納得がいく。どおりでアルタタマが容易く王都を占領できたわけだ。」
だが、悪い知らせはそれだけに留まらなかった。ユーフラテス河に陣を置くマッティワザ軍も時期を同じくしてアルタタマの息子シュッタルナに攻め込まれ敗走させられたというのである。お世辞にも戦上手とはいえない皇太子であったが、そのために補佐役としてトゥシュラッタは信頼する3人の将軍を付けていた。
「彼らは何をしていたのだ!?」
サライの怒りに兵士は首を縮こませた。
「サライ、その者を責めても始まりませぬ。それより、兄上はご無事なのですか?」
「・・・たぶん。」
自信なげな声が返された。
「その、少なくともわたしがこちらに向かうときは、生きておいででした。」
「どこに向かわれた?」
「バビロニアにございます。」
「バビロニア?」
ムトネドイェメトの鋭利な頭脳はめまぐるしく回転していた。

ミタンニ王国とバビロニア王国は友好関係にある。面白いことに、王家同士の結びつきよりは、文官達の交流の方が盛んであった。ミタンニ王宮の名のある家庭教師はほとんどバビロニア出身である。ムトネドイェメトの爺サライもその一人であった。彼自身は一介の家庭教師にすぎないが、彼のバビロニアにいる一族は王族と姻戚関係もあり政治にも明るい有力な貴族である。
「サライの従姉妹は、バビロニアの大臣の妻となっていましたね?」
埋もれていた記憶を取りだして、ムトネドイェメトはサライに確認した。
「はい。」
「サライ、直ぐにバビロニアへ行きなさい。」
凛とした声でサライに命じた。
驚きながらも戸惑いの表情を浮かべたサライに、ムトネドイェメトはもう一度言った。
「サライ、バビロニアへ行きなさい。」
「しかし、ひめ・・いえ、ムト。今は・・・。」
「私のことなら心配いりません。あとからこの者達と共に必ずバビロニアへ行きます。」
ムトネドイェメトはにこやかに微笑んで言った。
「サライだってわかっているでしょう?兄上がバビロニアに到着したとき、確かな後見人が必要なことくらい。サライにならそれが可能なはず。違いますか?」
ムトネドイェメトに指摘されるまでもなく、サライは亡きトシュラッタ王からいざというときのことを頼まれていた。
その代償として王女の家庭教師としては破格の待遇を受けていたのである。英明なるミタンニ王トシュラッタは、皇太子であるマッティワザの器量を見極めており、それなりに危惧していた。そして、彼の期待は王女であるムトネドイェメトに注がれていたのである。
「サライひとりなら、いくらでも方法はあるのでしょう?兄上より早くバビロニアに到着して、出迎えの準備を。」
それでもまだサライには迷いがあった。
「サライ、もう一度言います。バビロニアへ行きなさい。」
それは、ムトネドイェメトの口を借りたトシュラッタ王の遺志であった。
「承知、致しました。」
サライは深く頭を垂れた。
もはや、来るべきところまできてしまったのだ。
決心が鈍らぬうちにと、直ちにサライは一行から離脱し、バビロニアを目指して行った。
「さて、兄上には何としてもバビロニアへ向かっていただかなくては。」
そのためには、まず兄の生死とその行方を確かめねばならない。
ムトネドイェメトは危険を承知しながらも、マッティワザ軍へ使者を送ることにした。
「頼みます。」
使者に選ばれた兵士を見送った時、東の空はうっすらと白み始めていた。