砂漠の果てに

名誉を継ぐ者(2)

サライを見送り、一息入れかけたところへ、最初にマッティワザ軍へ送った兵士が戻ってきた。
「皇太子殿下の軍は、この先のキリという町へ入られました。」
続いて声を潜め、将軍達がムトネドイェメトの到着を待っていることを告げた。
「私を?」
ムトネドイェメトには心当たりがない。いずれにしても兄とは合流しなくてはならないのだ。隊商に身を潜めているとはいえ、単独でバビロニアに向かうには危険が大きすぎる。
「一刻も早く兄上と合流しよう。」
ムトネドイェメトは隊商から離れる決心をした。だが、その頃、隊商の間でひとつの噂が流れはじめていた。アルタタマの軍が首都ワシュカンニを離れてキリへ向かっているというのである。
「どういうことでしょうか?」
「目的はミタンニの皇太子でしょう。不安の芽は始末しておこうと。別に不思議でも何でもない。当然のことです。ミタンニ軍のいない王都などいつでも手に入れることができるゆえ。」
このままだとマッティワザ軍は、アルタタマ軍とシュッタルナ軍に挟み撃ちになってしまう。キリ程度の小さな町ではとても両軍を防ぎきれるものではない。もはや隊商に構っている時間はなかった。ムトネドイェメトは同行してきた兵を呼び集めると、一気にマッティワザ軍のいるキリへ馬を駆って行った。

敗走したとはいえ、マッティワザ軍は今のところ、数においてシュッタルナ軍とはほぼ互角である。それ故、シュッタルナ軍も追走はしていても積極的には攻撃してこなかった。だが、それを自軍が有利な立場だと思っている輩もマッティワザ軍には存在している。キリへ陣を張ったマッティワザ軍はこれからの方針を早急に決めなければならないのに、主戦派と慎重派とが共に譲らず無為な時間を過ごしていた。
「撃って出ますか?今なら互角の戦いができます。」
主戦論者の側近はマッティワザに戦うことを奨めている。
「勝てるか?」
マッティワザは、中立を保っている将軍のひとりに問いかけた。
「シャッティワザ軍にならば。」
彼は控えめに事実だけを告げた。
「そして、アルタタマに首を執られる。」
間髪入れずに鋭い一石が投じられた。キリへ到着したムトネドイェメトが、挨拶もそこそこに意見を述べたのだ。
「姫!」
将軍達の視線が一斉にムトネドィエメトに注がれた。せっかくの戦意を水を差された形となり、マッティワザはムトネドイェメトに怒鳴り返した。
「ムトネドィエメト、我が軍が信用できないか!?」
対してムトネドイェメトは顔色ひとつ変えることなく、淡々と切り返した。
「アルタタマは、互角の軍を持ってして初めて戦いを挑める相手です。そのことは兄上も父上からお聞き及びになっておられるはず。シュッタルナは小心者とはいえ、現状で無傷の勝利は望めませぬ。傷ついた軍でアルタタマに勝てると本気で思っておられるのですか?」
痛いところを突かれ、マッティワザは怒りに高揚したままムトネドイェメトを睨み付けた。

「サライを一足先にバビロニアへ向かわせました。夜明け前、ハブル河沿岸には霞が立ちこめます。折しも今は葦が川沿いに生い茂っている時期。葦の茂みと河からのもやが旅の手助けをしてくれることでしょう。」
少しも臆することなくムトネドイェメトは、これから取るべき道を話し始めた。それはまた、ミタンニが生き残れるかどうかの選択でもあるのだ。
「ワシュカンニにいた隊商の多くはバビロニアへ向かっています。彼らの大半は小舟を使って夜が明ける前にハブル河を越えるということです。金を積めば、彼らの小舟を一隻くらい譲って貰うことができましょう。」
ムトネドイェメトの話は、暗に敵に背を向け、バビロニアへの一刻も早い逃亡を勧めるものである。マッティワザとて本心は敗走の軍など捨ててそうしたいのは山々だったが、仮にも皇太子としてのプライドがある。父から使わされた将軍達の手前もあり、おいそれと逃げるわけにはいかないのだ。しかし、ムトネドイェメトはその点についてもとうに見越していた。
「国を取り戻すため、他国の援助を取り付けることに何を躊躇うことがありますの?」
詭弁である。だが、これからの行動を正当化するにはまたとない口実になりうるものであった。
「バビロニアには、一応の伝があるのだな。」
それらしい口調でマッティワザは確認するように尋ねた。
「はい。」
サライがどこまで動いてくれるかはわからないが、王宮前で門前払いを喰らわされることはないはずだ。
「ミタンニ再興のためにも軍を立て直す必要はある。バビロニアの援助があればこれほど心強いものはない。お前の言うとおり、バビロニアへ行こう。」
口調だけは重々しいものであったが、その態度はあからさまに逃げ腰なものであった。即刻同行する人選をはじめ、主だった側近を中心にあっという間に出立の準備を整えていったのだ。元々移動しながらの陣であるから、大した手間をかけることなく当面の金等を荷作りすると、直ぐに出発できるようになっている。
「それでは、バビロニアで待っている。」
ハブル河にもやが立ちこめ始めた頃、マッティワザはミタンニ軍から離れキリの町を後にした。

「行ってしまわれた・・・。」
残った将軍達は複雑な思いでマッティワザとその一行を見送った。ミタンニ王国を再建するために、皇太子の存在は不可欠である。しかし、共にあるべき兵を捨て、他国へ落ち延びることをこうもあっさり受け入れたその保身ぶりには、驚くというより呆れると言った方が近い。
「殿下の方はそれでよいとしても、姫はこれからいかがなさるおつもりで?」
マッティワザはバビロニアで待っていると言ったが、アルタタマとシュッタルナの両軍は合流する勢いでこちらへ向かってきているのだ。2倍に資する軍を相手に、頂点に立つべき皇太子のいないミタンニ軍ではまともな戦いのできようはずがなかった。
「籠城、なさいますか?」
どの町でもそうだが多少の蓄えを備えているので、城塞を閉じれば短期間なら持ちこたえることができる。
「援軍のあてもないのに?」
ムトネドイェメトの声に将軍は顔を赤らめた。籠城は援軍を望める場合にのみ有効であって、孤立無援の状態では多少命が延びる程度なのである。
「そうでしたな。」
仮にマッティワザがバビロニアに到着したとしても即刻、援軍を率いて戻ってくる保証はどこにもないのだ。
「ならば、撃って出ますか?」
「2倍の軍を相手に平原で戦をしますの?」
それこそ敵に殲滅してくれと言うようなものである。

その時、天幕の外から慌ただしい足音をさせて、兵隊長が駆け込んできた。
「どうしたというのだ?」
「兵の姿がいつの間にか消えています。もちろん全てというわけではありませんが、部隊によってはもぬけの空のところもあり・・・。」
ムトネドイェメトは知らせを受けて呆然としている将軍を後目に、至って涼しい顔をしている。
「皇太子が生き延びる道を選ばれたのですから、一般の兵たちもそうしたとて、なんら非難される筋合いはありません。無為に殺されるより、たとえ逃走しても命のある方がいいでしょう?」
「しかし、いったい何時の間に・・・?」
それこそムトネドイェメトはおかしそうに声を上げて笑った。
「軍議をするなら、もう少し場所を選んだ方がよろしいですわ。ろくな見張りもたてず、あれだけ大きな声で言い合えば、耳ざとい兵士なら何が起ころうかわかるというものです。命に関わってくる噂ともなれば、自ずと取るべき行動は決まってくるでしょう。」
自軍が崩壊しつつあるというのに、この落ち着きぶりはどうしたものか。訝しげな視線に、ムトネドイェメトはにこやかに答えたのである。
「町を攻撃されて兵ともども殲滅させられるより、少人数で脱出してくれたほうが混乱した軍を率いて脱出するより、遙かに統制の取れた動きができます。わざわざ撤退の指示を出す手間が省けたというものです。」
そう言う考え方もあるものかと、驚き半分で将軍達は、ムトネドイェメトに感心していた。だが、彼女の真意は更にその上をいっていたのだ。
「アルタタマの軍は騎兵が主力でしたね。」
「はい。」
「我が軍は歩兵が主力。逃走中の多くの兵は、騎兵に追われたのではひとたまりもないでしょう。彼らが安全な場所に逃げ切るまで今しばらくは、アルタタマの軍の注意を別なものに向けさせておく必要があります。」
「歩兵のために、ですか?」
「歩兵は我が国の軍の基本。生きていれば、いつかまた軍を起こすときの主力となりましょう。」
将軍達の間からあっと言う声が漏れた。ムトネドイェメトは、今ではなく、未来を見据えて考えを述べているのだ。「王国の名誉を受継ぐ者」として亡きトシュラッタ王が自慢していた理由が、此処に至ってようやく将軍達にも理解できた。
この姫が男子であれば・・・・。
今ならトシュラッタ王の無念がよくわかる。
「これ以上、アルタタマの好きにはさせぬ。」
ムトネドイェメトは出陣の意志を表示した。将軍達は色めき立った。
「ご采配を。」
ムトネドイェメトの初陣は最初から負け戦であった。だが、それはミタンニの未来へと繋ぐ戦いとなるのである。