砂漠の果てに

名誉を継ぐ者(3)

ムトネドイェメトには、自軍の2倍にもなろうかというアルタタマ・シュッタルナ軍を相手に戦いをするつもりなど毛頭なかった。このとき彼女の頭にあったのは、自軍の兵をいかに生き延びらせるかと言うことだけである。その上で、あわよくばバビロニアへ向かったマッティワザの安全を確保できればなお良い。
「ここから軍を立て直すに一番よい都市となると、やはりカルケミシュになりましょうか?」
「そうなりますな。カルケミシュならば、仮に包囲されたとしても数ヶ月やそこらの籠城戦にも耐えられます。」
「では。」
ムトネドイェメトは騎馬隊の大半を率いてカルケミシュに向かうようマリゼル将軍に指示した。同時に、亡きトシュラッタ王から賜ったという肩絹を旗印として与えた。
「これを兄上とできるだけ背格好の近しい者に纏わせなさい。」
本来、男子にしか与えないとされる王の肩絹。それをムトネドイェメトは女子でありながら受け継いでいる。
「し、しかし・・・。」
「取りあえずは、それで格好がつくでしょう。」
震える手で押し頂いた様子にムトネドイェメトは苦笑した。
「父上の肩絹など、いくらでもあります。新調される度、いただいていた故。」
王国の名誉を受け継ぐ者の敬称は伊達ではなく、現実のものとして将軍達にのしかかってきた。
「承知致しました。しかし、それで誤魔化せましょうか?」
「軍を移動させるための方便です。」
「は?」
「勝ち目のない籠城戦などするつもりなどありませぬ。」
つまりは、カルケミシュに向かうつもりはないということである。
「一旦カルケミシュに進路を取った後、適当なところで散開。そのタイミングくらいは面倒みてくださいましょうな。」
自分が同行するつもりもないらしい。
「姫はいかがなさるおつもりで?」
「私と同行できる乗り手を一個隊、揃えられましょうか?」
難問である。
ムトネドイェメトの馬術の巧みさは誰しも良く知っている。近衛兵が全て揃っていた状態ならいざ知らず、この状態ではかなり厳しい注文であった。急に考え込んだ姿にムトネドイェメトは別に機嫌を悪くするでもなく、あっさり、揃えられる人数だけでよいと指示を変更した。
「付いて来れぬ者がいては代えって足手まといです。」
痛いところであった。
「第一、向かうのは南の谷ゆえ、不案内な者がいてはそれこそ危うい。」
南の谷はゴツゴツした岩ばかりの峡谷で、その先はシリア砂漠へと続いている。風の神の怒りをかっているのか、よほど強運の持ち主でなければ抜けられないと言われる魔の谷でもあった。
「うまくいけば、風の神が味方してくれましょう。」
少人数ならともかく、大軍で通り抜けるなどまず不可能な谷なのである。ムトネドイェメトの意図するものが最終的にどこにあるのか、これまでのところまだはっきりとしたわけではない。だが、いたずらに無意味な議論に終始した名ばかりの作戦会議より、はるかに納得できる結果を示していた。
「どの道を行くか、その時になってみねばわからぬが、取りあえずはバビロニアを目指す。」
ムトネドイェメトの宣言に、一同深く頭を垂れ、それぞれの役目を果たすべく陣中に戻っていった。

ムトネドイェメトは自分のために用意された天幕の中で、王族に相応しい戦装束に着替えていた。王家の紋章を縫い取った肩絹を纏う馬上の少女は、さながら戦の女神といったところであろうか。着替えを終えて天幕の外に姿を現すと、選りすぐりの騎手が控えていた。
「我らの目的は、我が軍が散開するまでの間、アルタタマを引きつけておくことにある。ゆえに、南の谷をいかに効率よく抜けられるかが勝敗の決め手となる。幸いにして、風の神は我らにお味方くだされそうじゃ。」
ムトネドイェメトは明け方から強くなり始めた風を好機の風と解していた。この風ならば、南の谷でムトネドイェメトの意図しているワナが仕掛けられそうなのである。
「全軍、出立の準備、整いましてございます。」
ムトネドイェメトはやや緊張した面もちで頷いた。軍の大半の指揮は、将軍達に任せたとはいえ、最初の号令は王族の義務として自分が掛けることになっていたのだ。ムトネドイェメトはゆっくり息を吸い込むと、一息で号令を掛けた。
「出陣せよ!」
号令は次々に送られていき、各将軍に率いられてミタンニ軍が出陣していく。
「バビロニアで。」
短い挨拶を交わし、ムトネドイェメトは最後尾に付くべく馬の手綱を引いた。

「このまま南の谷へ直進されるのでは?」
殿のような位置に付いているムトネドイェメトに同行の騎手から疑問の声があがった。
「まだ、早い。」
短く答えただけでムトネドイェメトはじっと敵の動きを計っている。
「そろそろアルタタマも気づく頃なのだが・・・。」
何を、と問いかけようとした矢先、ムトネドイェメトの鞭が唸った。馬の嘶きとともに、起首を南へと向け走り出す。
「姫!?」
慌てて騎手達も鞭を唸らせ、ムトネドイェメトの後を追いかけた。
「抜けるぞ。」
それを合図とするかのように、進軍速度が全速力へと変わっていった。

アルタタマは進軍しながら、何か引っかかりを感じていた。このまま進むと、ミタンニ軍はカルケミシュに向かうように思われる。首都ワシュカンニを落とされた今、確かにその選択は順当なものといえよう。だが、それは援軍の当てがあって、初めて活きてくる選択である。
「今のミタンニに味方する軍なぞ、ないはずだが・・・。」
皇太子のマッティワザが恐れるに足りない相手であることは調査済みである。
「あ奴なら、自分一人でも助かろうと保身を計るはずだ。それが、カルケミシュに向かうなどとは到底信じられん。」
と、なれば、考えられる道はただひとつ。
「不自然に遅れている部隊はないか?」
「さあ・・・。殿の一隊が少々遅れ気味らしいようですが、これは致し方ありますまい。」
殿は味方の軍の安全を図るため、敵をくい止める役割を持つことから、どうしてもある程度の遅れを生じてしまう。だが、まだ戦いの火蓋は切っていない。この時期遅れるというのは、ある意味不自然であった。
「それだっ!」
アルタタマは叫んだ。
「その部隊を取り囲め。全軍で包囲するのだ。他の軍は今は無視しろ。」
「は?」
「皇太子はそこに潜んでいる。逃げ出すチャンスを狙いつつな。」
「まさか・・。」
「あの皇太子ならやりかねんよ。自分が助かるためには手段をえらばぬ輩だ。精鋭の騎兵が取り巻いておろう。」
指摘されてみて、殿部隊にしては立派すぎる馬が多いことに思い当たる。
「全軍、ミタンニ軍の最後尾を狙え!」
ミタンニ軍の側面を突くべく進軍していたアルタタマ軍の進行方向が変化したのはまさにその時であった。そして、同時に、ムトネドイェメトもまた進行方向を一気に南へと変えたのである。それは、あたかも自軍を囮として逃走を図った皇太子の一行をアルタタマに連想させた。
「マッティワザを捕らえよ!南の谷へ入る前に捕らえるのだ!!捕らえた者は一兵卒であろうと将軍に取り立てようぞ!」
直ちに飛び交った伝令は、アルタタマ軍をそれぞれの欲望丸出しの集団と化して一斉に南下し始めたのであった。

南の谷は、ゴツゴツした岩場が続き、馬で走るにはかなり困難な地形をしている。しかもその岩は至る所で深い裂け目を形成し、うっかり足を取られようものなら、二度と起きあがれないといわれていた。だが、この谷で一番恐れられているのは、「風の神の怒り」と呼ばれる烈風に切り刻まれることである。狭い空域にそびえ立つ岩の間を風が通り抜けるときに起こる、俗に言うカマイタチ現象がその正体なのであるが、それが科学的に解明されるのは遙か未来のこと。
ムトネドイェメトは気晴らしの散歩と称してこの谷をよく訪れていた。風の動きにより、どこを通ると「神の怒り」に触れるのかも頭に入っている。今朝方からの風は、まさに魔の谷の名に相応しく「神の怒り」を頻繁に引き起こす風なのだ。ムトネドイェメトは知り尽くしたその道を、岩の裂け目と神の怒りを巧みに避けつつ全速力で駆け抜けていった。
同行している騎手達もそれは同様であった。彼らは、ときおりアルタタマ軍を裂け目に誘い込むため、わざと遅れを取ったり、散開してみせるだけのゆとりすら持っていた。反対に散々な目にあったのは、何の知識もなく、勢いだけで後を追ってきたアルタタマ軍の兵士達である。岩場に足を捕られた者はまだ運がよい方だ。深い裂け目にそのまま転落した者、神の怒りに触れて切り裂かれた者。わずか数メートル先を走る一行に良いようにあしらわれたのである。それでも、欲望を持つ者達は後を絶たず、人数を減らしながらも追っ手は確実にムトネドイェメトに迫ってきていた。

「ここは我らがくい止めます。姫はそのまま砂漠へ。」
「何を今更・・。」
「これだけの時間、敵を引きつけたのです。先にカルケミシュに向かった軍は無事に目的を果たしたはず。姫の目的は達せられた。次は我々の目的を果たさせていただきたい。」
「あなた方の?」
「そうです。」
「いったい、何を・・・!」
突然、鞭が唸り、馬が嘶いた。それまでムトネドイェメトに従っていた馬が弾かれたように疾走をはじめたのである。
「な、何!?」
その馬はムトネドイェメトにとって初めて乗る馬であったが特に気にはしていなかった。ムトネドイェメトは何の準備もなく、いわば飛び入り状態であったのだから、愛馬がどうのといえる立場ではなかったのだ。勧められた悍馬は、馬術を得意とするムトネドイェメトに特に問題のある馬ではなかった。多少気は荒そうだが、むしろその分戦場向きの馬だと思ったくらいである。
それまでは。
「ザナ、後を頼むぞ。」
「はっ!」
小柄な、まだ少年の面影を残した兵士を乗せた一頭の馬が、ムトネドイェメトに先行した。その瞬間から、馬はムトネドイェメトの意に従わなくなったのだ。
「戻りなさい!」
手綱を引いても一向にムトネドイェメトを乗せた馬は動じる様子もなく、目の前を走っていく少年兵の馬の後を追っていく。まるで暴れ馬のごとく荒々しく走る馬に、ムトネドイェメトは振り落とされないようしがみついているのが精一杯であった。

馬の蹄が砂塵を巻き上げる。砂漠の砂が、谷に流れてきているのだ。折からの強風に煽られ、砂に残された足跡はすぐに消えていく。このまま砂漠に出ることができれば、おそらくアルタタマの軍から逃れることはできるであろう。
「ミタンニに栄光あれ!」
風に流れた声が、誰の者だったのかは定かでない。ムトネドイェメトは遠くなる声を胸に刻みつけた。もはや後戻りすることは叶わない。風が更に激しく吹きつけるようになってきた。壁となる岩が次第に少なくなり、視界が開けてくる。シリア砂漠が目前に迫っていた。