砂漠の果てに

名誉を継ぐ者(4)

照りつける目映い太陽に焼け付く砂の臭い。熱砂の上にはゆらゆらと蜃気楼が揺らめいている。真昼の砂漠は、さながら灼熱の地獄である。ムトネドイェメトはザナと言う名の若い兵士と共にシリア砂漠にあった。本来なら本隊と共にあるはずの厩の番人にすぎない彼がムトネドイェメトの別働隊へ加えられたのは、馬の扱いの巧みな腕を見込まれてのことだという。
「マリゼルの差し金ですか?」
ザナは黙っていたが、それは肯定の意を示す他ならない。ムトネドイェメトはきゅっと唇を噛みしめると、その時初めて来た方を振り返った。
「アルタタマは、追跡を諦めたようですね。」
それは同時に、同行していた他の兵士達の死を意味している。砂漠へ通じている峡谷は狭い。大軍で一度期に押し通すわけにはいかないのだ。地の利を活かし、ミタンニの兵士達は命を賭して、ムトネドイェメトが充分逃げ切るまでの時間を稼いでくれたに違いない。ここまで来てアルタタマ軍に見つからなかったということが、それを物語っている。だが、ムトネドイェメトには失ったミタンニ兵の死を感傷に浸っている余裕はなかった。ひとつの危機は去ったが、別の危険が迫りつつあった。ムトネドイェメトにとって砂漠は初めてであり、しかも十分な準備もなく入り込んだのだ。灼熱の砂漠は、旅慣れた者にとっても常に危険と隣り合わせな場所である。ましてや、ムトネドイェメトは前日から一睡もしておらず、食事も満足に採っていないところへもって緊張の連続であった体力的にも精神的にもかなり弱っている。ともすれば薄れがちになる意識を保つため、ムトネドイェメトは、何かを話しかけずにはいられない状態にあった。

「ザナはヒッタイトを知っていて?」
話し掛けられたザナは、突然の質問に、危うく手綱を引き間違えそうになった。
「あの国には、不思議な強剣があると噂に聞いたから。」
無表情な声だけが、淡々と発せられる。
「その噂でしたら、耳にしたことがあります。」
ザナは無難な言葉を選んで返した。
「小さな短剣ですら、豪剣を折ることができるそうですね。」
ムトネドイェメトはほとんど上の空で話していた。
「少々の城壁でしたら砕くこともできるとか・・。」
真上から照りつける太陽は、容赦なくムトネドイェメトの体力を奪っていく。
「ワシュカンニの城門が、なぜああも簡単に破られたのか・・・なぜアルタタマが急に攻めてきたのか・・・。」
「姫!」
ザナの声はムトネドイェメトに聞こえてはいなかった。手綱がムトネドイェメトの手からするりと外れ、小さな身体が馬上に突っ伏した。不意な重みを感じた馬の嘶きが熱い風に流れていった。

ムトネドイェメトは見知らぬ水辺に立っていた。緩やかな流れをもつその水辺には、美しい薄青色の花が至る所に顔を出している。
「水の中に花が咲いている?」
不思議に思って花に手を伸ばしたが、水の流れに押し流されてするりと花が逃げていく。何故と思うより早く人の気配を感じ顔を上げると、少し離れた岸辺に異国の衣装を着た美しい少女が立っていた。ムトネドイェメトはその少女を知っていた。
「タドゥ・ヘパ?」
北の小神殿の壁画に描かれていたのと同じ顔、同じ衣装で少女は、水辺に佇んでいる。パシャリと水音を響かせ、ムトネドイェメトは水の中に足を踏み入れた。つと、少女がこちらを向いた。まるで昔からの知り合いであるかのように、少女は愛くるしい笑みをムトネドイェメトに向けている。その微笑みに吸い寄せられるようにムトネドイェメトは少女に近づいていった。
にこやかな笑みを浮かべたまま少女は、水辺の花を一輪、また一輪と摘み、腕に抱えていく。その腕が花でいっぱいになったとき、ムトネドイェメトはすぐ側まで歩み寄っていた。ほんの少し水の中を歩いただけなのに、肩で息をしなくてはならないほど、ムトネドイェメトの息は上がっている。
「姉上様・・・。」
掠れた声で呼びかけると、少女は不思議な微笑みを浮かべ、腕に抱えていた薄青色の花を一輪抜き取り差し出した。無意識にムトネドイェメトの手が伸び、指先がその花に触れたと思った瞬間・・・。

「ムトネドイェメト様!」
目の前にザナの心配そうな顔があった。
「御気分はいかがですか?」
うっすらと目を開けたムトネドイェメトにザナは気遣うような声を掛けた。
「ここは、どこ?」
ムトネドイェメトの身体は、やわらかな草の上にあった。陽の光も眩しいだけでなく、光の恵みをもって降りそそいでいる。
「砂漠のオアシスのひとつです。」
ザナは汲んできた水をムトネドイェメトに差し出し、身体を起こすのを手伝った。ゆっくり身を起こして辺りをよく見ると、小さな泉を中心に植物が生えた憩いの空間にいることがわかった。少し首を伸ばしてみれば、木々の向こう側は見渡す限り白い砂の山が広がっていた。
バビロニアはこの砂漠の遙か果てにある。サライがバビロニア出身という理由だけで選んだ選択だったが、改めて考えてみると、確かなものは何もない。バビロニアは一応外敵からの侵入にそれなりの体裁を整えているが、内部では王位争いの真っ最中との噂がある。有力貴族がそれぞれ王子を擁立し、政治は混乱を来しているとも暗に囁かれていた。それが事実なら、他国の援助をする余裕などあろうはずもない。むしろ自分たちに有利な兵力として取り込まれるのがオチといえよう。それではとてもミタンニ王国再建の援助を望めるはずもない。

差し出された水が椀のなかで揺れていた。ふとムトネドイェメトは、夢うつつに見ていた景色を思い出した。あの時、水辺には、見たことのない美しい花が咲いていたのではなかったか?夢から覚めた今でも、はっきりと思い起こすことのできる薄青色の花・・・。
「ザナは、水の中に咲く薄青い花を知っていて?」
「は?」
戸惑いの表情を浮かべているザナに、ムトネドイェメトはなおも聞いてみた。
「水辺に、茎を出して、花だけが水面上にある、薄青色の花。見たこと、ありませんか?」
「水辺の、青い花・・・?」
ザナの脳裏にひとつの花が浮かんでいた。しかし、それを答えたものか否か。彼は困惑した表情で沈黙を守った。
「あるのですね?」
ムトネドイェメトは敏感にザナの表情を読みとっていく。
「水辺の青い花といえば、ロータスくらいしか思い当たるものがございません。」
ザナはムトネドイェメトの表情を伺うように答えた。
「ロータス・・・。それは、エジプトにも咲いていますか?」
「・・・はい。ロータスは・・・ナイルの川辺に咲く青い花で、エジプトの一方を司る象徴とも言われる花です。」
「エジプト・・・。」
ムトネドイェメトは水を一口飲んだ。例え暑さによる混濁した意識の中でみた幻影といえど、あの夢はあまりにも生々しくムトネドイェメトの記憶に残っている。側室として嫁ぎながら、いつの間にか次代のファラオの第一王妃となった姉タドゥ・ヘパの住まう国エジプト。国交は絶えて久しいが、隊商から聞く話に寄れば、王都アケトアテンは文化のすばらしく発達した神の都という噂である。そして、エジプトにおける正妃(第一王妃)は、特別な意味を持つ存在だと教わった。切れ切れに浮かんだ思いが、ゆっくりと、だが確実にムトネドイェメトの心を決めていく。
「エジプトへ行きます。」
ムトネドイェメトは椀の水を飲み干した。

ザナは驚きの眼差しを浮かべていたが、それは見せかけだけのものであった。ロータスの花のことを問われた時、内心、そうなるのではないかと密かに思ってはいたのだ。それでも、一応は尋ねてみる。
「バビロニアへはお行きにならないのですか?」
「私が父上から受け継いだのはミタンニ王国の名誉と栄光です。それを汚すことはできません。」
ムトネドイェメトは空っぽになった椀をザナに差し出した。
「ナイルの水を、これへ。」
ザナは、はっとなったようにムトネドイェメトを見返した。
ムトネドイェメトの瞳は燃えるような輝きを宿している。
「案内、してくれますね、ザナ。」
それは拒否を認めないという命令でもあった。
「・・・仰せのままに。」
ザナは複雑な思いを飲み込み、恭しく椀を受け取った。

オアシスで身体を休め、気力を取り戻したムトネドイェメトはザナと共に再び砂漠に出た。しかし、進む方向は大きく違う。二人はシリア砂漠を南へと下っていく。向かう先は、エジプト。かつてのミタンニ王国王女タドゥ・ヘパが、第一王妃として君臨する神の王国である。