砂漠の果てに

それぞれの野心(1)

「母上・・・母上・・・。」
ネフェルティティの遺体にすがって泣き崩れたアンケスエンアメンをムトネドイェメトはただ見つめるだけだった。ミタンニの王都ワシュカンニを脱出して以来、死とは常に隣り合わせにあった。父をはじめ、多くの兵士達の壮絶な死を目の当たりに見てきた後だけに、ネフェルティティの死はひどく穏やかなように感じられる。けれども、その死はエジプトにとって非常に重い意味を持っていた。
「いかがしたものかのう・・・。」
「このままご帰還というわけには・・・。」
「・・・それは無理というものだ。第一、どこにお迎えするというのだ?」
その場にいた家臣達の密やかなささやき声がムトネドイェメトの耳に入ってきた。こちらを向いていたので、はじめは自分のことを差しているのだと思ったのだが、どうやら違うらしい。彼らの視線がムトネドイェメトを通り越してネフェルティティの遺骸に向けられていることに気が付いた時、アンケスエンアメンの縋るような視線とかち合った。

アンケスエンアメンは母親譲りの容姿をした小柄な女性であった。ほっそりした顔立ちはエジプト人のそれよりも、むしろミタンニ人の特徴と言うべきであり、その意味ではムトネドイェメトの容姿に通じるものがある。知らない者が見れば、アンケスエンアメンとムトネドイェメトを姉妹と思っても不思議がないほどに似通っていた。けれども、オリエントの覇者たる大国エジプトの第一王妃という至高の位にありながらアンケスエンアメンは、今にも消えてしまうのではないかと思うほど儚げであった。それに対し、ムトネドイェメトは逃亡中の王女の身の上ながらも生気にあふれ、その瞳は誇り高く輝いている。しかし、居合わせた家臣たちには、そのようなことはどうでも良いことであった。彼らの関心は、エジプトの第一王妃を一刻も早くこの場から王都テーベへ連れ帰ることだけにあったのだ。その意を受けて、ホルエムヘブはアンケスエンアメンに帰還を促した。
「王妃様のお嘆きは察してあまりありますが、ここはなにとぞ、王都テーベへ速やかにご帰還をお願い申しあげます。」
殊更丁寧に説明口調なのは、おそらく事情を知らないムトネドイェメトに対して配慮をしたつもりなのだろう。しかし、アンケスエンアメンは「王都テーベ」と聞くや露骨なまでの嫌悪感を顕した。
「母上はアケトアテン以外、王都とは認められておりません。」
細いながらもよく通る声が、アケトアテンから離れることに対する拒絶の意をきっぱりと表わしていた。
「テーベでは、ツタンカーメン陛下がさぞ王妃様のお帰りをお待ちのことと思いますが。」
夫であるツタンカーメンの名を持ち出されるとアンケスエンアメンの表情に曇りが生じるのが見て取れる。アンケスエンアメンはそのままゆっくり目を伏せると、再びベッドの傍らに戻り、ネフェルティティの亡骸に跪いた。
「すぐに・・・すぐに戻って参りますゆえ・・・。」
だが、次にゆっくり立ち上がったアンケスエンアメンの身体は、一歩踏み出した瞬間ぐらりと傾いた。
「あぶないっ。」
反射的に差し出されたムトネドイェメトの腕にずしりと重みがかかり、二人は重なるように床に倒れていった。

どのくらい意識を失っていたのか定かでないが、ムトネドイェメトが目を覚まし時、そばにはアンケスエンアメンの心配そうな顔があった。
「御気分はいかがですか?」
アンケスエンアメンも、ほぼ時を同じくして気を失ったはずなのに、そんな様子はみじんも感じさせないしっかりした口調であった。
「きっとお疲れがでたのですね。どうぞそのままお体をお休めになってくださいませ。」
ムトネドイェメトが自分のおかれている状況を認識するのに少し時間が必要であったが、一旦理解するとその行動は早かった。ゆっくり身体を起こすと、まずは改めてアンケスエンアメンに挨拶し、続いてあの後の経緯を尋ねた。
「彼らは一旦テーベへ戻りました。さすがに、あの状態の私をすぐにテーベへ連れ帰ることは諦めたようです。」
どこか不思議な響きを帯びた声で話しながら、アンケスエンアメンは小さく微笑んだ。その後の様子をしっかり把握しているところをみると、もしやそれが目的でわざと倒れて見せたのではないかという疑念が沸き上がってくる。ムトネドイェメトの表情からそのことを察したのか、アンケスエンアメンはそれを肯定するように話続けた。
「ツタンカーメンのことも心配ですけれど、今は母上を安らかに眠らせて差し上げたい・・・。」
そう言ったアンケスエンアメンには、母を失って涙に暮れていた頼りなげな少女の面影はどこにも感じられなかった。強い意志を秘めた誇り高き王妃の姿がそこにあった。

「姉上、いえ、前王妃様は、これからどうなるのでしょうか。」
エジプトでは死後の永遠を信じて特に王家の者たちは特別な埋葬が執り行われると聞いていた。しかし、ネフェルティティの遺体を前にした家臣達の反応から、どうも様子が異なるように感じられたので、ムトネドイェメトとしては今後のためにもその点を聞いておく必要があった。死者の永遠を信ずるエジプトで死後の世界の安寧を得られぬということは、ネフェルティティがエジプトの王妃として歓迎されていないということだ。ムトネドイェメトは、ネフェルティティが第一王妃として君臨していると思えばこそ遥か砂漠を越えてエジプトまでやってきたのである。自分の身の振り方のこともあり、ムトネドイェメトとしては正確な情報が必要であった。アンケスエンアメンはムトネドイェメトの疑問に端的に答えを示した。
「アメン神官はアテンの神を異端扱いしていますから、アテンを信ずる母上とは、相容れることはできません。」
恐れていた答えがアンケスエンアメンから返ってきた。ネフェルティティは王妃として歓迎されていないだけでなく、王家の墓での安住すら約束されていないのだ。唇を噛んだムトネドイェメトに、アンケスエンアメンの言葉がよどみなく流れていった。
「彼らは、王都をテーベに戻したことで勝ったつもりなのでしょうけど、所詮はみせかけだけのこと。心までは縛れませぬ。父上と母上は、未来永劫アテンの神と共にあります。それを守ることが残された私の使命なのです。」
この日がくることを予期した上で、その後の用意を準備していたことをアンケスエンアメンはほのめかした。
「彼らの知らぬところで、別に王墓を用意していると?」
ズバリと尋ねたムトネドイェメトにアンケスエンアメンは間接的に言葉を結んだ。
「そのために彼らには、この地から一旦出て行って貰いました。」
やはりあの卒倒は茶番だったらしいと気が付いたとき、ムトネドイェメトはアンケスエンアメンの中に王家の名誉を担う者としての姿を感じていた。それはアンケスエンアメンも同様だったらしい。
「準備が整いましたら、迎えの者を行かせますわ。」
ムトネドイェメトにネフェルティティの埋葬の参列を示唆すると、アンケスエンアメンは確かな足取りで部屋から出ていった。

アンケスエンアメンと入れ替わるようにラムセスが部屋に入ってきた。
「ムトネドイェメト様の警護を命じられましたので。」
それがホルエムヘブの命令によるものだということはムトネドイェメトには容易に推察できた。いかに警護とはいえ、ラムセスもアンケスエンアメンと同席することは憚られたらしい。それだけに彼が命じられたのは単なる警護だけではないことがわかる。しかし、そんなことを意に介す様子もなく、ムトネドイェメトは部屋の隅に控えていたザナに側に来るよう手招きした。
「何か?」
「私がエジプトに居ることを知らせに戻ってくれますね?」
口調は穏やかだが、それは明らかに有無を言わさない命令だった。もっとも、それがたとえ「お願い」の形であろうとも、一兵士であるザナに拒否することは不可能であったのだが。
「姫がエジプトに居られることをバビロニアに向かわれた皇太子殿下にお伝えすればよろしいのですね。」
唯々諾々と頷いたザナにムトネドイェメトは首を振った。
「伝えるのは兄上でなくマリゼルに。そして、向かう先はバビロニアではなく。」
そこでムトネドイェメトは一呼吸置いた。
「カルケミシュへ向かってください。」
「カルケミシュ?あの要塞都市へ、ですか?」
「そうです。」
驚くザナにムトネドイェメトの返事は淡々としたものであった。
「まさか、そこにマリゼル将軍閣下がおられると?」
ザナには何故そのようなことをムトネドイェメトが言い出したのか俄には信じられない様子である。キリの陣で、カルケミシュに籠城することは愚策だと言ったのは他ならぬムトネドイェメト自身ではなかったのか?
「なぜ、そうだと思われるのです。第一、兵が付いて行きましょうか?」
正直な疑問がザナの口を突いて出た。あの軍議の席で、戦いは兵があってはじめてできるものだと言ったのもムトネドイェメトである。逃亡する兵が後を絶たない状態であったからこそムトネドイェメトの策が説得力を持ち、将軍たちに受け入れられたのだ。
「それでもなお、姫は、カルケミシュにミタンニの軍が居るとおっしゃるのですか。」
矛盾に満ちたムトネドイェメトの命令にザナは疑問をぶつけた。
「マリゼルの居るところがミタンニ軍なのです。」
穏やかに答えたムトネドイェメトの瞳はまたしてもあの不思議な光を宿していた。だが、ザナにはムトネドイェメトの言っている意味が理解できなかった。
「マリゼルは父上と共にミタンニの栄光を担ってきた将軍です。父上以外の誰も、彼に軍を引かせることはできません。」
「しかし、陛下は亡くなられました。」
「マリゼルがいる限り、ミタンニは不滅です。」
そこには絶対的な自信を持つ輝きがあった。
「援軍のない籠城を愚策とおっしゃったのは嘘だったのですか?」
「あのときとは、情勢が違います。」
「情勢・・・。」
あのとき、彼らは援軍のあてのないままバビロニアへ向かう途中であった。
今は・・・。
ザナはムトネドイェメトの含むところを察すると戦慄が走った。同時に、この姫ならば成しえるかも知れないと言う予感が脳裏をかすめた。ネフェルティティは亡くなったが、現在エジプトの王妃であるアンケスエンアメンはムトネドイェメトに好意的である。同じ血を引くとはいえ、初対面の異国の人間を何故、こうまで信頼できるのかザナには理解できなかったが、そのチャンスを無為にするムトネドイェメトではない。
「伝えてくれますね?」
畳みかけるようにムトネドイェメトはザナに挑むような口調で言った。
「伝えるだけで、よろしいのですか?」
ひとこと、ひとこと言葉を選ぶようにして、ザナは確認した。
「それ以上は望みません。その代わり、必ず、直接マリゼルに伝えてください。」
ムトネドイェメトの命令にザナは黙って頭を垂れた。

命令するのは簡単だが、受ける方は必ずしもそうとは限らない。カルケミシュに向かうにはエジプトを出てもう一度シリア砂漠を越えなければならないのだが、それ以前に、この「番人の家」からいかにして出るかが問題であった。
ここへはホルエムヘブが一緒であったから難なく入れたが、その逆となると話は違ってくる。何よりムトネドイェメトの護衛にラムセスが付けられたことがそれを裏付けていた。ラムセスは、ホルエムヘブが自分の留守の間「安全のために」とムトネドイェメトに付けた護衛であるが、当然その中には「監視」という役目を含んでいることも否めない。それなのに、今の会話は、ラムセスの目の前で交わされた。この目前の障害をいったいどうするのか、ザナはムトネドイェメトに控えめな視線を向けた。ザナの質問に答えるかのごとくムトネドイェメトはごく自然に、ラムセスに声をかけた。
「ザナを、国境まで無事に送り届けてはもらえませんか?」
驚いたことに、ムトネドイェメトは正面からラムセスにザナの安全の保証を依頼したのである。堂々とお願いされて、さすがにラムセスも面食らった。ここでザナをミタンニに向かわせるということは、エジプトをミタンニの戦乱に巻き込むことに他ならない。
「自分の国のこと以外、考えてないんだな。」
遠回しに皮肉ったラムセスにムトネドイェメトは怒る様子も見せず、部屋の外に目を向けた。ラムセスとザナの視線が何事かと、ムトネドイェメトと同じく外の様子に向けられた。はじめはよくわからなかったが、やがて足音が近づき部屋の前でピタリと止まった。
「失礼いたします。」
入ってきたのは、一目で騎兵とわかる兵士だった。
「ライア、お前、国境警備に向かうはずじゃ・・。」
驚くラムセスの横を抜け、ライアは儀礼通りにムトネドイェメトに挨拶した。
「騎馬隊長のライアと申します。これより命を受けて国境警備の任に就きますので、そのご挨拶に参上いたしました。」
エジプトの騎兵隊長が出立に際して異国人の王女に挨拶にくるなど普通では考えられないことである。となれば、ライアがここに来た目的はひとつ、彼が挨拶を口実にホルエムヘブの命を受けているとということである。ムトネドイェメトは静かにザナを振り返った。
「マリゼルに、伝えてくれますね?」
ムトネドイェメトの瞳は一層不思議な色を深めていた。静かな色だが、それはまるで嵐の前の静けさを思わせる緊張した水面のようでもあった。
「仰せのままに。」
ザナはその流れに飲み込まれたかのように承諾していた。ムトネドイェメトはラムセスに言ったのと少しも変わらぬ口調でライアに同じ事を繰り返した。呆れるばかりのラムセスを尻目にライアは、ムトネドイェメトに黙礼するとザナを振り返って言った。
「それでは、これより国境へ向かう。」
「おい、そんな勝手なこと・・・。」
引き留めようとしたラムセスに、ライアは軽くその手を払って言い流した。
「俺は、自分の隊の新兵を迎えに来ただけだ。」
「なっ・・。」
詭弁である。だが、同時にそれがライアの一存から出たことでないことはラムセスにも理解できた。呆気にとられながらも、おぼろげにその隠れた命令を察したラムセスは道を譲った。
「ちゃんと、伝えろよ。」
すれ違いざまにラムセスは追い立てるように、言葉をザナに投げつけた。ザナはライアに続いてムトネドイェメトに黙礼すると振り返ることなく部屋から出ていった。

ザナはライアの指揮する国境警備の騎兵隊に加わってエジプトを出た。他の騎兵達も、予め言い含められていたのであろうか、ザナの同行に口を挟むものはいなかった。皆、無言で普段と変わらず国境へと馬を走らせている。ザナもまた無言だった。
「この次はないからな。」
国境の砂漠でライアは言った。
「・・・承知しているつもりだ。」
目前に広がる砂漠をザナはまぶしそうに見やって言った。ここから先はエジプトの勢力圏外である。
「はいっ!」
ザナは勢いよく馬に鞭を当てた。砂漠の風に馬のいななきが響きわたる。それを合図とするかのように、ライア率いる騎兵隊は一斉にエジプトへと引き返して行った。
「助けたつもりが助けられたか。」
苦笑混じりに呟くと、ザナはエジプトの国境を越え砂漠の果てへと去っていった。