砂漠の果てに

それぞれの野心(2)

エジプトの国境を越え、シリア砂漠に出たザナはひたすら東へと馬を駆けさせた。馬に揺られる度、腰に下げた鉄剣が身体に触れる。ホルエムヘブに案内されて番人の家の門をくぐった時、ザナは死を覚悟していた。よもや生きてもう一度、この砂漠を越えることができようとは、正直思っていなかった。アケトアテンの街で、一瞬ではあったが、ザナは致命的とも言える失敗を犯したのだ。自己防衛のためとはいえ、彼は一介の兵士が持っているはずのない鉄剣を使ってしまったのである。黄金よりも貴重と言われる鉄の剣を持てるのが、どういった身分の者か知らないホルエムヘブやムトネドイェメトではない。それなのに、番人の家へ到着してからもザナはムトネドイェメトの従者として扱われた。ラムセスを「ムトネドイェメトの警護」に付けられた時には、さすがにここまでだと観念したのだが、結果はザナに有利に運んでいる。理由はわからないまでも、ムトネドイェメトの所在をミタンニの将軍マリゼルに伝えることを前提とした助命であることは理解していた。
「姫との約束だけは守らねばなるまいな。」
とはいえ、ザナの心はすでに戦場にあった。ミタンニの名将マリゼルがカルケミシュで籠城しているのが事実なら、アルタタマのミタンニ攻略は暗礁に乗り上げているに違いない。カルケミシュは外部からの援助が無くとも、数ヶ月は優に戦えるだけの備蓄を備えた堅固な要塞都市なのだ。
「折角のチャンスだ。せいぜい利用させてもらおう。」
とはいえ、ムトネドイェメトの狙いがどこにあるのか、ザナは正直なところその真意を図りかねていた。彼女の意図するところは、最終的にはミタンニ王国の復興のはずだが、鎖国しているエジプトの国策に外国を援助することは含まれていない。事実、エジプトは現在のところミタンニ王国に対して積極的な援助を行うつもりはないようであり、その意味ではムトネドイェメトの目的は未達に終わったともいえよう。だがその反面で、エジプト軍を預かるホルエムヘブはムトネドイェメトの意図するところを「エジプトに有利」と判断しているらしい。ザナを逃がすことに力を貸したということが、その事実を裏付けているわけだが、かといってエジプトは現地点において、ミタンニの戦に加わるつもりはないということも明らかなのだ。いずれにしても真偽のほどは不明だが、自由の身となったザナには新たな好機を生み出した。
「姫の思惑はともかく、チャンスには違いない。」
ザナは砂漠の砂に蹄を取られないよう細心の注意を払いながら、ひとり思案を巡らせていた。

シリア砂漠を越えたザナに近付く影がある。
「砂漠を越えたと聞かされた時には、さすがに肝が冷えましたぞ、ザナンザ皇子。」
同時に掛けられた声は、ザナを瞬く間に現実に引き戻し、更には彼本来の姿−一介の兵士ザナからヒッタイト帝国第4皇子ザナンザへと戻していった。
「ヴァルシャか。相変わらず、早いな。」
久方ぶりに敬称で呼ばれ、しかもその第一声が小言ときては、ザナンザも苦笑せざるを得ない。もっともそれだけのことをザナンザはしてきたのではあるが。ミタンニ戦において、父であるヒッタイト皇帝より後方支援を命じられながら、偵察と称して単身首都に潜入し、敵国の王女と行動を共にしてきたのだ。しかも行きがかり上とはいえ、ヒッタイトの宿敵ともいえるエジプトにまで出向いたのである。心配性の目付役でなくとも寿命が縮まると苦言を呈するのは無理からぬ事であった。しかし、皇子の無事が確認されると、過去のことに拘っているようなヴァルシャではなかった。気が付けば、ザナンザの周りにはいつしか統制の取れたヒッタイトの軍勢が揃いつつある。
「で、お考えは定まりましたかな。」
「籠城しているとなると、そう簡単に出てくるとは思えないが。」
ザナンザの脳裏にムトネドイェメトとの約束が走った。
「マリゼルを戦場に引き出す。そのために全軍上げて、アルタタマの支援に向かう。」
「御意。」
本来ミタンニ戦で先陣を務めるつもりで遠征してきた部隊である。それがずっと後方支援でアルタタマの背後にあり、皆不満が溜まっていたから、ザナンザの積極的な参戦案に反対するものはいなかった。
「勝てると思うか?」
「栄光を勝ち取るか、勝ちを譲って貰うか、でございましょうな。」
兵力は圧倒的にこちらが有利なのである。倍以上の兵力を投入するのだから、ある意味勝って当たり前といえよう。だが、相手はオリエントにその名を轟かせたミタンニの名将マリゼルである。戦場でミタンニの名将を破ることができれば、その栄誉は計り知れない。しかも彼に本気を出させることができるかどうかで、ザナンザの器量のほども計られるというものだ。ヴァルシャの返答にザナンザは頷いた。
「栄光を我が手に!」
決意も新たに、ザナンザは全軍に出撃の合図を発した。

その頃、カルケミシュの城塞内では、最後の宴が開かれていた。数で包囲された今、城内の糧食は底を尽き、あとはただ死を待つのみとなり、ついにマリゼルは総攻撃を決意したのだ。到底勝ち目のない戦であった。だが、城内で餓死するよりはマシだと判断したのである。
「姫は、バビロニアへ到着されたであろうか。」
それだけがマリゼルの心残りであった。砂漠に向かったらしいという情報を最後に、ムトネドイェメトの消息はぷっつり途絶えたままである。
「マリゼル閣下。アルタタマに新たな軍勢が加わった模様です。」
「そうか。」
最後まで付いてきた兵士には無駄な死を強いることになるなと少しばかり感傷的な気分に囚われながらマリゼルは心の中で主君に詫びていた。
「王よ、もうじきお側に参ります。このふがいなき老将をお厭いくださいますな。」
ともすれば沈みがちになる気力を無理にでも奮い立たせようと、彼は自ら先陣を務めるつもりであった。マリゼルは黙々と出陣の身支度を整えていた。

志気の低下したままのミタンニ軍に変化が起こったのは、マリゼルがまさに出撃の合図を全軍に告げようとした瞬間である。
「アルタタマに加わった軍勢はヒッタイトの正規軍にございます!」
斥候のもたらした一言が、マリゼルに大きな変化をもたらせた。
「ヒッタイトの・・・正規軍だと!?指揮官はだれかわかるか?」
「第4皇子ザナンザ、とのことです。」
マリゼルも、またそこに居並ぶ将軍達にとっても初めて耳にする名前であった。
「ヒッタイトの第4皇子というのは間違いないのだな。」
マリゼルは念を押した。
「はい、その点は間違いございません。」
はっきり断言され、マリゼルの胸に熱いものが込み上げてきた。
(ムトネドイェメト様は、まこと王国の名誉を継ぐに相応しきお方であった。)
「天は我らをお見捨てにならなかったと見ゆ。」
マリゼルだけでなく大方の将軍達は、アルタタマの背後にヒッタイトの影を感じていた。だが、どれほど戦おうともヒッタイトはその姿を現してこない。至る所にその痕跡は見られるのに、肝心のヒッタイト軍はその存在を隠したままであった。それが、最後のこの場に及び、ついに姿を現したのである。
「この城塞がなかなか落ちぬことに、ついに痺れをきらせたのでしょう。」
「それもあろうが・・・。」
「他に何か思い当たることでもお有りか?」
「・・・いや。」
マリゼルはかぶりを振った。ヒッタイトの出陣は、沈んでいたミタンニ兵の志気を高揚させたが、同時に援軍が来ないことも意味していたのだ。だが、せっかく志気が上がりかけたところへ悪い予測を持ち出して軍の志気を消沈させたのでは元も子もない。
(姫、陛下とともにあったミタンニは、このマリゼルが確かにお引き受け致しましたぞ。)
マリゼルは心の中でムトネドイェメトの面影に語りかけた。戦場にザナンザ皇子本人と相まみえることがあれば、ムトネドイェメトの思うところもはっきりするとの確信があったが、それこそ運次第といったところであろう。
「各々方、出陣の用意はよろしいか?これが最期の戦となろう。心残りの無きよう、存分に戦っていこうぞ。」
今一度マリゼルは、居並ぶ将兵達を見回すと、その顔をしかと胸に刻みつけた。ここを出たら最後、もはや二度と会うことはないだろう。死を恐れぬ男達の戦いが始まろうとしていた。

夜明けと共に城塞都市カルケミシュの城門が開け放たれ、ミタンニ軍が一斉に打って出た。先陣にマリゼルの姿がある。
「出ました!先陣は・・・マリゼルです!」
ザナンザ皇子もまた先陣を切った。
「我に続け!」
膠着状態にあったミタンニとヒッタイトとの間に、ついに戦の火蓋が切って落とされたのだ。その時、マリゼルとザナンザの胸中を占めていたものが果たして何であったのか、互いに知る由もない。だが、それは互いが勝利と栄光とそして名誉をかけた戦いであった。