砂漠の果てに

それぞれの野心(3)

ザナを送り出したあと、ムトネドイェメトは静かにアンケスエンアメンの迎えを待っていた。待ちかねたムトネドイェメトの元に夜半に訪れた使者は、アンケスエンアメンその人であった。ほぼ孤立無援な状態とも言えるアンケスエンアメンの立場からしてみればそれもやむ得ないのかもしれないと思いながら、ムトネドイェメトはネフェルティティの葬送を見送るべく「番人の家」を抜け出した。驚いたことに、深夜のアケトアテンの廃墟に何処ともなく明かりが灯り、決して少なくない人々が葬送の列を為して砂漠へと消えていったのである。
「彼らは皆、アテン神の忠実なる僕達です。彼らがいる限り、アテン神の教えは生き続ける。」
砂漠に面した城壁にアンケスエンアメンの低い声が風に流れた。
「最後まで見送らなくてよかったのですか?」
ムトネドイェメトの質問に、アンケスエンアメンは砂漠を見据えるようにして答えた。
「砂漠はホルエムヘブの領域です。名も無き市井の民は見逃しても、王妃の姿を彼らが見誤ることはありません。」
アンケスエンアメンの言葉にはどこかあいまいな敵意が籠もっていることにムトネドイェメトは疑問に思った。これまでのところホルエムヘブの態度は他の老臣達と一線を期するものがあるように思えたからだ。なにより、その野心の欲するところがそこにいた老臣達と異なっているとムトネドイェメトは感じていた。しかし、アンケスエンアメンにはアテン神を否定する者としてひとくくりにされているらしい。
「帰りましょう。あまり長く部屋を空けては不審を招きますゆえ。」
ふたりは暑い夜を夜風にあたって涼みたいと中庭に降り、そのまま侍女の手引きで街の外へと出ていた。
「夜を明かすほど見応えのある庭ならよかったのでしょうが。」
手入れをする人もなく、荒れ放題の庭には灌木がところどころ茂みを形勢しているに過ぎない。水の流れる池もなければ花もない。庭とは名ばかりの草地であった。
「それでも、かつては見事な花が咲いていたのでしょう?」
「・・・そう言う日があったのかもしれません。」
それ以上感傷に浸ることなく、アンケスエンアメンは部屋の方へと歩き始めた。
「あの、アンケスエンアメン様。」
後を追うようにして歩き出したムトネドイェメトが何気なく呼んだ彼女の名前に、だが返事はなかった。聞こえなかったはずはないのだがと、もう一度呼びかけようとして、ムトネドイェメトは息を呑んだ。
「私をアメンの名で呼ぶのはお止めになって。」
アンケスエンアメンの声は不快を通り越して、怒りすら感じさせる響きを持っていた。それもそのはずで、アンケスエンアメンとは「アメン神のために生きる者」を意味しており、アテン神を信ずる彼女には、アメンを戴く名で呼ばれることは耐え難い苦痛だったのである。ムトネドイェメトが感じていた以上にアンケスエンアメンのアメン神に対する憎しみは強いらしい。異国の神といえど拒否するような経験をしたことのなかったムトネドイェメトにとって、同国の神を戴きながら反目しあうムトネドイェメトの考え方は理解しにくいものであった。けれども、わざわざアンケスエンアメンの怒りを買うようなことをするほど愚かでもない。
「では、何とお呼びしたらいいのでしょう?」
ムトネドイェメトは現実的な問題だけに絞って質問をすり替えた。
「アンクエス。」
短くアンケスエンアメンは答えた。アテンを冠することなく、アメンも戴かない彼女の幼い頃からの愛称である。
「その代わり、私もあなたのことは。」
間髪入れず、ムトネドイェメトはミタンニの王都脱出の際に付けた呼び名を言った。
「ムト、と呼んでください。」
「ムト・・・。」
アンケスエンアメンは何かを思い出すように小さくその名を呟いた。
「そう、それもまた悪くないかも知れない。」
闇の中でも輝きを失わない瞳が互いの存在を認めていた。

歩きながら、それまでと打って変わった沈痛な面もちでアンケスエンアメンはエジプトのファラオであり夫でもあるツタンカーメンのことを話し始めた。
「会えばわかることですから、今更隠し立てもしませんが、彼はとても繊細な人なのです。信仰と政の狭間にあって、彼はいつも追いつめられています。」
ムトネドイェメトにはアンケスエンアメンの言う意味が俄には理解できなかった。彼女の知る王の姿とは、何事も全てを自分の意のままに取り仕切ってきた父王トシュラッタだけであったから無理もない。
「私達に今必要なのは、アメンを意識しなくてもすむ友人です。」
ムトネドイェメトはアンケスエンアメンの欲するところを正確に読みとっていた。また、アンケスエンアメンにしてもそれを見越して話を持ちかけたといえる。ザナをエジプトから送り出した時にムトネドイェメトの当初の目的は達せられた。この上は速やかにエジプトを去りバビロニアへ向かいたいと思っていたが、ムトネドイェメトばかりに都合良く事は進みそうにないようである。後々のことを考えると、ここで無理を押して出発するのは得策とはいえなかった。ごく短い空白の間に、ムトネドイェメトは素早くこれからのことを思索し自分の身の振り方について結論を出した。
「私は亡国ミタンニの王女です。諸国との外交を復活させようとしているエジプトにとって、あまりよい存在とは思えません。」
まずは、近年台頭してきたヒッタイトのことをそれとなく仄めかしてみた。ヒッタイトは、エジプトがいずれ雌雄を決さねばならない相手であるが、今はまだその時ではない。けれども、ムトネドイェメトはそのヒッタイトを直ちに敵にまわそうとしているのだ。
「あなたは、母上の妹。エジプト第一王妃の叔母ですわ。」
アンケスエンアメンの答えは直接それに触れるものではなかったが、ムトネドイェメトがエジプトに滞在するにあたっての待遇については、全面的に保証するというものであった。バビロニアへ赴いてもこれ以上の待遇は望めないだろう。
「エジプトの書物には、いつか是非触れてみたいと思っていました。」
「テーベには世界中から知識が集まっています。ミタンニの将来にもきっとお役に立てましょう。」
ムトネドイェメトはアンケスエンアメンの望んだとおり、そのままエジプトに留まることにしたのである。

当時エジプトの首都はテーベであった。ツタンカーメンをファラオに戴くアメン神官団の横行する都である。ムトネドイェメトは、まずはアンケスエンアメンの友人としてテーベの王宮に一室を与えられた。第一王妃の叔母では何かと堅苦しい取り決めに縛られるため、気安くアンケスエンアメンと話のできる方法を選んだのだ結果としてムトネドイェメトは気軽にアンケスエンアメンを訪れ、またその夫であるツタンカーメンと親しく話をする機会を得た。

ツタンカーメンは話に聞いていた以上に繊細な少年であった。年齢からいえばすでに青年ともいえなくはないが、彼の心は小さな子供と大差がないように感じられた。それほどに自分の意志というものが感じられないファラオであった。ムトネドイェメトの滞在は、ツタンカーメンにとって、頼りになる姉がひとり増えたくらいの感覚らしい。アンケスエンアメンの話をそのまま受け入れたファラオにムトネドイェメトは少なからず失望していた。一国の王とはそんなものではないはずだとの思いが強かったのだ。だが、彼なりにエジプトを心配している様子は見て取れた。少なくとも国を憂えるだけの頭脳は持ち合わせている。それこそがアンケスエンアメンの希望であり、ムトネドイェメトが滞在することの意義を持っていた。アンケスエンアメンはツタンカーメンに、他国の人と接することによってエジプトのファラオであることの自覚を持たせたかったのだ。そして、それは成功したかのように見えた。

第一王妃の友人が王宮に滞在してからというもの、どこか後宮に活気が感じられるようになったというのが、そこに務める女官達のもっぱらの噂である。それまでアメン神官の持ってくる書類に黙ってサインするだけだったファラオが、その政策に対する質問を口にした時には、ネブ神官長もファラオに起こりつつある変化を否応なしに認めることとなった。それは、彼らにとって好ましい方向に進むものではない。ファラオはアメン神のお告げをそのまま復唱してくれる存在であればよいのだ。

女官達の噂から、ムトネドイェメトの名前を聞き出すのにそう時間はかからなかった。ミタンニの王女にして先代王妃の妹というのはさしたる問題ではなかった。問題なのは、現在の第一王妃の叔母ということである。しかしその点についてはアンケスエンアメンが巧妙に立ち回って、全く触れようとしていない。触れられていないことに目くじらを立てて表沙汰にするのは愚の極みであり、それだけに彼に出来たのはアメン神に忠実な女官長を通してムトネドイェメトを遠ざけるようファラオに進言することくらいである。だが、ムトネドイェメトをファラオに引き合わせたのが第一王妃であり、ツタンカーメンは夫として妻に夢中であったからその結果のほどは知れたものだ。ツタンカーメンがファラオらしく振る舞うほどにネブ神官長は不機嫌になっていった。

ネブ神官長は、用事があるとツタンカーメンが後宮でくつろいでいても構わずやってくる。
「ファラオよ、本日は大切なお話があって参りました。」
ネブ神官長の話で大切でない用件のあった試しはない。それでもその用件に対する結論はほとんど出ており、彼は神官団の方針をファラオに報告するだけが常であった。ツタンカーメンの返事も大抵の場合決まっていた。訪問のあった翌日ファラオの執務室に出向き、国璽を押すことを約束する。そもそも彼に反対を唱えるだけの力はないのだから、承認する以外返事のしようがなかったのだ。けれどもその日のツタンカーメンの返事は違った。大臣達の意見を直接聞いてみたいと言ったのである。
「ですが、すでに決定が・・・。」
「私はまだ御璽を押していない。」
ツタンカーメンの返事は極めて素っ気ないものであった。ネブ神官長の顔色がそれとわかるほどに青ざめていくのが見て取れたが、取り乱したりはしなかった。絶大な力を持つアメン神官長たる自分に逆らう貴族はいないという自信があったからだ。
「では、明朝お迎えにあがります。」
うやうやしく礼を取ると、思いの外あっさりとネブ神官長は引き上げていった。
「・・・あっけないほどあっさり引き下がりましたわね。」
アンケスエンアメンはきつねにでもつままれたかのように拍子抜けしていた。
「彼らだって、バカじゃない。飾りものとはいえ、私はファラオだ。」
ツタンカーメンの言に、衝立の影に控えていたムトネドイェメトは思わず吹き出しそうになった。飾りものとはいえ、最高位にあるファラオが居並ぶ廷臣を前に反意を翻せば、神官長とて無理に事を進めることはできないはずだと気弱になっていたツタンカーメンに発破をかけたのはつい昨夜のことだ。ツタンカーメンのあまりの覇気のなさに、半ば言い捨てるように投げつけた言なのだが、こんなに早く実行に移すとは思いもよらなかった。
「あなたの言うとおりでしたね。私は自分がファラオであることの意味をもっと早くに気が付くべきでした。」
姿を現したムトネドイェメトに向けられた笑顔は、微かではあっても希望を宿したものであった。
「だからといって急に変えれるものでもないとは思う。アンクエス、もう少し私に時間をくれないだろうか?」
彼の行動の裏にはアンケスエンアメンの歓心を得たいという想いがあったのだ。ファラオとしての自信のなさが、そのまま彼を少年に留めていた。しかし彼は今、ファラオとして冠を戴く価値に目覚めつつあった。真摯な瞳をした年下の夫に、アンケスエンアメンは跪いてその手を取った。
「陛下のそのお心だけで今は十分でございます。」
父や母の急激な改革がアメン神官達の反感を呼び、更には旧臣達の離反を招いたことをつぶさに見てきた彼女には、慎重な姿勢を取ったツタンカーメンの態度は物足りないながらも理解できるものであった。アンケスエンアメンが心に秘めた願いを叶えるためには、ファラオの権力をツタンカーメンが取り戻すことから始まるのだ。
「父上よりもっと慎重に、そしてもっともっと強くならなければ・・・。」
それまでとは別人のようなツタンカーメンの力強い言葉にアンケスエンアメンは感動していた。夕陽がファラオの部屋を茜色の帳で覆うとしている。ムトネドイェメトはそれ以上自分の存在がふたりの時間の妨げになることを好まなかった。
「明日、陛下がこの部屋にお戻りになられる頃、私もまた尋ねて参ります。」
翌日の訪問を約束してムトネドイェメトは部屋を出た。
出際にツタンカーメンが振り返った時、ムトネドイェメトの目に映ったのは自信を持った若きファラオの姿であった。けれども、それがムトネドイェメトの見たツタンカーメンの最後の姿となったのである。