砂漠の果てに

それぞれの野心(4)

不幸な出来事というのは常に不測の事態として起こるものであり、当事者達の予期せぬ出来事として突然に訪れるものである。エジプトの若きファラオ、ツタンカーメンの死は危惧された中で起こった不測の事態の典型といえた。朝、アメン神官長ネブとともに執務室へ入ったツタンカーメン王を夕刻に出迎えたのは、王妃アンケスエンアメンではなく、冥府の主オシリス神であったのだ。
「なぜ・・・。」
後宮でツタンカーメンの死を知らされたアンケスエンアメンの受けた衝撃は、計り知れないほど大きかった。
「陛下は今朝私に、今宵の夕餉を供にしようとお約束されました。陛下が私との約束を違えるはずはありません!」
アンケスエンアメンの悲痛な叫びは、だが、使者には何の感慨も与えなかった。命じられたとおりの口上を今一度繰り返すと、使者はそのまま立ち去っていったのである。
「これからという時に。」
そう、これからが見えたからツタンカーメンはオシリス神の元へ送られたのだ。アンケスエンアメンはツタンカーメンの悲運を嘆き、己の無力さを呪った。ツタンカーメンを襲った悲劇と挫折は彼だけに留まらない。ツタンカーメンの第一王妃であり唯一の王位継承権を持つアンケスエンアメンには更なる難問が待ち構えていた。
即ち空位になった王位を誰に継がせるのか。
愛する夫の葬儀を終えた時、ファラオの未亡人は好むと好まざるとに関わらず、新たなるファラオを夫として迎えることになるのだ。

ツタンカーメンの死後、後宮の人間に加え、政治を司る者達がそれぞれの思惑を従えて昼夜を問わずアンケスエンアメンを訪れてくるようになった。中でもアメン神官長ネブは王位継承問題を全面に押し立て強引に面会を求めてくる。ネブは有力な家臣の中から新たなファラオを選ぶよう進言しているが、実質的には彼の推挙する人物を王位に就けろと言っているようなものだ。彼の口からはふたりの相反する人物の名が次代のファラオとして挙げられていた。
ひとりは政務を司り、既に神の父たる称号を持つ大臣アイ。
いまひとりは、実質的な軍事権を握っている将軍ホルエムヘブ。
ネブが推挙するまでもなく、このふたりのいずれかが次代のファラオになるであろうことは公然と噂されていた。しかし、アンケスエンアメンはそのどちらに対しても嫌悪以外の何ものも感じておらず、神官長の申し出を激しく拒絶し続けていた。
「王家の誇りに掛けて、私は臣下などとは結婚いたしませぬ。」
「しかし、このままではファラオの葬儀すらままなりませぬぞ。」
前ファラオのミイラは次代のファラオによって口を開かれるのだ。
「・・・それまでに、まだ時間はあります。」
ファラオの葬儀はその死後、遺体のミイラ化が終わる約70日後に執り行われるしきたりであった。すでにその約半分以上の日数が過ぎているのに、アンケスエンアメンは葬儀において肝心なその一点については頑なに口を閉ざしている。葬祭殿の神官には、ネブでなくともやきもきし始めた者は多かった。あまたの事情を承知の上でアンケスエンアメンは真っ向からアメン神官長を見据えていた。いかにアメン神殿の最高権力を握る神官長といえど、王位継承権を持つ唯一の相手に対してはそれなりに遠慮がある。アンケスエンアメンは「神の子」であり「神の妻」なのだ。慇懃にお辞儀を繰り返し、神官長は王妃の前を辞していった。

ネブが立ち去り静けさを取り戻した部屋でアンケスエンアメンは、じっと椅子に腰掛けたまま身じろぎひとつしないで空を睨んでいた。
「アンクエス?」
夕闇が迫ってもそのままのアンケスエンアメンを心配した女官からの知らせを受けて、ムトネドイェメトはそっと声を掛けてみた。
「ムト?ああ、もうこんな時刻でしたか。」
「ネブが来ていたと伺っていましたが。」
「ええ、いつものようにアイとホルエムヘブのどちらかを次期ファラオに指名しろと催促にね。この私に臣下と結婚しろだなんて、王家を侮辱するにもほどがある。」
しかし、その口調にはまるで説得力がなかった。アンケスエンアメンは決して王家の血に拘っているわけではない。王家の血に拘っているように見せているだけなのだ。無論、生粋の王族であることに対する誇りもあるであろうが、それ以上に彼女が拘っているのはおそらくその信ずる神ゆえに違いない。アメン神官の意に叶った者をファラオに迎えれば、今度こそ彼女のアテン神は完全に否定されてしまうだろう。己の信仰故にアンケスエンアメンはアメン神官長の申し出を絶対に受けるわけにはいかないのである。夕闇が立ちこめる中、アンケスエンアメンはゆっくりと立ち上がった。
「今宵もどこかへ涼みに行かれるのですか?」
ムトネドイェメトの控えめな問いに、アンケスエンアメンは曖昧な微笑みを浮かべただけだった。この数日、アンケスエンアメンが密かに誰かと連絡を取り合っていることをムトネドイェメトは知っていたが、敢えて気が付かないふりをしていた。アンケスエンアメン以外に王位継承権を持つ者が存在しない限り、ファラオに誰が指名されようとも彼女がエジプト第一王妃の地位にあることには変わりないのだから、当然ムトネドイェメトの置かれている立場も変わることがない。アンケスエンアメンが外出の用意をそれとなく整え始めたのを見て、ムトネドイェメトはそのまま自分の部屋に戻っていった。

部屋に戻ってからムトネドイェメトは何か釈然としないものを感じていた。王宮における細かい勢力分布はまだよく把握できないでいたが、大まかな情勢は掴んでいるつもりである。いかにアンケスエンアメンが拒絶しようとも、アイかホルエムヘブの何れかをファラオに迎えざるを得ないことは明白の理であった。
「このふたり以外に皆が納得できるファラオはいない。悪戯な時間稼ぎはかえって不利になるだろうに。」
頬杖をついたままムトネドイェメトは夜風に当たっていた。気になることと言えばもうひとつ。ムトネドイェメトは扉を開けて外に控えていたラムセスを部屋に招き入れた。
「ラムセス、ホルエムヘブは今どこにいます?今日はまだ後宮に顔を見せていないようですが。」
ムトネドイェメトがエジプトに滞在して以来、ホルエムヘブは頻繁に後宮へ顔を出していた。
表向きはムトネドイェメト付きの護衛として配した歩兵隊長ラムセスへの指導ということだが、それが後宮を訪れるための単なる口実であることは周知の事実であった。彼の目は常にエジプトのファラオとその王妃に注がれている。それ故に、次代のファラオを決めるこの時期にたとえ一日といえど後宮に姿を見せないことは不可解この上なかったのだ。
「国境警備に忙しいから後宮に顔を出してる暇なんてない。」
跡継ぎを持たぬファラオの死は諸外国に付け入る隙を与える。役目柄、ホルエムヘブが国境の警備態勢を強化するために飛び回っていても不思議はないのだが、王宮への日参は次代のファラオ選定に関わることだけに、あたら疎かにできないはずだ。少しでも後宮に入りやすくするために、ムトネドイェメトに護衛を付けるという名目で自分の部下を後宮に送り込んだことを思えば、彼の行動の不可解さがわかろうというものである。黙りを決め込んでいるラムセスにムトネドイェメトは質問を変えた。
「そういえば、アイは船遊びが好きでしたね。アンクエスが涼みに出かける場所は船遊びができるのかしら?」
「できなくはないだろ。港よりの河川だし。」
言ってから、ラムセスはバツが悪そうに俯いた。これではアンケスエンアメンとアイの行動をホルエムヘブが知っていることをムトネドイェメトに教えたようなものだ。もっともその程度のことはムトネドイェメトとて予測していただろうから、口にした以上はラムセスも開き直った。
「夕涼みなんて誰だってやってることだ。」
「ホルエムヘブも夕涼みに船遊びをするのですか?」
やんわり聞き返したムトネドイェメトにラムセスはまたしても沈黙を守った。答える必要のない質問に対しては時として沈黙も有効であるが、沈黙することで答えを相手に教えてしまうことがあることにラムセスはまだ気が付いていない。けれどもそれだけではホルエムヘブの行動を読むことはできなかった。己の利益より国益を優先させる傾向のあるホルエムヘブの気質から考えて、アイとの協調は絶対にありえないと断言できるものではなかったからだ。
「分裂より、まずは協調ですか。いかにもホルエムヘブらしい選択ですこと。」
我ながら卑怯な問いかけだとの自覚はあるが、必要な情報を得るためにはやむを得ない。そもそも情報とは与えられるものではなく自分で掴むものであり、教えた方が負けなのだ。
「将軍はアイなんかと手は組まない!」
案の定、ラムセスは怒ったように言い返した。どうやらホルエムヘブはアイと手を組むつもりはないらしい。ホルエムヘブの関心事が国外からの干渉に重きを置いていることを考えると、内政にしか興味のないアイと歩調を合わせることは確かに困難であろう。だが、今回は外政に重きを置いていないアイが先に動いている。ホルエムヘブの行動はそれを追ってのものだ。
「・・・いったい誰を?」
アイとホルエムヘブが同時に行動を起こしたということは、アンケスエンアメンの押す第3の人物が存在すると言うことである。アンケスエンアメンは王族以外を夫に迎えるつもりはなく、しかもアメン神官団の息のかからない者をファラオに望んでいた。
今のエジプトにそのような人物がはたしているのであろうか?
ここ数代のファラオの名を辿り始めた時、ムトネドイェメトは第3の人物の身分に思い当たった。アンケスエンアメンの父アクエンアテンも、その祖父アメンホテプ3世もそれまでのしきたりを無視して外国人をその正妃に迎えている。ふたりのファラオはいずれも玉座に着いたとき、自身がただひとりの王位継承者であった。アンケスエンアメンが女性であるという点を除けば、その時の状況とまるで同じではないか。
「まさか?」
その瞬間、ムトネドイェメトは胃の中が冷たくなるのを感じた。自らが前例を作ってきたファラオの2代に渡る血を濃く引くアンケスエンアメンの大いなる決断に思い当たったムトネドイェメトは、己の信念による行動力の成せる技をまざまざと見せつけられた思いがした。けれどもまだアンケスエンアメンはまだその手に勝利を掴んだわけではない。
「輿の用意をして下さい。」
ラムセスはムトネドイェメトの要請に無言で頷くと、数人の警護の兵を招集し、速やかに外出の手配を整えた。ホルエムヘブはラムセスにムトネドイェメトの警護を命じたとき、彼女の行動に制限を加えることを禁じていた。はなはだ面白くない条件ではあるが、ラムセスにとってホルエムヘブの命令は絶対である。
「で、どちらの河へご案内しましょうか?」
皮肉ったラムセスにムトネドイェメトは「テーベ最大のアメン神殿へ。」と答えた。
「アメン神殿では、毎夜祈りが捧げられていると聞いています。一度くらい訪れてもよいでしょう。それに、私が留守の方がいろいろと都合の良い方もいらっしゃるようですから。」
思わず身構えたラムセスにムトネドイェメトはクスリと笑い用意された輿に乗り込んだ。ムトネドイェメトは三者三用の結末を自身の目で見届けようと決意していた。