砂漠の果てに

それぞれの野心(5)

城塞都市カルケミシュの市外で繰り広げられたヒッタイトとミタンニとの戦いは、大方の予想通り、夕刻までに勝敗が決し、勝利を知らせる早馬がヒッタイト本国へ向けて飛ばされた。この戦いにより、オリエントの覇権で1、2を争っていた強豪ミタンニ王国は滅亡し、新興ヒッタイト帝国の台頭を人々に印象づけたのである。ミタンニ王国が滅んだことで念願のシリア制覇を果たしたヒッタイト帝国は、当然のごとく勝利の知らせに沸き立っていた。しかし、ザナンザの凱旋を間近に控えた深夜の宮殿の一室で、密やかに交わされた懇談は、その勝利を手放しで喜ぶものではなかった。
部屋の主はヒッタイト帝国第一皇子アルヌワンダであり、彼を訪問しているのは、第3皇子ムルシリである。両者の生母は異なれど、どちらも正妃であったことから共にヒッタイト帝国の皇位継承権を持つ皇子達である。現在のところ長子であるアルヌワンダが皇太子の地位にあるが、ムルシリは子供のいないアルヌワンダの後継者ともっぱらの噂であった。アルヌワンダはそれを否定することなく、また、ムルシリは黙々と兄の片腕としてその才覚を振るっており、両者の仲は極めて良かった。

「何が気に入らないのだ?まさかザナンザが勝利したのが気に入らないとでもいうのではあるまいな。」
勝利の杯を交わしながら、にこりともしないムルシリにアルヌワンダは不審な思いを口にした。他人が名声を得たからと言って嫉妬するような度量の狭い弟ではないだけに、アルヌワンダは疑問を口にせずにはいられなかったのである。訝しげな視線を向けたままのアルヌワンダにムルシリは、心底忌々しそうな口調で吐き出した。
「はめられたんですよ、ザナンザは。」
「はめられた?」
ムルシリの言った意味が分からず、アルヌワンダは聞き返した。
「ザナンザはあのマリゼルを相手に勝ったのだぞ。」
ヒッタイトの皇子とはいえ無名に近いザナンザが、名将と名高いミタンニの王族将軍に勝利したことは大いに賞賛されるべきではないのか。
「ザナンザにとっては名誉ある勝利には違いないでしょう。実際、あそこまでやれるとは思っていませんでしたから。」
ムルシリはザナンザの勝利に対しては素直に賞賛を贈った。だが、彼には、ヒッタイトの勝利としては手放しで喜べない理由があったのだ。
「せっかくアルタタマを焚き付けてミタンニを攻めさせたというのに。」
腹立たしげに彼は吐き出した。アルタタマのミタンニ襲撃は、他ならぬムルシリが仕組んだことであった。しかも、勝利を確実にするために武器や情報も極秘に流してやったのだ。表向きは、あくまでアルタタマがミタンニを滅ぼしたことにしたかったからである。
「ザナンザが指揮したのは我がヒッタイトの正規軍ですよ。これではミタンニを滅ぼしたのは、我がヒッタイトだと宣言したも同じです。」
「ふーむ・・・。それはちと、まずいな。」
ズバリ、ムルシリに指摘され、アルヌワンダも眉間にしわを寄せた。
「せっかくムーラをマッティワザに与えたのに、下手すると無駄になってしまう。」
戦いに敗れ、バビロニアへ亡命途上のミタンニ王国皇太子マッティワザを、ムルシリは策を弄してヒッタイトへ迎えていた。しかも、その策に乗じて、妹ムーラをマッティワザと婚姻させ離宮に住まわせていたのである。妹婿ということで兵を与え、アルタタマを撃たせてミタンニ復興の恩を着せる。あとは婚姻による同盟から平和的合併のチャンスを待てばよい。これでヒッタイトは表に出ることなく、ミタンニを手中に収められるはず、というのムルシリの政略であった。

最期の戦いとなったカルケミシュの戦いでミタンニ側は、名将マリゼルを旗印に最盛期とほとんど変わらぬ高い志気を持って挑んできたという。それを正面から打ち破ったからこそ、ザナンザの名声が上がったのだ。同時にそれは、ミタンニ対ヒッタイトの戦いであることを世に知らしめることになった。
「つまりは、それが狙いだったわけだ。」
アルヌワンダもここに至り、ようやくムルシリの苛立つ理由を理解した。ミタンニ王国は、勇猛なるトシュラッタ王を失い、その先には滅亡が待つだけであった。だが、同じ滅亡するにしても、アルタタマの奇襲で滅ぼされたのではなく、ヒッタイト帝国と正面から戦って滅びた方が王国のとしての名誉は守られる。そしてそのとおり、大国ヒッタイトを相手に、ミタンニは王国として恥じぬ戦いをしてみせたのだ。
「国を失えど名誉は守り切る、か。」
だが、それにしてもザナンザがカルケミシュに駆けつけたタイミングが良すぎるのではないか?
その疑念が湧いた時、ザナンザの勝利は、彼の実力もさることながら、それ以上に大きな意図を持った誰かに仕組まれたものである可能性に思い当たったのである。戦いの結果は、ミタンニを滅ぼしたのはヒッタイトだとシリアの人々に深く記憶させることになった。それはヒッタイトが侵略者としてミタンニを支配するという印象をシリア各国に与えてしまい、警戒の念を抱いた国も少なくないだろう。
「となれば、尚更、マッティワザをこちらに取り込んでおく必要があるな。」
国土を失ったとはいえ、マッティワザがミタンニの皇太子であることには変わりない。彼を押さえておけば、少なくともミタンニ王国の領地であった地域を領有する上での名目は立つ。
「ええ。既にムーラ宛てに金子を届けましたよ。屋敷も王宮内に構えるよう進言しに行くつもりです。」
「物入りだな。」
「仕方ありません。ミタンニにはそれだけの価値がありますゆえ。」
いつもの事務的な口調に戻ったムルシリにアルヌワンダは同意の意を示した。
「資金的に不足するようなら、私の名を使え。」
「よろしいのですか?」
「そのくらいのリスクは背負ってやる。その代わり、必ずミタンニを手に入れろ。父上がご存命のうちにな。」
ムルシリは無言のまま頷いた。アルヌワンダにシリア制覇のためにマッティワザをヒッタイトに迎えるよう進言したのは他ならぬムルシリである。言われなくとも、そのつもりであった。ムルシリは恭しく皇太子に礼を取った。
「では、これからのことですが・・・。」
改めて口を開いた矢先、深夜の部屋に新たな訪問者があった。
「夜分に失礼いたします。皇帝陛下が至急、皇太子殿下をお召しでございます。」
それは彼らの父であるヒッタイト皇帝シュッピリウマからの緊急の使者であった。
「父上が?今からか?」
使者は、はいと頷いた。今時分、火急を要するような問題が起こったとはすぐには信じられなかったが、呼び出されたのは事実であるから、何はさておき招きに応じねばならない。
「よい話だといいのだがな。」
アルヌワンダは、ムルシリにそう言い残して、素早く身支度を整えると出かけていった。

ヒッタイト皇宮は、深夜というのに明々と灯りが灯され、重臣達が次々と皇帝の下問に呼び出されていた。入るときはそれぞれ異なる様相であったが、出てきたときには皆一様に困惑した表情に変わっている。いかなる難問が出されたのか気にしながら、アルヌワンダは不安な面もちで入室した。
「見るがよい。」
アルヌワンダが入ってくるなり、シュッピリウマは卓上に置いてあった書簡を指さし、読むようにと促した。アルヌワンダは恭しく書簡を手に取ると、早速に目を通し始めたが、次第にその表情が驚きに変わっていった。
「・・・これは、事実なのでしょうか?」
その言葉を聞くなり、シュッピリウマは人の悪げな笑みを浮かべた。
「そなたで9人目だな。」
アルヌワンダの前に8人が下問を受けているのだから、言ってしまえば皆同じ反応を示したことになる。
「まあ、よい。事の真偽を確かめるべく、エジプトには使者を送った。」
「ツタンカーメン王の死については、私も報告を受けておりますが。」
控えめにアルヌワンダが口を挟んだ。ムルシリが深夜訪問に際してアルヌワンダに最初にもたらしたのが、この知らせであったのだ。
「ほう、早いな。」
「恐れ入ります。ですが、まさかこのような事態が持ち上がろうとは、その・・・。」
「にわかには信じ難い?」
「はい。」
アルヌワンダは素直に頷いた。
自分が策略や知謀というものに長けていないことをよく知るアルヌワンダは、そのことを逆手にとってこの時代には珍しく誠実さを持って事に接していた。情勢の安定したヒッタイトにとっては、むしろ好ましい後継者として、彼は皇太子の地位にある。
「そなたの意見が聞いてみたい。」
アルヌワンダにさっと緊張が走った。
シュッピリウマは時折息子達の器量を試すような質問を投げかけてくる。強張った表情のアルヌワンダにシュッピリウマは、世間話でもするかのように尋ねてきた。
「これが事実であるなら、誰を送り込む?」
当然とも言える質問だが、即答するにはあまりにも不確定な要素が多い上に、ヒッタイトの未来をも左右しかねない内容だけにアルヌワンダはしばし口を開くのを躊躇った。
「そなたなら、迷うことなく彼のものを推挙すると思うたが。」
シュッピリウマの言葉は、既に心づもりの相手がいることを示している。この話を聞いた瞬間、アルヌワンダの脳裏に浮かんだ相手は、シュッピリウマの意図している相手と一致していることはほぼ間違いないだろう。これまでの実績からして、その資格は充分にあることは容易に推察できる。だが、彼には未来の皇帝として密かに決めていることがあった。それを実行するためには、皇帝の仄めかした者を素直に推挙するわけにはいかないのだ。彼にはせっかくのチャンスを潰すことになるだろうが、自分の広大な計画のためにはやむを得ない。
「・・・・恐れながら。」
ごくりと唾を飲み込んで、アルヌワンダは沈黙を破った。
「この度のミタンニ戦、我が軍が勝利したとはいえ、ミタンニでの実権はアルタタマが握っており、ザナンザの功績に対しては未だ報いてやっておりません。」
ひとことひとこと慎重に言葉を選んでアルヌワンダは皇帝に進言した。
「戦功に報いてやってこそ、我が帝国の繁栄も望めようかと。よって、私は、ザナンザを推挙いたします。」
恐るべき緊張感がにわかに皇帝と皇太子の間に出現した。シュッピリウマにはまさに青天の霹靂とでも言うべき息子の言であったのだ。
「それで、よいのだな。」
念を押すような問いに、アルヌワンダは恭しく頷いた。
「皇帝陛下の御下問にお答えしたまでにございます。」
頭を垂れたままのアルヌワンダにシュッピリウマは退出の許可を与えた。
「皇太子の意見はわかった。退出するがよい。」
アルヌワンダが皇帝の拝謁を終えて外に出たとき、東の空は半分明けかけていた。

ヒッタイト帝国の首都ハットウサに凱旋したザナンザ皇子の軍勢は、大いなる歓呼を持って迎えられ、街中がお祭り騒ぎに浮かれていた。その中を、ザナンザは複雑な胸中で、自分の宮に向かっている。彼は、父であるヒッタイト皇帝に見えた凱旋の席上で、途方もない未来を宣告されたのである。
「そなたには、まだミタンニ戦での勝利の褒美を遣わしていないことを思い出してな。」
シュッピリウマは上機嫌であった。
「喜ぶがよい。そなたはエジプトの王となるのだ。」
側に控えている皇太子アルヌワンダをはじめとして元老院の議員達も皆次々とザナに祝辞を唱えてくる。王族の婚姻は政策の一環であり、そこにザナンザの意志を反映する余地はなかった。しかも、皇帝の決定は絶対である。
「エジプト王の葬儀とそなたの婚儀は表裏一体じゃ。速やかに支度を整え、エジプトに向かうのだ。」
ザナンザは唯々諾々と礼を述べると、直ちに婚礼の支度を整えるべく王宮から退出したのであった。

ザナンザの婚礼準備は極めて短期間のうちに手配せねばならず、非常に慌ただしかった。しかも当人は王族や神殿への挨拶回りで忙殺されるので、実質的な準備をするのは側近達の仕事になる。その筆頭であるヴァルシャは戦の疲れを癒す間もなく、婚礼準備の責任者として飛び回っていた。
「戦勝祝いに婚礼祝い、間違えないよう目録を作れ!」
「出立の準備はこれでいい。あとは、道中の手配だ。」
婚礼の一行を決めるのも一苦労だが、その道中の安全を確保するのがまた難問だった。エジプトの王妃からの懇願による婚姻とはいえ、元は敵国である。最悪の事態に対処できるよう心して準備せねばならない。

ヒッタイト帝国に滞在するミタンニ王国の皇太子マッティワザから祝いの品を携えた使者がザナンザの元を訪れたのは、そんな時であった。あいにくザナンザは不在であったため、使者の挨拶と献上品は慣例に従ってヴァルシャが受け取った。多くの使者はそのまま帰るのが普通だが、ミタンニ王国からの使者は違った。
「此度のエジプト行きに際しまして、お願いしたきことがございます。」
本来の献上品とは別に対応に出たヴァルシャへの心遣いも抜かりなく、彼は申し出た。
「わたくしめも、是非そのご一行の末端に加えていただきたく、お願いする次第にございます。」
「何故に、と尋ねるのが普通であろうな。なによりその方、ミタンニ人ではあるまい?」
ヴァルシャの耳は使者の言葉にミタンニ以外の異国の訛を感じていた。
「はい、それは当然のことと承知致します。わたくしはサライと申しまして、亡きトシュラッタ王によりムトネドイェメト王女様付きの家庭教師として雇われたバビロニア人でございます。」
「ほう?」
ヴァルシャはザナンザからムトネドイェメトとともにエジプトへ向かった話を聞いていたのでサライの申し出に特段驚くことはなかった。むしろ主のことを心配する気持ちは理解できるものであったから、危険な旅に同行してまでと願うその心意気に同情の念が湧き出たくらいである。
「サライ殿のお気持ちはよくわかるが、わたしの一存ではお答えできかねる。」
「それはよくわかっております。ましてや晴れの一行に加わるなど、夢思うてはおりません。ただ、最後尾について行くことをお許し願いたいのです。」
サライはどこまでも下手であった。ヴァルシャは密かに目配せし、幾人かが部屋から姿を消した。
「後日、改めて返答するということでよろしいかな?」
サライが部屋の変化に気が付いたかどうかはわからないが、彼自身の態度には変化は見られなかった。
「謹んでお待ちしております。」
サライは丁寧に挨拶すると退出していった。
「あのバビロニア人を信用なさるのですか?」
サライがいなくなった後、早々に部下が尋ねてきた。
「ただの家庭教師ではないことはザナンザ様より伺っている。」
ヴァルシャは短く答えると、再び目録に目を通し始めた。

短期間にも関わらず整えられたザナンザの婚礼支度はヒッタイトの力を誇示するに相応しいものであった。エジプトへ婿入りするザナンザ皇子の一行は、王宮を出るときには華やかに、だがその後は密やかに道中を進んでいく。その一行から少し離れた位置にサライがいた。
「正式な返事はいただけなかったが、断られたわけではない。」
サライは冷ややかな視線をザナンザの一行に向けていた。サライに同行しているのは、わずか4人と極めて少数である。
「無事にエジプトにたどり着けましょうか?」
いずれもサライの腹心といえる子飼いの者たちだが、彼らにも今回の旅の行く末は予想が付きかねていた。
「わからぬ。だが、我らの取るべき道は既に決まっているのだ。」
サライは頭上に太陽を遮る雲の存在のないことを恨めしく思いながら、ザナンザ皇子の一行の最後尾に付き、ハットウサを旅立ったのであった。