砂漠の果てに

それぞれの野心(6)

エジプトの王都テーベ最大のアメン神殿といえば、いうまでもなくカルナク神殿を指す。神殿は歴代のファラオによって幾度となく増改築が施されており、その巨大さはそのままエジプトの繁栄を誇示するものでもあった。噂には聞いていたが、現実にそこを訪れたとき、ムトネドイェメトは思わず唸るほどに圧倒された。同時にこれだけの民衆の支持を得ているアメン神を真っ向から否定しているアンケスエンアメンを哀れに思わずにはいられなかった。神官の横行にはいささか目に余るものがあるが、人々の信仰はアメン神にあり、アテン神への信仰をやみくもに押しつけたのでは、民衆からもいたずらに反発を招くだけではないか。アンケスエンアメンの主張するところの意味もわからぬではないが、民衆の支持が得られぬとあっては、その土台から覆されてしまうのも致し方ないところであった。
「アメン神を無視しては自滅するだけ。聡明な彼女にそのことがわからないはずはないのに。」
複雑な胸中を抱えたまま、ムトネドイェメトは群衆に混じって神殿の内部へと進んでいった。

ムトネドイェメトのまわりはラムセスとその配下の兵士がガードしており、貴人の参詣であることは一目瞭然である。そういったことに敏感な神官が一行を放っておくはずがなく、早速に案内を申し出るべく取り巻きの兵士に近づいてきた。
「よろしければ神殿の奥へとご案内いたしましょう。我らが案内すれば、この混乱の中ご不自由をかけることもござりませぬ。」
慇懃な申し出だが、ムトネドイェメトが断る理由はなかった。むしろいろいろな話が聞ければ好都合とばかりに、その申し出を受けたのである。

案内の神官がいなければ入れないと言われる神殿の奥も大勢の人でにぎわっていた。しかし、そこにムトネドイェメトは普段と異なる気配を感じていた。案内の神官が付くほどだから、普段一般の人が容易く入れる場所ではないはずのところなのに、なぜこうまで大勢の人でざわめいているのか。
「今宵は他の貴族もこぞって神殿に参拝しているのでしょうか?」
ムトネドイェメトは皮肉ったつもりだったが、神官の方はきょとんとしている。
「そのようなことは・・・。」
小首を傾げた神官にムトネドイェメトは少なからず失望した。どうやら彼には貴人の案内をして小遣い稼ぎをしている下級の神官以上の役割を求めるのは無理そうである。ムトネドイェメトは彼らの知っていそうなゴシップに話題を変えた。
「アイ殿やホルエムヘブ殿もこちらにはよくお見えになられるのですか?」
わざとらしく声のトーンを落として尋ねると、彼はしたり顔で自慢気に話し始めた。
「アイ殿は毎夜お見えになられます。さすがは次代のファラオと誉れ高き方。アメン神もお喜びでございましょう。」
アイの訪問が財力に物を言わせたアメン神官団への根回しであることは容易に察せられる。
「ホルエムヘブ殿は?」
「あまり信仰厚き方とは・・・。むしろアンケスエンアメン様の方が最近は熱心でございます。王妃様もファラオがお亡くなりになって我らを頼っておられるのでございましょう。」
思わぬところでアンケスエンアメンの名を聞き、ムトネドイェメトは驚きを禁じ得なかった。その様子に気が付かないのか、神官は声を潜めたまま話し続ける。
「側近の方々と今後のことなどいろいろとご相談されておられるようで・・。」
「この神殿で、ですか?」
思わず声を上げたムトネドイェメトに神官は、まさかと笑った。その先を聞くにはどうやらそれなりの物が必要だと察したムトネドイェメトはラムセスに目配せした。懐に忍ばされた心付けの感触を確かめると彼は再び話を続けた。
「王妃様はこの奥よりナイルの神の元へ向かわれるのでございます。そこで使者の方とお会いになられるようで・・・。」
そのものズバリの答えではなかったが、アンケスエンアメンの毎夜の行動と一致する内容ではあった。
「王妃様が参拝されるとあれば神官長殿も大変でしょう。」
「そこはネブ様のこと。王妃様のお心を汲み取って、密やかに取り運ぶようにと見守っておられます。むしろアイ様がお見えの時の方がご多忙のようで・・・。」
ネブはアンケスエンアメンから目を離さず、アイとその対策を練るのに大忙しなようである。さもありなんとムトネドイェメトは目を伏せた。そうなるとアイの行動からもアンケスエンアメンの結論は推測できそうな気がした。
「アイ殿がお見えになられるときは当然大勢のお供の方もご一緒なのでしょうね。」
「いえ、そのようなことは・・・。でも、今宵の訪問は大勢でございますなあ。」
思わぬところから神殿の奥にいる大勢の人々の謎が解けた。しかし、問題はなぜ今夜そのように大勢で訪問する必要があったかである。ホルエムヘブが後宮へ来なかった理由と関わりがあるのであろうか?感じられる人々の気配は、主を待つ従者のものというには場違いな猛々しさがあった。
「ああ、まだ大勢いらっしゃいますね。だいぶ減ったようではありますが。」
神官の何気ない呟きは、ムトネドイェメトの抱いた疑問の突破口となろうとしていた。戦いに無縁な神官にはわからぬざわめきが、戦場に赴く兵士の荒々しさを体験してきているムトネドイェメトの五感を刺激している。はやる心を落ち着かせるように、ムトネドイェメトはできるだけおっとりとさり気なさを装って次の質問を口にした。
「神殿の奥はそのまま行き止まりですの?」
それは、ミタンニ王国の王都ワシュカンニを脱出した自らの経験から出た疑問である。
「いえ、全てが行き止まりではございません。たとえば、この奥はナイル河畔へと続いております。年に何度かある神事の時には、こちらの水路を使って神船を漕ぎ出すのです。その様は・・・。」
ムトネドイェメトにはその先を聞く必要などなかった。
「帰ります。」
短く命ずるときびすを返し、ラムセスに直ちに輿の用意を命じた。急変したムトネドイェメトの態度に何か無礼なことでも働いたのかとオタオタし始めた神官に、心配はいらないが、今夜の訪問のことは他言無用とラムセスはすかさずそれなりの物を懐に押しつけた。愛想を崩したままの神官にナイル河畔への出口まで案内させ、早々に一行はカルナク神殿を離れていった。

「ラムセス、船の手配ができますか?」
河畔へ向かうよう指示したムトネドイェメトからの質問はラムセスの予測の範囲内であった。
「兵士用の小舟なら・・・。」
「それで構いません。」
高貴な方が使うにはそれなりの覚悟がいる代物だとラムセスは一応忠告したが、ムトネドイェメトがそのくらいで諦めようはずがない。
「だが、アイの兵士を追うにはいくらなんでも理由が経たないぜ。」
どうしてもつっけんどんな物言いになるが、ムトネドイェメトはそれをとがめる素振りは見せなかった。
「アンクエスに会いに行かねばならないのです。どのあたりにいるのかくらい、掴んでいるのでしょう?」
ムトネドイェメトの言葉は質問ではなく断定だった。ラムセスは返答に詰まった。
「アイが兵を派遣しているのですよ。アンクエスの正式な要請による使者に何かあれば、それこそ外からの侵攻に大義名分を与えてしまいます。この状態で外国と戦争になって勝てるとでも?」
「ホルエムヘブ将軍を愚弄するのか!?」
「ファラオに非ずして、いかなる正当性を持って全軍を指揮するというのです?国境の小競り合いとはワケが違う。」
国内だけの狭い範囲でしか戦ったことのないラムセスに国と国との戦いの意義を理解させることは困難であった。かといって、現地点でそれをじっくり説明するだけの余裕もムトネドイェメトにはない。
「とにかく、アンクエスに会わなければならないのよ。ホルエムヘブがアイに王位を譲るというなら別ですけど。」
それこそ詭弁である。しかし、ラムセスのみならずその場の兵士に最も効果的な言葉であった。
「船酔いしても責任は持たないぜ。」
「心配は無用です。」
これ以上の説得は無駄だと悟ったラムセスは、渋々ながらも河川沿いで最も近い軍の船着き場へと輿を進めていった。