砂漠の果てに

それぞれの野心(7)

ナイル川に沿った軍の船着き場は夜半遅くでも当直の兵士達で賑わっていた。
「変だな。」
その賑やかさの中にどこか不自然なざわめきを感じて、ラムセスは船着き場の手間で一旦輿を止めた。
「おい、様子を見てこい。こっちにムトネドイェメト様が居ることを悟られるなよ。」
一応念を押して兵士を様子を見に行かせた。
偵察気取りで出かけた兵士は、それほど待たずして戻ってきたが、その表情はひどく興奮していた。
「何があった?」
尋ねるのももどかしく問いつめるラムセスに、
「座礁船から助け出されたのが、大使とわかって大騒ぎです。」
と、ひどく要領の悪い答えが返ってきたのである。
「大使?どこのだ?」
「さあ、そこまでは」
「それがわからなきゃ意味がないだろうが!!」
肝心なところが抜けているではないかと、ラムセスは思わず怒鳴ってしまった。
「だから、大騒ぎになってるんじゃないですか!」
怒鳴られた方も、ラムセスに負けじと怒鳴り返してきた。
「どういうことだ?」
「さあ?」
「大使の身分にあるものが、大臣から夜襲を受けたなどと表沙汰にできることではないでしょう。」
「あっ!」
ことの重大さにその場が凍り付いた瞬間、付き添いの兵士の手を借りることなく、ムトネドイェメトはひらりと容易く輿から飛び降りた。
「あの小屋にいるのですね。」
ひときわ明るく松明が燃えている小屋を目指して、ムトネドイェメトは小走りにかけだした。
「おい、待て!」
どうにも腹立たしいことだが、ラムセスは常にムトネドイェメトに一歩遅れてしまうのだ。今回もラムセスがムトネドイェメトに追いついたのは、彼女が問題の小屋の中に入って「大使」と名乗った男と向き合った時であった。

「ハニス!?」
男の顔を見るなり、ムトネドイェメトは絶句した。ハニスは、ツタンカーメンの死後、アンケスエンアメンによって辞めさせられた元ヒッタイト帝国大使である。ムトネドイェメトは、どちらかというとハニスの大使としての能力を評価していただけに、突然の降格にはしっくりいかないものを感じていたが、他国の人事に口は挟めない。それが今夜、「大使」と名乗っており、あまつさえアイの私兵から夜襲されて座礁した船から助け出されたというのである。
ムトネドイェメトと向き合ったハニスは無言だった。辞めさせられたはずの「大使」を名乗ったことを理由にアイから攻撃されたのであれば、非はハニスにある。正当な理由なくして襲撃されたのであれば、その旨を堂々と抗議すればいい。エジプト兵の駐屯地は、ホルエムヘブの管理下にある。アイに不利な情報なら、兵士達はハニスを悪いようにはしないだろう。それなのに、ハニスは沈黙を守っている。
「・・・エーゲ海から戻ってきたのですね?」
ハニスの衣服に残る潮の香りをムトネドイェメトは見逃さなかった。ムトネドイェメトは、なぜハニスが理由も明らかなにされないまま大使を辞めさせられたのか朧気ながら理解し始めていた。いや、正確には、彼は辞めさせられてなどいない。表向き「辞めさせられた」ように見せかけただけなのだ−アンケスエンアメンによって。
何のために?
「アンクエスは、あなたを・・・ヒッタイトへ派遣していたのですね?」
ヒッタイトへは砂漠を越える陸路だけではなく、エーゲ海沿いに海路で行くことも可能である。レバノンを傘下におくエジプトは海軍も擁しており、今の時期、政情不安なシリア砂漠を横断するより、海路を取った方が安全ともいえる。また、ヒッタイトとの小競り合いは砂漠側に集中していたから、海路の方が商人達の利用も多かった。彼らに委託された貴族の船がエーゲ海へ出ていくのは特段珍しいことではない。おそらくハニスもその中へ密かに混じってエーゲ海を渡航していたのであろう。

ハニスが何の目的で行動していたかを聞き出すことは、ムトネドイェメトにとってもはや意味を成さなかった。先代のファラオ達の取った婚姻歴を見れば、アンケスエンアメンが何をしようとしていたのか容易に想像が付く。ムトネドイェメトが知りたいのは、彼女の意をヒッタイト帝国がどう捉え、いかに対処したかということだった。だが、それもアイとホルエムヘブが同時に動いたことで結果は明らかになった。ヒッタイト帝国は、アンケスエンアメンの要請を受諾したのだ。その情報を一足早く得たアイはナイル河畔から私兵を動かし、ホルエムヘブはそれを追うように軍を動かし始めたのだとムトネドイェメトは解釈した。
「敵国の皇子を本気でファラオに迎えるだなんて・・・アンクエスも思い切ったことを。」
辛辣な呟きを漏らしたムトネドイェメトに、ハニスは初めて口を開いた。
「あの方にとっては、アメンこそが敵。もともと異国の血を引くお方です。エジプトの神への拘りはお持ちではない。」
「ハニス?」
「だから、最も敵対する国から相手を選ばれた。」
そこでハニスは、ムトネドイェメトを真正面から見据えた。
「あなた様は、嫁がれた頃の彼の御方によく似ておいでだ。アテンへの信仰を亡き陛下に勧められたのは彼の御方なのですよ。彼の御方の無念がわかるだけに、あの方の依頼を断ることができなかったのです。」
「国民に受け入れられないファラオとわかっているのに交渉を引き受けたというのですか?」
「相手国にとって悪い話ではありますまい。兵力を割かずしてオリエントの覇権を手にできるまたとない機会なのですから。勝利しても与える報償のなかった側には、まさに渡りに船。」
独り言に近い囁きであったが、ムトネドイェメトはその言葉の意味するところを正確に把握していた。
「勝利したのに与えるべき報償がない?」
口の中で、その言葉を繰り返した時、ムトネドイェメトの顔からさっと血の気が引いていった。ヒッタイト帝国が最近勝利した戦で、その征服地を自国の意のままにできなかったのは彼女の故国ミタンニ王国だけである。
「では・・・エジプトに向かっているのは・・・。」
「わたしと同時期に出立したザナンザ殿は、もう間もなく国境を越えられるはずです。国境さえ越えれば、あの方の目的は達せられる。」
いかにアイとホルエムヘブが反対しようと、公の場でザナンザに「次期ファラオ」を名乗られては、手の出しようがない。逆に言えば、ザナンザが国境を越えてエジプトに入るまでが勝負といえる。そうなるとハニスの一見間の抜けた行動も、アンケスエンアメンの見え透いた行動も敵の目をくらますための囮と考えれば十分納得できるものであった。
「その程度の囮であの狡猾なアイや怜悧なホルエムヘブを本気で出し抜けると思っているのですか!?」
ムトネドイェメトの声がそれとわかるほど怒気を帯びていた。反対にハニスの声には余裕が戻ってきている。
「あなた様は国家間の婚姻の持つ意味をもっと理解されていると思っておりましたが、案外、ご存じないようで。」
「どういう意味です?」
「王家の婚姻にはそれなりの責任が伴うということですよ。」
そのくらいのことはムトネドイェメトだって知っている。だから他国へ送り込まれる王族には多大な期待と、迎える側の誠意が試されるのだ。万が一婚姻の一行が無事に着かないということにでもなれば、その責任者の辿る先は死あるのみ。そうなると、アンケスエンアメンは、意図する皇子に何かあれば、手を下した者にその責任をとらすことができる。その結論が見えたとき、アンケスエンアメンの選択が、他国の人間を次期ファラオに決めれば、アイとホルエムヘブがどういう行動を取るか承知した上での可能性に行き着いた。そして、手を下したふたりを失脚させた後、アンケスエンアメンはまた別の国に交渉の場を持てばよいのだ。エジプトのファラオの地位はオリエント世界にとって特別な意味を持つ。その価値を知っているからこそ打てる策であり交渉であった。
「そこまで考えていたというの?」
ムトネドイェメトの問いに答える声はなかった。
「今からで、果たして間に合いますかな?」
冷笑すら含むハニスの声に、ムトネドイェメトは我を取り戻した。
「間に合って見せるわ。」
きっとハニスを睨み付けると、ムトネドイェメトはくるりときびすを返した。

薄様のドレスの裾が夜風に翻って舞い上がる。その艶やかな動きにラムセス達の目が奪われた瞬間をムトネドイェメトは逃さなかった。
「あ!?」
風が通りすぎるがごとく、ごく自然な流れにのって、ムトネドイェメトは兵舎の方へ駆けだしていた。
「待て!」
真っ先に後を追ったのはラムセスであった。流石に鍛えられた彼の足は速い。地の利も手伝って、ラムセスはあっさりムトネドイェメトに追いついた。
「どこへ行こうと言うんだ?」
「王妃の叔母が未来の甥を出迎えに行って、どこが悪いの?」
「何だって!?」
ラムセスにはまさに晴天の霹靂とも言える答えであった。
「アイの私兵ごときが私に手出しできるとでも?」
これまでの兵の動きから、ザナンザを先に見つけるのはアイの手の者にほぼ間違いないと断言できる。それを止められるとすれば、アイと同等以上の地位にある者か、王族のみである。ムトネドイェメトは正式に王族として迎えられたわけではないが、誰もがその影響力を知っていた。
「何故・・・。」
ラムセスにしてみれば、ザナンザはミタンニ王国を直接滅ぼした敵なのだからファラオとして君臨されるより、死んでくれた方がいいと考えていた。しかしムトネドイェメトの見方は、ラムセスの予想を全く超えたものであったのだ。
「だって、そうでしょう!?ここで彼が死んでしまったら、私は永遠にこの手でミタンニを滅ぼした相手を討つ機会を失ってしまうのですよ。そのためだけに、今日までエジプトに留まってきたというのに。」
同時に本音が出たなとラムセスはほぞを噛んだ。
「だからと言って、これ以上勝手にさせるわけにはいかない。本当にそうだとすれば、アイを葬るまたとないチャンスなんだからな。将軍の邪魔をするのは、絶対許さない。」
答えながらラムセスは言いようのない苛立ちを感じていた。自分は好んでムトネドイェメトの護衛を引き受けたわけではない。敬愛するホルエムヘブからのたっての命令であり、また同時に彼の目的にひと役買うということで渋々ながら引き受けたのだ。それなのにムトネドイェメトは、ことごとくラムセスを無視し、更にはホルエムヘブの好意をも無に帰そうとしているのだ。
「そこをどきなさい。」
ムトネドイェメトはどこまでも強気だった。今回ばかりはラムセスも一歩たりと引く訳にはいかないと構えを解こうとしていない。
「断る。」
こうなると主従関係も身分もあったものではなかった。
「あなたに何がわかるというの!?」
ムトネドイェメトはすばやく目線を周りに這わすと、いきなりダッシュして反対側へ回り込み、厩へ飛び込むと手近にいた軍馬に飛び乗り鞭を当てた。いきなり見知らぬ人間に乱暴に飛び乗られ鞭を当てられた馬こそいい迷惑である。大きく嘶きたてがみを震わせ、あたりのものをところ構わず蹴散らし始めたのだその過程で厩の柵が砕かれ、ムトネドイェメトを乗せたまま往来へと飛び出した。
「よけろっ!蹴られるとただの骨折じゃすまないぞ!」
ラムセスはあわてて密集していた兵士達を散開させた。ムトネドイェメトは兵士達が怯んだ隙に、そのまま大きく手綱を引いて彼らの囲みを乗り越え街道へと走り去った。乗馬が得意だとは聞いていたが、気の荒い軍馬まで乗りこなせるとは思っていなかっただけにラムセスの受けた衝撃は大きかった。しかし、次の瞬間には新たなる命令を兵士達に向かって叫んでいた。
「追え!どうでもいいから取り押さえろ!」
「し、しかし、どこへ向かわれたのかわからなければ、手の打ちようがありません。」
「バカ野郎!国境沿いの砂漠に決まってるだろうがっ。」
腑に落ちぬ顔の部下に説明する時間すらラムセスは惜しかった。
「とにかく、乗馬に自信のある奴は俺と一緒に来い!それから、お前、ライアに国境を封鎖するよう伝令だ。」
国境、それも砂漠に面した地域となればライアの指揮する騎兵隊の力を借りるのが一番手っ取り早い。
「はっ!」
「絶対、追い付いてみせる。」
ラムセスもまた馬に乗り、先頭を切って街を駆け抜ける。砂漠の風を遠くに感じながら、ラムセスはひたすらムトネドイェメトの姿を追い続けた。


第2章「それぞれの野心」終了