砂漠の果てに

風砂の墓標(1)

ラムセスは数人の部下とともに国境に続く砂漠への道をひたすらに駆けていた。夜も更けたこの時間帯ともなると、街道の人通りはまばらである。それだけに先行するムトネドイェメトの足どりを捉えるのはそれほど困難ではないと思われたが、いくらも進まないうちに、彼女の足どりはぷっつりと途絶えてしまった。
「隊長、この方向でよろしいのですか?」
同行している部下が不安そうに尋ねた。
「ああ。あの女はたぶん、ナイル河沿いに砂漠へ進むはずだ。急げば俺達のほうが先回りできる。」
ラムセスにとって、ムトネドイェメトはもはや敬語を使うに値しない相手と成り下がっていた。いくら敬愛するホルエムヘブからの命令であっても、ムトネドイェメトの行動は、ラムセスの我慢の限界を超えている。
「しかし、国境沿いの砂漠といっても広いんですよ。ムトネドイェメト様がどこに現れるかそれこそ雲を掴むようなものじゃないですか。」
流石に一般兵士達は、それまでどおりムトネドイェメトに敬称を付けて呼んだが、ラムセスはそれを鼻先で一蹴した。
「軍路はライアが押さえてる。となれば、あとは一般の街道しかない。いくらなんでも軍路をそのまま突っ走るようなことはしないだろう。ああいう情報だけは妙に耳敏い女だからな。」
怒りの中にあっても、ラムセスは隊長としての判断力まで鈍らせはしなかった。
「では。」
「街道はあとの連中に任せて、俺達は最短の間道を行く。」
より可能性の高いと思われる道をラムセスは選んだ。
「はいっ!」
ラムセスを先頭に一行は砂漠に出る前のムトネドイェメトを捉えるべく先回りできるはずの道を全力で走り続けた。

ラムセスの予想どおり、ムトネドイェメトは一直線に砂漠への道を取らず、ナイル河沿いに馬を走らせていた。できるだけ葦の影に入って足跡を残さぬようにし、その一方で泥濘に馬の足を取られぬよう注意して進む。しかし、ムトネドイェメトの判断は、ラムセスのそれよりまた少し趣を異にしており、走りやすく整備されている一般道へは入らなかった。夜明け前に、ムトネドイェメトはナイル河畔を離れ、国境沿いの砂漠へと続く軍路に入ったのである。
「普通なら国境沿いはライアの騎兵隊が警備を固めているでしょうけど、ホルエムヘブが軍を率いて出陣したとなれば、先陣か殿かを務めるに違いない。」
それでも万が一を考えて、大道をそのまま進むのではなく、伝令が使う細い脇道を選んで進んだ。ムトネドイェメトが乗っている馬は、軍馬でも戦闘用ではなく伝令用として調教を受けた馬らしく、伝令用に整備されたその道を進むにはまさにお誂え向きであった。馬は慣れた足どりでムトネドイェメトを乗せたまま、砂漠を目指して走り続けた。
「ヒッタイトの一行は、たぶんすぐそこまできているはず。」
それが勝負をかける気になったひとつのポイントであった。砂漠の深淵まで出向かねばならないのであれば、このあたりの地理に疎いムトネドイェメトがアイやホルエムヘブより早くヒッタイトの一行を見つけることはまず不可能である。しかし、国境からさほど離れないのであれば、ムトネドイェメトにも勝算があった。

暁の空に、ひとつまたひとつと星が消えていく。星の光が朝日の輝きで完全に消えた時、ムトネドイェメトの目前に砂漠が開けた。砂漠の奥深くまで入るつもりはないとはいえ、何の準備もなく飛び出したのは失敗だったことをムトネドイェメトは認識していた。夜の寒さは、夜明けを境にやがて灼熱の風にとって変わる。
「急がなければ。」
ムトネドイェメトに与えられた時間はアイやホルエムヘブよりも限られているのだ。

幸いにして砂漠に至るまでの行程で、ムトネドイェメトはエジプト兵に出会わなかった。それもそのはずで、この方角に広がっている砂漠には、迷い込んだものを全て飲み込むと恐れられている流砂が点在していたからである。砂漠を横行する盗賊ですら、流砂が点在するその砂漠を勢力圏内に置いてはいない。それゆえ、この方向からの侵入者は皆無といってよかった−これまでのところは。
だからこそ、ヒッタイトの一行がこの方角から来るという確信がムトネドイェメトにあったのだ。魔の砂漠といえど、そのすべてが流砂というわけではない。言い換えれば、流砂を避けることができれば通り抜けることは可能ということだ。そしてそれを実行するだけの知識と物資をザナンザが持っていることをムトネドイェメトは知っていた。
「行けるとこまで行ってみよう。」
ムトネドイェメトは慎重に魔の砂漠へと入っていった。

けれども、ムトネドイェメトが魔の砂漠へ入っていくらも進まないうちに、前方に砂煙が舞い上がった。
「こんな近辺にも流砂が?」
慎重を期して、立ち止まったムトネドイェメトの目に、複数の騎馬の姿が映し出された。彼らは一直線にムトネドイェメトを目指して近付いてきている。
「あれは・・・ライア!?」
その正体をムトネドイェメトが見極めるのとほぼ同じくしてライアの声が聞こえてきた。
「ムトネドイェメト様!」
ライアはその配下の騎兵を油断なくムトネドイェメトの回りに配し、彼女がそれ以上砂漠の深淵へと進むのを阻んだ。馬術だけなら彼らに負けない自信があったが、ムトネドイェメトの騎馬が伝令用なのに対して、ライア達が乗っているのは高度に訓練された戦闘馬である。勝負は明らかだった。自分を包囲するライアの手腕に、彼の指揮官としての並ならぬ能力を見たムトネドイェメトは、馬の歩みを止め、その場に留まってライアが到着するのを待った。
「もうじきこのあたりを砂嵐が通り抜けます。」
すぐ側までやってきたライアは、挨拶もそこそこに短く用件を述べた。礼を欠いたことに対する不快さよりも、極めて確率の低い自然現象を持ち出してきたことにムトネドイェメトは怒りを覚えた。魔の砂漠が砂嵐のとおり道から外れていることは調査済みであり、ましてや街道筋に近いこのあたりまで被害を及ぼすことは極めて稀なことだったのだ。
「引き留めるにしては、あまりにお粗末な理由ですね。」
「信じる信じないはムトネドイェメト様のご自由ですが、あなた様に万が一のことがあっては、ラムセスの立場が無くなりますので。」
ライアの抑揚のない声は彼の地であったが、ムトネドイェメトには極めて冷淡な印象を与えた。しかもその内容たるや、かなり個人的な感情から出たものである。ライアとラムセスが軍部内でも親しい間柄にあることは聞いていたが、この状況下でそれを表に出してくるとは意外であった。けれども個人的な感情を盾にとってはいるが、ラムセスの起用はホルエムヘブの意によるものだから、最終的な責任はホルエムヘブにかかるのだと暗に仄めかしているのである。無言でいるムトネドイェメトに、ライアは再び言葉を続けた。
「ホルエムヘブ将軍のもとへご案内致します。」
ライアは馬の鼻先を砂漠の奥へと向けたままであった。
「魔の砂漠の向こう側にホルエムヘブがいるのですか?」
僅かながらもムトネドイェメトの表情が強張った。
「御意。」
そして、ここまで来たのはホルエムヘブの命令によるものであることを付け加えた。
「ラムセスに頼まれたから来たのではないのですね。」
念を押したムトネドイェメトにライアは頷いた。
「ムトネドイェメト様がカルナク神殿に向かったとの知らせは受けましたが、その後のことは存じません。」
「そう。」
ムトネドイェメトがカルナク神殿に向かえばアイの行動を知ることになり、ナイル河へ向かうのは想像に難くない。その後ムトネドイェメトがハニスに会えばどのような行動に出るか、ホルエムヘブに予測することは容易いものだ。結局のところ、今更ムトネドイェメトがどう介入したところで、それぞれの運命は変えようがないのかもしれない。それでも僅かな可能性がある限り、ムトネドイェメトは諦めるわけにはいかなかった。ホルエムヘブが貴重な戦力を割いてまでムトネドイェメトを迎えにきたのは、それなりの考えがあってのことだろう。それが何かはまだわからないが、ヒッタイトから来るザナンザといきなり戦うつもりではないらしいことは理解できる。そして、ホルエムヘブが求めているのは、アイとの交渉に影響力を持つ「王妃の叔母」としてのムトネドイェメトであることも察していた。
「ホルエムヘブのもとへ案内してください。」
ライアは隊列を組み直すと、ムトネドイェメトを中心にして魔の砂漠を越えるべく体勢を整えた。
「我々のあとを辿ってお出で下さい。うっかり道を外すと流砂に飲み込まれる恐れがありますので、決して先行なさいませんように。」
「あなた方も、この砂漠を抜ける術を知っているのですね。」
「そのための警備隊です。」
ライアが常に国境沿いの砂漠を監視しているのは、侵入者からエジプトを守るためだけではない。流砂が点在するという地の利を活かして攻勢に出るための調査を兼ねているのだ。今更ながらにホルエムヘブの戦略の深さに気が付き、ムトネドイェメトは虚しい思いにとらわれていた。