砂漠の果てに

風砂の墓標(2)

その頃、ヒッタイト帝国皇子ザナンザの一行は、大方の予想どおり、魔の砂漠のすぐそばまで来ていた。
「この丘を越えれば、魔の砂漠へと出ます。」
ヴァルシャの言葉にザナンザは無言で頷いた。
「そろそろ囮馬の用意をさせましょう。それから。」
ヴァルシャの目は、一行の最後尾に付いてきているサライ達を捉えた。
「彼らには、この先の同行を遠慮してもらいます。」
ヴァルシャは戦術的な意味を持つ魔の砂漠を越える術をサライに知られることを善としなかった。仮にサライが同じ方法を知っていたとしても、自分たちが為すやり方を目の前で見せることは避けたかったのである。ヴァルシャの意を受けた兵が後方へ向かうべく隊列を抜けた。
「いよいよですな。」
ザナンザに一礼すると、ヴァルシャは最後の檄を飛ばしに隊列の中心へと入っていった。

ヒッタイトの兵士から、これ以上の同行を断る旨を言い渡されたサライは、ただ黙礼を返しただけであった。それを承諾の意と見たのか、慌ただしく兵士は隊列の方へ戻って行った。
「ここまでだな。」
サライは上空を仰いだ。雲ひとつない眩しい青空なのに、どこか不気味な濁りを感じさせる。
「デルサ、お前は隊商の道へと進み、一行がエジプトに到着するかどうかを確認しろ。残りの者は、私と供に引き返す。」
手短にサライは命令を下した。
「その後は、いかがしましょうか?」
デルサの問いに、サライはじっと空を睨んだまま沈黙を続けている。
「砂嵐に気を付けろ。この空模様は、どうも気に入らない。」
問われたこととは異なる答えをサライは返したが、それでデルサには十分通じていた。
「確かに。」
サライにつられて空を見上げた一同は、不気味なまでの静けさを漂わせている砂漠に不安を隠せないでいた。彼らはいずれも砂漠の旅の経験者であったから、今の空模様に程度の差こそあれ、一様に得体の知れない危険を感じていたのだ。
「このあたりで発生する砂嵐は、通常、このルートから外れているというから、心配はいらんと思うが。」
「風向きによってはわかりませんよ。特にこの時季の風は油断できません。」
「そうだな。」
「それまでにエジプトに着ければそれでよし。そうでなければ。」
砂嵐は死の風を運んでくる。
「いずれにせよ、我々の仰ぐ先はひとつ。結果は見届けねばならぬ。」
サライの目は砂漠を遥か越えた先にある国を見つめていた。だが、彼の向いている先にエジプトはない。かといって、ミタンニの位置する方向でもなかった。
「では、これにて失礼。」
デルサは軽く礼を取ってから、サライの元を離れ隊商が往来する砂漠の道へと去って行った。

風のない砂漠をサライはじっと睨み付けていた。
「無事に辿り着くなら、その時はまたその時のことだ。彼の国には、幸いにして姫が居られる故にな。」
「姫は、ザナンザ皇子を受け入れましょうか?」
「わからぬ。」
それはサライの正直な思いであった。表向きエジプトは鎖国政策を採っているが、砂漠を越える商人から、諸国の情報を知る術をムトネドイェメトは知っているはずだ。今回の旅に先立って、ミタンニ王国に出入りしていた商人達をエジプトに向かわせ、ムトネドイェメトに接触を試みさせたが、今のところ失敗に終わっている。エジプト王宮は、ツタンカーメンの死後、予想以上に警戒が厳しくなり、たとえ出入りの商人といえど自由に後宮の人々と話ができない状況にあるらしい。特にアンケスエンアメンとムトネドイェメトの周りには幾重にも警戒の網が張られていて、指定された女官を通してでしか話ができないほどの厳重さということであった。これではごくありきたりの付け届けさえままならぬと、馴染みの商人達ですら不平をこぼしている有様である。
「わからぬ。」
先王トシュラッタの意を受け、サライはムトネドイェメトの養育に深く関わってきた。ミタンニ王国の名誉を継ぐ者として期待して育てられてきた彼女の愛国心の強さがどれほどのものか、サライは誰よりもよく知っている。それだけに、ムトネドイェメトがいかなる行動に出るか非常に気になるところではあった。いずれにしろ、ムトネドイェメトとは直接会って話をしなければならない。その機会が、ほんの少し先送りされただけのことだ。
「引き返すぞ。」
サライは合図すると、元来た砂漠の道を引き返していった。

サライ達一行が隊列から離れ遠ざかっていくのを確認した後、ようやくヴァルシャは魔の砂漠越えの体勢に入った。
「囮馬を放て。」
短く命令を下したのと、ほぼ同じくして、ひとりの斥候が駆け込んできた。
「お待ち下さい!この先に、エジプト兵が、武装したエジプト兵が多数集結しております!」
「何!?」
驚きの声と同時に、やはり来たか、との思いが重なった。
「我らを待ち伏せしていたようだな。で、どの程度の部隊だ?」
「詳しい人数は不明ですが、歩兵と弓兵が中心のようです。」
「ほう、弓で来たか。では、率いているのはホルエムヘブではないな。」
唸ったザナンザにヴァルシャは、「アイの部隊でしょう。」と忌憚なく述べた。
「しかし、これなら我らにも勝ち目があろうというもの。この砂漠でホルエムヘブの騎馬隊が相手では、分が悪すぎますからな。」
不適な光がヴァルシャに宿っている。
「こちらは少数とはいえ、騎馬。うまく立ち回れば、奴らを魔の砂漠に追いやることができます。」
「では・・・。」
「予定どおり、囮馬を放て。ただし、魔の砂漠ではなく、弓兵を回り込むよう誘導しろ。まずは敵を分断する。」
戦闘と聞いて、一行はにわかに活気立っていた。
「行け!」
囮部隊が出撃するのに少し遅れて本隊が動き出す。乾いた風が、いずことなく血の匂いを運んでくるのを感じながら、ザナンザは戦場へと身を躍らせた。

砂山の陰に潜んでいたエジプト兵がヒッタイトの一行の動きを知ったのは、すでにザナンザが体勢を整え、攻撃を仕掛けてきた時だった。
「ヒッタイトの奇襲だ!」
「奇襲だ!」
ヴァルシャの放った囮馬は弓をつがえた兵士達の中へ乱入し、まず先制を期した。いかに弓の名手であろうとも、弓を放つには、それなりの距離と時間が必要である。接近戦に弓兵は向かない。それならもう一隊の歩兵はどうかというと、これまた慌てふためく指揮官によって適切な指示を受けられず、ただ暴れ馬に翻弄されるだけであった。
「た、退却!!」
ようやく出された指示も、あまりに漠然としすぎており、とてもヴァルシャの緻密に計算された攻撃に対応できるものではなかった。整然とした退却戦ならまだしも、我先に逃亡を図るエジプト兵に、ヴァルシャは大きな肩すかしを食わされたように思った。
「これでは頭数を揃えただけの烏合の衆ではないか。」
本当にこれが世界最強といわれ、オリエントを支配してきたエジプト軍なのであろうか?呆れはしたが、それで戦いに手を抜くようなことはしなかった。もしかしたら、この部隊は単なる囮にすぎないかもしれない。アイは戦に関しては素人だが、策略を持って相手を陥れることには長けている。ザナンザもヴァルシャも予測とは異なりすぎるエジプト兵の動きに警戒の念を抱いた。
「あまり深追いはするな。こちらに被害を受けることこそ損失だ。」
ザナンザは、右往左往するエジプト兵をできるだけ効率的に魔の砂漠へと追いやりながらも油断なく反撃に備えていた。

ホルエムヘブは、本来ザナンザ皇子の一行が通過する予定であった砂漠の端に位置していた。しかし、予測された時刻をかなり過ぎたというのに、ザナンザ皇子の一行は陰も形も見せていない。
「遅すぎる。」
ホルエムヘブは、もう一方の道へと視線を移した。エジプトを遙かに望むその道は、ライアにムトネドイェメトを迎えに行かせた道でもある。
「ムトネドイェメト様は、ライア隊長に護衛され、間もなく到着されます。」
「そうか。」
ひとつの心配事は消えたが、肝心のザナンザの一行については依然として不明のままであった。
「まずいな。これ以上遅れるようでは・・・。」
このあたり一帯を砂嵐がとおりすぎるという予測が出ているだけに、あまり長居をしたくなかった。戦場で敵に倒されるならまだしも、予測していた自然災害を相手に死ぬのでは、それこそ立つ瀬がないというものだ。
「アイはどうしている?」
「反対側にそのまま待機しているようです。」
「そうか。」
アイの周りには、集めたと数より遙かに少ない兵しかいないという情報も気になっていた。少数精鋭を自身の周りに侍らしているのだと言ってしまえばそれまでだが、それにしては雇った兵の数が多すぎる。取りあえずは、引き続き監視を怠らないようにと伝えたものの、ザナンザ皇子の一行の遅れと相まってホルエムヘブの苛立ちは募るばかりであった。