砂漠の果てに

風砂の墓標(3)

これ以上は待てぬとホルエムヘブが軍を動かす合図を出そうと手を挙げかけた時、ライアの一隊が到着した旨知らせが入った。
「申し上げます。ただいま、ムトネドイェメト様がご到着なさいました。」
「うむ。丁重にお迎えしろ。いや、私から出迎えるのが筋だな。」
ホルエムヘブは挙げかけた手を納め陣を抜けると、自らムトネドイェメトを出迎えた。
「ご無事なお姿を拝見し、執着至極にございます。」
うやうやしく馬の轡を取ったホルエムヘブにムトネドイェメトは辛辣な視線を向けている。
「ヒッタイトの一行はどうしました?」
「残念ながら、まだ到着しておりません。」
ホルエムヘブは顔を曇らせたが、ムトネドイェメトはそれをそのままには受け取っていなかった。
「ザナンザ皇子とてそれなりの準備はしてきているでしょうからね。」
「はい、それを願うばかりでございます。」
何とも皮肉な答えにムトネドイェメトはひどく苛立ちを覚えたが、ここで感情を露わにしても不快さが募るだけなので、そのままホルエムヘブから離れようとした。
しかし、その一瞬の先で、ふたりの間に割って入った声がある。
「伝令!ホルエムヘブ将軍、戦闘です!」
「どこでだ?」
「この先、魔の砂漠の中央部付近で、アイの雇った傭兵とヒッタイトの一行とが交戦中です!」
危惧していたことがついに現実のものとなった。更には、もうひとつの予測されていた危険をも具現化した。
「注進!砂嵐が発生しました。ネジェムの計算どおりであれば、魔の砂漠を横切ってこちらへ向かうはずとのことです!」
「なに!?」
ホルエムヘブの手に、馬を走らせようとするムトネドイェメトの反応が伝わってきた。
「なりませぬぞ、ムトネドイェメト様。」
伝令からの報告を受けながらも、ホルエムヘブの手はしっかりとムトネドイェメトの馬の手綱を締めていた。さすがは歴戦の戦士だけあってホルエムヘブの馬に対する扱いは巧みであり、乗馬の名手と誉れの高いムトネドイェメトをして飛び出す隙を掴めないでいた。
「ラムセスは、まだか?」
「間もなく御前に。」
その言葉と前後して、ラムセスの一行が到着したとの知らせが入ってきた。
「思ってたより、早かったな。」
ライアの案内でホルエムヘブの前に出頭したラムセスは、そこにムトネドイェメトの姿を見て思わずほぞを噛んだ。先回りして追いつく予定が外れた上、先に到着されたとあっては護衛に付けられた者としての面目丸つぶれである。けれども、ホルエムヘブはそのことに対してラムセス達を責める気配は微塵も感じさせなかった。それどころか、あっさいり自分が握っていた手綱をラムセスに引き継がせたのだ。
「ムトネドイェメト様がエジプトに居られる限りは、お前の責任に於いて警護を命じる。」
その場で改めてラムセスをムトネドイェメトの警護の任に命じ、ホルエムヘブはきびすを返した。ホルエムヘブにはこれから為さねばならぬ重要な仕事が待っているのだ。

「これより我々は砂嵐を避けるため、陣営を移動する。各隊は遅れず、また巻き込まれることなく付いてくるように。」
今は安全であっても、砂嵐の移動スピードには恐るべきものがある。肉眼で見えるようになってから移動を開始したのでは、到底間に合わないのだ。ホルエムヘブは迫り来る砂嵐から兵を守るために、率先して陣頭指揮を執るつもりであった。自然との闘いは、ある意味、他国との戦い以上に英明なる判断を必要とする。ましてや砂漠を縦横無尽に舐め尽くす死の風から脱落者を出さずに撤退するのは相応の指揮能力を要求されるのだ。今回の出兵に際し、ホルエムヘブは砂嵐の危険を加味して万全の体制を取っていた。本来ならとっくにこの位置から移動を開始していなければならないのだが、アイの予想外ともいえる傭兵を投入しての布陣の真意を見極めるために、彼の意に反して長時間留まっていたのである。だが、これ以上この地に留まることは、もはや出来ない相談であった。
「砂嵐はどうか?」
「予想どおりというべきでしょうか。魔の砂漠を突き抜けて通る風に乗りました。」
「そうか。アイも考えたものだな。」
微かな溜め息にも似た呟きがホルエムヘブから漏れた。
「どういうことです?」
とっさに反応したムトネドイェメトと轡を並べるようにして出立せよと、ホルエムヘブはラムセスに指示した。なぜ、という疑念と不快感がラムセスの表情に浮かび上がっていたが、当人以外でそのことに気が付いた者はなく、ホルエムヘブとムトネドイェメトを先頭にして、それがごく自然な流れであるかのようにエジプト軍は移動を開始した。ムトネドイェメトもまたラムセス以上に憤懣やるせない表情をしていた。彼女には、なぜホルエムヘブがアイの行動に納得できたのか、理解できないでいたのだ。
「おわかりになりませぬか?」
反対に問いかけられ、ムトネドイェメトは不快なままにホルエムヘブを凝視した。
「アイは金を使って時間を稼いだのですよ。」
間断無くあたりに気を配りながらホルエムヘブは答えた。
「金を使って・・・あ、傭兵!!」
その瞬間、ムトネドイェメトはアイの傭兵を雇った真の目的を理解した。同時に、彼女の瞳が怒りに染まっていくのをホルエムヘブは感じていた。
「兵の命をなんだと思っているの!彼らは物ではないのよ。」
噛みつかんばかりの怒りの声に、ホルエムヘブは正面の砂漠を見据えたままに頷いた。
「そのとおりです。が、彼らはアイに金で買われた傭兵であり、私兵としてある限りはアイの所有物にすぎません。アイにとっては、単なる道具でしかないのです。」
ホルエムヘブにしても、ようやくアイが傭兵を雇った理由に気が付き、その辛辣なやり方にはらわたが煮えくりかえる思いであったのだ。

アイが雇った傭兵の大半は、いわゆる寄せ集めに過ぎない2流、3流の流れ者の集団であり、数こそ多けれど戦力的な成果は望めない質であった。それもそのはずで、アイは最初から彼らを有力な戦力として雇ったわけではなかったのだ。アイが彼らに求めたのは、数による時間稼ぎである。優秀なる神官が予見した砂嵐が予定どおりに砂漠を通過することを前提として、その場にヒッタイトの一行を足止めするためにだけ雇った、いわば死兵であった。戦闘ではなく砂嵐という自然の災厄によってヒッタイトの一行を葬り去ることに、アイは己の未来を掛けたのである。無論、砂嵐が予見されたとおりに発生しなければ、彼らにヒッタイトの一行を襲わせ全滅させればそれでよし、返り討ちにあえばそれまでのものと切り捨てるつもりだったのであろう。

ホルエムヘブの言葉にムトネドイェメトの手綱を握る手が怒りに震えているのをラムセスは見逃さなかった。護衛として配された自分たちをあれだけ愚弄し続けた彼女が、何の縁もない兵の死にこのような反応を示すとは正直思っても見なかったのだ。金で雇われた兵といえど物ではないと言ったムトネドイェメトに、ラムセスは驚きを禁じ得なかったとともに、あれほどまでに抱いていたわだかまりが薄れていくのを感じていた。それまでムトネドイェメトがホルエムヘブと対等に口を利いている様を目にするだけでも腹立たしかった。それなのに、今ふたりがともに並んで馬上にある姿をごく当たり前のように、ラムセスは受け入れている。それはラムセスにとって驚くべき変化であった。
「全軍、このまま砂漠を大きく迂回してエジプトへ帰還する!」
ひときわ強い声がラムセスを現実に引き戻した。彼の手にはムトネドイェメトの乗る馬の手綱が握られている。ホルエムヘブは自軍の兵のためにエジプトへ引き返すことを決定したが、それはムトネドイェメト自身には何の意味もなさぬ決断だった。彼女の心は依然として砂漠の中にある。ほんの少しでもラムセスが気を緩めれば、彼女はすぐさま魔の砂漠へと飛び込んで行くに違いないのだ。ラムセスは今一度手綱を確かめるように握り直すと、ムトネドイェメトに付き従った。

吹き付けてくる風が勢いを増し、砂が混ざり始めた。
「風が、変わったな。ライアに遅れぬよう撤退しろと伝えよ。」
「しかし・・・。」
「あの距離からでは、間に合わぬ。」
ホルエムヘブの言葉にムトネドイェメトの表情がぴくりと反応した。
「いかにヒッタイトの騎馬が優れていようとも、シュウ神(風の神)には到底及ばぬ。だが、それは我らにも言えることだ。私とて、まだオシリス神に会いたくはないからな。」
「承知致しました。」
ホルエムヘブは全軍に撤退命令を徹底するよう再度に渡って伝令を走らせると、ラムセスに手綱をムトネドイェメトに返すよう命じた。
「これより我が軍はエジプトへ向かいます。途中、砂嵐をやり過ごしますので、長時間砂混じりの風を受けることになりますが、どうかそのままでご辛抱ください。」
ホルエムヘブは敢えてムトネドイェメトに、自分たちから離れるなとは言わなかった。ラムセスから手綱を取り戻したムトネドイェメトは、一瞬だけ手綱を宙に浮かせた。思わずラムセスは息を呑んだが、その手綱が馬にむち打つことはなかった。寸前の先で、ムトネドイェメトは手綱を手元に引き寄せ巻き付けたのである。
「砂漠の道は慣れているつもりですが、この国の道を私は知りません。案内を。」
ムトネドイェメトの言葉の最後は、折から吹き付けてきた風に掻き消されてラムセスにはよく聞き取れなかった。だが、その瞳は冷静さを取り戻しており、真っ直ぐに己の道を見据えている。
「全軍、続け!」
ホルエムヘブは合図すると、全速でエジプトへ走り出した。その背を追うように、ムトネドイェメトもまた馬を走らせたのであった。