砂漠の果てに

風砂の墓標(4)

ホルエムヘブの率いるエジプト軍から遠く離れた魔の砂漠の中心では、ヒッタイト帝国皇子ザナンザが腹心の部下ヴァルシャとともにエジプト宰相アイの放った傭兵を相手に奮戦していた。傭兵の質は低く烏合の衆に近い軍勢だったが、何しろ数が多いため、最初は優勢を誇っていたザナンザもいささか疲労を覚え始めていた。彼の率いている部隊は、いずれも腕に覚えのある第一級の戦士を揃えていたが、当初の予想に倍する敵が相手ではうんざりもしてこようというものだ。
「いったいどのくらい用意したのだろうか?」
「存じませんな。それより、このままでは我が軍への被害も馬鹿にできませんぞ。」
「わかっている。敵に背を見せるのは面白くないが、そろそろ引き際だな。弓兵に注意して、撤退する。」
「御意。」
どちらもこの戦いから得る物は何もないことに気が付いていた。ザナンザがエジプトの新ファラオとして迎えられてこそ、この砂漠を越えてきた意味があるのだ。ザナンザは、退却戦へと陣形を変えるべくヴァルシャと隊を分けた。
「お誂え向きに風が強くなってきましたな。」
「弓兵にはますます気の毒なことだ。」
少し前から追い風が強まり、弓による被害が少なくなってきている。
「砂を含む風に感謝だな。このまま抜けさせてもらおう。」
ザナンザは馬足を速め、その後を追って、他の者たちも一斉に速度を上げた。
「よし、このまま一気に戦場から離脱する・・・・!?」
転進しようと手綱を大きく取った瞬間、ザナンザの視界は、その隅に砂煙がもうもうと立ち上がっている空を捉えた。先ほどから強く吹き付けてくる砂混じりの風はそこから飛んできたものであることも容易に察せられる。ひときわ強く、砂が吹き付けてきた。ひとこと発するだけで口の中がざらつき、砂粒が皮膚に小さな跡を残して足下に消えていく。
「まさか・・・。」
けぶる揺らめきは見る間に巨大化していき、それほど間を置かずして耳元が呻り始めた。

「砂嵐だ!」
誰が叫んだのかはわからなかった。しかし、砂を巻き上げ渦巻いて急速に接近してくるその姿を砂漠に住まう者で知らない者はいない。戦場のあちらこちらで同様の叫び声が上がり、敵味方を問わずしてみな一様に風の行く先を目で追った。
「こちらに・・・向かって、いるのか?」
身体に吹き付ける風が、砂嵐の通り道をありのままに示し出す。もはや、疑いようはなかった。砂嵐は、紛れもなくこの空域へと進路を取っているのだ。
「引き返せ!」
「砂嵐から逃げろ!」
けれども、進路を外れている方向には、魔の砂漠が横たわっていた。囮を使って危険な地域を避けて通るような猶予はない。運を天に任せて一息に突っ切るか、このまま砂嵐に巻き込まれるままに身を任すか、ふたつにひとつしか選択肢はなかった。
「謀られた。」
ザナンザは、ようやくアイの配した傭兵の真意に気が付いた。彼らの役目は、ヒッタイトの一行を砂嵐が来るまで砂漠に足止めすること。それ以外に何の期待もしていない、まるきりの死兵だったのだ。
「皇子、このままでは。」
ヴァルシャがザナンザの傍に馬を走らせながら何か叫んでいるようだが、それすら聞き取れないほどに風が強く呻っている。ほんの僅かの間に、情勢は一変した。ここまでくると、もはや敵味方なく砂嵐は公平に死の風を運んでくる。我いち勝ちに逃げまどうエジプト兵を追うこともなく、ヒッタイトの一行も自らの進退だけに決断を迫られていた。

「皇子、我らが先導します。」
すぐ耳元で、ヴァルシャが叫んだ。彼は、ザナンザに魔の砂漠へ向かうよう勧めていた。ザナンザの回りには、ヴァルシャだけでなく彼にずっと付き従ってきた側近達が揃っていた。砂嵐のとおり道にいたのでは、確実な死あるのみだが、魔の砂漠を抜けることができれば、助かる可能性が残されている。彼らは命を賭してその可能性にザナンザの未来を切り開こうと決意していた。だが、ザナンザはその場から動く気配を見せなかった。
「ザナンザ皇子!」
苛立ったヴァルシャに、ザナンザは砂嵐の通り道でもあり、本来抜けるはずだった魔の砂漠を指さして言った。
「この向こうに、ホルエムヘブがいたのだろう。すでに移動しただろうが。」
次に、ザナンザは砂嵐から外れた魔の砂漠、即ちヴァルシャが進もうと言った方向を指さした。
「エジプト兵は、この方向に潜んでいた。つまりは、この先にアイがいるということだ。彼が丸腰で出迎えに来たとは思えない。」
「皇子・・・。」
言われるまでもなく、魔の砂漠を越えた先にアイの本隊が待ち構えていることは予想に難くない。わずか数騎でぬけたところで、今度は彼らの的となるのがオチである。
「だが、私はヒッタイトの皇子だ。たとえ死しても、その屍を敵にさらすような真似だけはしたくない。」
「しかし、それでは永遠にこの砂漠の中に囚われることになりますぞ。」
「アルヌワンダ兄上とムルシリ兄上がいる。」
ザナンザは、このたびの婚礼の派遣がふたりによる推挙であったことを知っていた。それが大いなる名誉を担いながらも、ふたりが目指すヒッタイト帝国の未来への布石であることもわかっていた。
「いずれ、この地はヒッタイトとなる。そうすれば、わたしも故国の土に還れるというものだ。私の死は、兄上がエジプトに宣戦布告するのにまたとない口実となる。」
迫り来る砂嵐の風をザナンザは正面から受け止めていた。誇り高きヒッタイトの皇子として、彼は故国の未来にその身を委ねたのである。

舞立つ砂塵はゆるやかに、だが、確実に終焉の時を刻んでいた。
「女神シャウシュガよ。」
荒れ狂う風砂の中にザナンザは故国の神を見たような気がした。だが、次の瞬間、その姿はひとりの現の少女の姿に取って代わった。

「私がエジプトに居ることをマリゼルに知らせてくれますね?」
不思議な輝きを宿した瞳で、その少女は言った。
「伝えるだけでよろしいのですね?」
ザナンザの確認に、彼女は静かに頷いた。
「それ以上は望みません。その代わり、必ず、直接マリゼルに伝えてください。」
少女の姿が消え、累々たる屍の中にザナンザは居た。
「マリゼルは見つかったか?」
「はっ!これに。」
ザナンザの目の前に無惨な傷跡を曝した老兵の骸が置かれていた。
「・・・間違いないのか?」
「はい。何人ものミタンニ兵に確認を取りました。この期に及んで身代わりを使うような武人とも考え難く。」
「そうだな。それにハットウサに戻れば面も割れる。」
「御意。」
ザナンザは無言でその死体をハットウサへの戦利品の中へ加えさせた。

再び刻がザナンザを巡って回り始めた。もはや身体から何の力も感じることはなく、意識も途切れつつあった。
「そうだったな。あの約束、今度こそ果たせそうだ。」
皮肉にも、果たせなかった約束がザナンザの最期を穏やかなものに導いた。人の呻き声と嘆きにも似た風のうねりがあたり一帯を舐め尽くすように押し寄せたかと思うと、新たな砂を残して砂漠の果てへと消えていった。

砂嵐が去ったあと、砂漠は再び静けさを取り戻していた。砂漠を抜ける風は、それまでとは反対向きのものに変わっている。風がムトネドイェメトの前髪をなびかせ、ホルエムヘブの前に今ひとたび表情を現した。栗色の髪に覆われて見えなかった瞳にそれまでにない雫をホルエムヘブは見出し、少なからず衝撃を受けた。
「泣いて、おられるのですか?」
自分の頬を伝う涙の流れにムトネドイェメトもまた驚いていた。ムトネドイェメトは自分でも何故涙が出るのかわからなかった。ザナンザは故郷ミタンニ王国を滅ぼした宿敵ヒッタイト帝国の王子である。しかも自らが発した命が発端とはいえ、マリゼル将軍率いるミタンニ王国軍を完全に殲滅させた本人である。彼がエジプトのファラオとなれば、エジプトの援助を受けて打倒ヒッタイトを目指すことは不可能になることは必然だった。それでも、彼女はザナンザの死を悲しまずにいられなかった。そして同様に、アイの野望のために犠牲となった兵−それが金で雇われた兵であっても−の死も悼まずにいられなかったのである。
「マリゼルは戦場を死に場所に望み、名将の名に相応しい最期を遂げた。ザナンザは・・・この砂漠の中を永遠に彷徨い続ける。それがせめてもの慰めです。」
風に波打ち、絶え間なく流れていく砂をムトネドイェメトは脳裏に焼き付けた。
「これよりテーベに帰還する!」
ホルエムヘブは全軍に出立の合図を送った。彼にとっては、これからファラオの座を巡っての新たな戦いの始まりである。ラムセスにムトネドイェメトの護衛を任せ、ホルエムヘブは軍を率いて一路テーベを目指した。そのあとをムトネドイェメトはラムセスに付き添われるようにして、ゆっくり王宮へと戻っていった。