砂漠の果てに

風砂の墓標(5)

ヒッタイト帝国第4皇子ザナンザの一行が予定されていた期日までにエジプトに到着しなかったことにより、次期ファラオ指名の件は白紙に戻った。ザナンザを次期ファラオに迎えることは、アンケスエンアメンの独断であり、経緯はどうあれ直接の死因が砂嵐に巻き込まれてという、いわば自然災害によるものだったから、エジプトでは表向き責任を問われる者もいない。密やかに進行していたことは失敗に終わり、真実は闇に葬られる。けれども、ヒッタイト帝国にとっては、エジプトの王妃の依頼を受けてザナンザ皇子を送り込んだ結果がこれでは当然収まらない。それでなくとも国境近辺では両国の間でしばしば衝突が起こっていたのだ。ザナンザの死は、エジプトとヒッタイトの関係に更なる緊張を生み出した。オリエント世界を自由に行き来している商人達の間では、密やかに両国の間で遠からず戦乱の火蓋が切って落とされるにちがいないと噂に登るようになっていた。

ムトネドイェメトが砂漠から戻ってきた日を境にアンケスエンアメンの外出はふっつりと途絶え、じっと部屋にこもったままの日々が続いている。だが、ファラオの葬儀の日は刻々と近づいており、もはや一刻の猶予もないまでにアンケスエンアメンに結論を迫りつつあった。その間、アンケスエンアメンが接する他人といえば、ムトネドイェメトくらいのものである。接すると言っても、せいぜい食事をともにするくらいのことであり、それも以前のように語り合いながら過ごすといった親しい間柄ではなくなっていた。それでもムトネドイェメトは、特段のことがない限りその誘いに応じていた。アンケスエンアメンがムトネドイェメトに会うことで、何かを決心しようとしていることは薄々ながらも感じられる。しかし、それが次期ファラオの選定とどう関わってくるかは、さっぱりわからなかった。具体的な話は一切しないし、むしろ互いに避けている傾向にある。ムトネドイェメトにとってもアンケスエンアメンが結論を出すまでの期間は、非常に長いものであった。

ツタンカーメンの葬儀が間際に迫った時、ようやくアンケスエンアメンはムトネドイェメトに次期ファラオについての話題を切り出した。
「これから私はカルナク神殿で、次期ファラオの宣託を受けます。」
いつものように誘った食事の席で、アンケスエンアメンはムトネドイェメトにさりげなく、そう告げた。神殿での宣託が単なる形式にすぎないことはムトネドイェメトにもわかっていた。結局のところ、アンケスエンアメンが決めたことを神託という形でアメン神官に告げるだけなのだ。孤立無援ではあるが、エジプト第一王妃の権威は、まだアメン神官長を凌ぐものがある。それこそがアンケスエンアメンの存在価値であり、余人の追従を許さぬ最後の聖域でもあった。
「オシリス神はどなたをお選びになるのでしょうか?」
てっきりはぐらかされるとばかり思っていたのに、アンケスエンアメンは、一呼吸置くと、静かに予定されているファラオの名前を口にした。
「イシス神はオシリス神の勧めに従い、アイをホルスの化身として迎えることになるでしょう。」
無機質な響きがムトネドイェメトの頭の中でこだました。エジプト第一王妃は女神イシスの化身と言われており、ホルスとは息子、即ちファラオを示す。
「アイ?あの老いぼれた男を次期ファラオに迎えるというのですか?」
アンケスエンアメンの答えは、ムトネドイェメトには心外の極致としかいいようのない選択であった。
「彼は神の父たる称号を持ち、王族に連なる者です。」
アンケスエンアメンは淡々とムトネドイェメトに理由を述べた。
「王族?・・・それだけで、たったそれだけのことで彼をファラオに迎えると?」
「正しき血筋の者をファラオに迎えることは、王家にとってはなによりも大切なことです。」
アンケスエンアメンは整然と言い放った。理屈としては、アンケスエンアメンのこれまでの主張を確かに踏襲はしている。けれども、あれだけアテン神に拘り続けたアンケスエンアメンの行動基準からはおよそかけ離れた選択に、にわかに信じることはできなかった。しかしそれがアンケスエンアメンの意志であることが明白になると、ムトネドイェメトは呆れる以上に怒りを覚え始めていた。
それならば、なぜもっと早くにその道を選ばなかったのか。
危険を承知とはいえ、エジプト王妃の依頼を受けて次期ファラオにと送り込んだザナンザ皇子を失ったヒッタイト帝国がこのまま黙っているとは到底思えなかった。商人達の噂どおり、遠からずして両国の間に戦いの火蓋が切って落とされることになるのはまず間違いない。その時、アンケスエンアメンはどう対処するつもりなのであろうか?
ファラオになったアイが真っ先に行うのは、最大の邪魔者であるホルエムヘブをその地位から失脚させることなのは火の目を見るより明らかだった。ホルエムヘブなくして、エジプト軍は動かない。否、動きようがないのだ。多数の指揮官がいても、王国軍を統率できるだけの度量を持った人物は、ホルエムヘブをおいて他にいない。烏合の衆として無惨な死を迎えたアイの傭兵達の姿が、エジプト軍の未来にそのまま重なった。
「あなたはエジプトの第一王妃。すなわちこの国の国母ではありませんか。それなのに、この国を、我が子を見殺しにするというのですか?」
言葉遣いこそ丁寧ではあったが、ムトネドイェメトは明らかに怒りを露わにしていた。自分の意志を貫くことと引き替えに国を滅亡に追い込むとあっては、それこそ愚の極致と言わずして何であろう。けれどもアンケスエンアメンはムトネドイェメトの怒りにも何ら動ずることなく、淡々と答えを返しただけだった。
「イシスの代理人はオシリス神の宣託に従うのみ。人の指図は受けませぬ。」
アンケスエンアメンの言葉は、誰の意見も聞くつもりはないと宣言したに等しかった。ムトネドイェメトは、アンケスエンアメンの冷ややかな眼差しに、そのことをはっきり悟った。
「・・・帰ります。」
微かな呟きは、ムトネドイェメトが意識しないうちに紡がれたものであった。アンケスエンアメンのムトネドイェメトに対する態度が豹変したこともさることながら、これほどまでに愚かな選択をした者と血を同じくしていることすら疎ましい。食事半ばではあったが、ムトネドイェメトは立ち上がるとそのまま退席した。アンケスエンアメンはその無礼な態度を咎めることなく、何事もなかったように食事を続けていた。

やがて、アイを次期ファラオとする宣言がエジプトの国内のみならず、商人達の噂を通じてオリエント中を駆けめぐった。誰もがやはり、と頷く選択をアンケスエンアメンは採ったのだ。その発表に衝撃を受けた人々も少なからずいたが、仮にもうひとりの名前がそこに出たとしてもほぼ同数の人が同じような思いを抱くだけのことである。どちらにしても所詮はエジプト国内の問題であり、異国人であるムトネドイェメトの介与する余地などないことなのだ。耐え難き虚空な思いと喪失感だけがムトネドイェメトに残された。

それでも彼女は、エジプトに留まっている。ムトネドイェメトには、帰るべき故国がなかった。彼女の求めるミタンニ王国はあまりに遠く、砂漠は果てしない障壁となってムトネドイェメトの前に立ちふさがっているムトネドイェメトはこれまでと変わらず表面上はアンケスエンアメンの友人として王宮に留まるほかなかったのである。

次期ファラオに指名されたアイは、以前にも増して我が物顔でエジプト王宮を横行するようになった。アメン神官長ネブとともに宮廷の人事をいろいろ画策していたが、アイにもただひとつ手の出せない場所があった。エジプト第一王妃の監督下にある後宮である。
「まだあの異国の女はいるそうだな。」
アイにとってムトネドイェメトは非常に目障りな存在であった。後宮で姿を見る度、第一王妃の叔母という無言の肩書きが、アイの神経に障って苛立ちを増長させていた。
「王妃様が拒否なさらぬ限りは・・・。」
「だが、このところふたりの仲は良くないと聞いている。」
「それでも、王妃様は出ていくことを認めてはおられませぬ。」
「なぜだ!」
「まわりの女官達に探らせてはいますが・・。」
苛立ったアイの様子にネブもどう答えていいかわかりかねていた。アイの苛立ちもわからなくはないが、自分とて同様にアンケスエンアメンの考えがわからず困惑しているのである。
「女官か・・・そうだ、ネブ、後宮の女官を入れ替えさせることはできぬか?」
「それは・・。」
「無理か?」
「侍女程度であれば多少はなんとかなりましょうが、女官となりますと上級貴族の子女が仕えております。」
現在の地位にある女官がたとえアイの気に入らなくても、その背後には彼女たちの親兄弟が控えており、下手に彼女達を遠ざけるとその出身家を敵に回すことになるというわけだ。
「ならば、あの女の側近くにいる侍女どもを入れ替えろ。それも気の利かぬ市井の娘あたりにな。」
「なるほど。気の利かぬ侍女では動きもとりにくくなりましょうからな。」
ネブはアイの意図することを察し、心に期する物があるらしい。
「仮にも入れ替えるとなれば、それ相応の理由も必要となります。異国の方には我が国のあり方をご存じなさそうですから、わが神殿に仕える巫女なり神官なりを派遣するということでいかがでしょうか。」
「それでは、神事が回らぬのではないか?」
「巫女や神官になりたい者はいくらでもおりますゆえ、志願者を募ればすぐでございますよ。欲を申せばこちらの意図した働きをしてくれる者を送り込みたいところですが、今回は彼のお方の動きを封じるためですから、何も知らない粗暴な者ほど好都合。」
「なるほどな。では、この件は任せたぞ。」
ネブは自分の提案にアイが賛成したので、さっそくにそのための準備に取りかかった。当初は各地のアメン神殿に年齢、身分を問わず、巫女及び神官の希望者を募るつもりであったが、あからさまな募集は神殿の権威に傷が付くため、現在見習いとして入っている娘達の中から選ぶことにした。もちろんその基準は、目立たず、しかも普通より能力が劣っていると思われる者であることはいうまでもない。ネブの眼鏡に適った娘達は、それぞれ異例のスピードで資格を与えられ、後宮の侍女として勤めるよう命じられたのである。

アメン神のお告げであると称して、アイは後宮の侍女に巫女もしくは神官の資格を持つことを義務づけ、古参の侍女達の大半を追い出した。彼女たちに代わって神官長ネブが巫女と神官を派遣するところまではふたりの思惑通りに事は運んでいった。だが、古くから仕える女官のなかには、新参者の気の利かなさに眉をひそめる者も少なくなかった。
「よりによって、アンケスエンアメン様のご婚儀のお支度で一番忙しい時にこんな役立たずばかり寄越して。」
公然と憤慨する女官もいる有様で、ムトネドイェメトはひとり苦笑していた。
「やり方としては悪くはないけど、次期が悪かったわね。」
「何か?」
ムトネドイェメトに香油を塗っていた黒髪の少女がその手を止めて不安そうに仰ぎ見た。この少女も新しく送り込まれた巫女の資格を持つ侍女のひとりである。主の機嫌を損ねた侍女にはそれ相応の処罰が与えられるのが後宮の慣例であったから、彼女が不安になったのも無理はない。
「サトラーと言いましたね。別にあなたが悪い訳ではないわ。」
ムトネドイェメトは安心させるようにサトラーに言葉をかけた。サトラーは再びムトネドイェメトに香油を付け始めたが、慣れていないためか、時々ムラになったり床に流れ落ちたりで、なかなか終わらなかったのだ。
「でも、確かにこのままでは大変なことになるでしょうね。」
ふとムトネドイェメトは思い付いたように立ち上がった。彼女の動作は普通の姫君からは想像も出来ないほど機敏である。ミタンニ王宮にあっても大抵の侍女達はムトネドイェメトの動きに付いて来れず、よく動作が空回りしたものであった。

部屋の入り口までさしかかった時、ムトネドイェメトは何気なく振り返り、そこにさきほどの侍女が控えている姿を見てにこやかな微笑みを浮かべた。
「もうじきここへラムセスが来ます。しばらく引き留めておいてください。」
「あの、ムトネドイェメト様は?」
「女官長に会ってきます。」
「え!?」
「後宮を追い出されないよう、少しばかり恩を売っておくのも悪くないでしょう。」
何とも図したがい表情をしていたサトラーだったが、ムトネドイェメトがひとりで部屋を出ようとしているのを見て、慌てて自分も付いて出た。
「あなたは、ここでラムセスを引き留めていて。でないと彼はすぐ帰ってしまうから。」
ムトネドイェメトの言葉に、何かラムセスと話したいことがあるのだとサトラーは察し、そのままムトネドイェメトを送り出した。ひとたび外の風に当たった後、部屋に戻ったサトラーは、なんともきつい香りに顔をしかめた。その原因が床にこぼした香油であることに気が付つくと、ムトネドイェメトがなぜ女官長を部屋に呼ばず、自分から尋ねていったのかわかったような気がした。
「これは、本当にひどいわ。」
慣れない裾を引きずりながら、サトラーは部屋の床に点在する香油をふき取りにかかったのであった。