砂漠の果てに

風砂の墓標(6)

ラムセスはホルエムヘブから命じられた任務を不本意ながらも忠実に実行していた。彼は毎日決まった時刻になるとムトネドイェメトのご機嫌伺いに参上する。別に話をするわけでもなく、ただムトネドイェメトが部屋にいることを確認すると、そのまま帰っていくのが常であったが、この日は、肝心のムトネドイェメトが不在の上、新参の侍女サトラーに引き留められて渋々部屋の入り口に留まった。そこからお世辞にも手際のよいといえないサトラーの掃除ぶりを、ラムセスは呆れたように見ていた。
「少しは手伝おうとかいう気にならないの?」
ごしごしと力任せに床を拭きながらサトラーは文句を言った。
「なんで侍女の仕事を手伝わなきゃならないんだ?」
「突っ立ってるだけじゃ、暇でしょ。」
「呼びとめたのはそっちだろ。俺はこんなキツイ匂いの部屋からは、さっさと出ていきたい。」
「だったら、なおのこと手伝いなさいよ。その方が、早く快適な気分になれるってもんだわ。」
「匂いが消えたくらいで快適な気分になれるわけないだろ。こんな辛気くさい護符だらけの部屋、気分が悪いぜ。」
その瞬間、サトラーの語気ががらりと変化した。それまでは冗談交じりでどこか軽口を叩いている雰囲気があったのに、床を拭く手を休め、ラムセスを正面から睨み付けて言ったのである。
「アメン神の加護を愚弄するつもり!?」
「別にそういうわけでは・・・。」
鼻息の荒いサトラーにラムセスはいささかウンザリしたように一歩身を引いた。アイが次期ファラオに決まって以来、後宮に於いても例外なく、至る所でアメン神の巫女だの神官だのが大きな顔をしている。少しでもアメン神を悪く言おうものなら、たちどころに非難の嵐に見舞われるのだ。ツタンカーメンが存命中は、ここまでアメン神の影響が強くなかっただけに、このところの変化にはラムセスならずとも諄いと感じているところである。失言は認めたものの、謝る気配のないラムセスにサトラーが更なる追い打ちをかけようと構えたところへムトネドイェメトが戻ってきた。

ラムセスは無意識にムトネドイェメトの前にかけつけると膝を突いて礼を取った。
「すっかり待たせてしまったようですね。」
ムトネドイェメトはゆったり声を掛けると、そのままサトラーを制するようにしてラムセスに庭へ降りるよう招いた。
「何か?」
「これからしばしば部屋を留守にすることになりますので、今後は来るなら王宮の交渉の間にお寄りなさい。」
ムトネドイェメトの答えだけではラムセスにはさっぱり要領を得なかった。意味が理解できずきょとんとしているラムセスに、ムトネドイェメトは第一王妃の婚礼支度を手伝うことになったことを告げ、ついでに引き受けてきた役名も合わせて説明してやったのである。

次期ファラオの即位は、唯一の王位継承者であるアンケスエンアメンの婚礼を兼ねている。国内各地からの貢ぎ物もさることながら、後宮では第一王妃の婚礼に相応しい品物を求めて異国からの商人達をも特別に招いて日夜準備に追われていた。国内の商人を相手にするなら母国語でよいが、多国の商人を相手にするとなるとその交渉には国際語たるアッカド語が必要となる。後宮の女官でアッカド語に通じている者は非常に少ないし、もともとそれほど頻繁に使うことがないので、交渉に耐え得る程巧みな使い手がいなかった。そんな中で、ムトネドイェメトはアッカド語に巧みであった。彼女のアッカド語はミタンニの王女として身につけていた教養のひとつに過ぎなかったが、異国の商人達との交渉にも十分通用するレベルだったのだ。気の利く侍女がアイの陰謀で追い出されたこともあり、後宮は人数こそいるものの、肝心な人出は不足していた。第一王妃の婚礼支度に猫の手でも借りたいと頭を悩ませていたネリア女官長のところへ、ムトネドイェメトの申し出は、まさに渡りに船であったのである。
「本当にこのようなことをお願いしてもよろしいのでしょうか?」
恐縮しつつも、当てにしている様子がまざまざと見て取れ、ムトネドイェメトはおっとりと構えて頷いた。
「アンケスエンアメン様には、ネフルティティ様亡き後ずっとお世話になるばかりで心苦しく思っておりました。微力ながらも私で役に立つことがありましたら、喜んでお手伝いさせていただきます。」
あくまで下手に出たムトネドイェメトの姿勢はネリア女官長に好ましい心証を与え、その場で必要な許可、即ち、商人達と自由に話ができるよう、王宮の商人達専用の部屋への出入り自由の許可証を取り付けることにも成功したのである。

軍務一筋できたラムセスに商人達との交渉云々という話は、それこそ理解の範疇を越えたものであったが、ムトネドイェメトの居場所さえわかれば、それで彼には事足りる。
「わかった。」
ラムセスは一言で返事を返すと、ようやく解放されたとばかりにそそくさと後宮から出ていった。
「本当にわかってるのかしら。」
「わかっていれば一悶着あったでしょうね。」
サトラーの呟きは彼女ひとりの中で呟かれたはずのものであった。けれどもそれが聞こえたかのようなムトネドイェメトの独り言に、サトラーはつい反応を返してしまった。反射的に視線を反らせたサトラーに、ムトネドイェメトは何かしら伺うような視線を返したが、それ以上は口をつぐみ、窓辺に席を取った。
「交渉の場には、サトラー、あなたも同行するように。」
「わ、わたしも、ですか?」
「あなたでも買い物くらいすることはあるでしょう?」
「で、でも、わたしは、異国の言葉などわかりませんし。」
「ならば、覚えなさい。アメン神の教典を暗唱するより面白いと思いますよ。」
どこか笑いを含んだムトネドイェメトの誘いに、サトラーはますます困惑したように小さく頷くと、再び床掃除の続きに戻ったのであった。

砂漠を越えてくる商人達はいずれも抜け目なく、なかには法外な値段をふっかけて来る者がいる。価値あるものを見極め、それに相応しい値段で交渉するのは、なかなかに骨が折れる仕事だが、自由な外出の出来ないムトネドイェメトが諸外国の情報を得るためには、商人達がもたらす噂話だけが頼りであった。それゆえ、ムトネドイェメトは依頼された交渉の席以外にも積極的に出向き、ことに主だった女官達の買い物にはできるだけ付き合うようにしていた。
そのとばっちりを受けてアッカド語と格闘するはめになったサトラーこそいい迷惑である。それでも習うより慣れろということか、交渉に必要な用語を中心にサトラーのアッカド語は短期間でめざましい進歩を遂げた。始めの頃はムトネドイェメトにべったりであった彼女も、いつの間にか他の女官達から引き合いが来るまでになったのである。

ムトネドイェメトが睨んだとおり、商人達の噂話は多枝に渡りいろいろな情報を彼女にもたらした。その噂話のひとつが、ムトネドイェメトの注意を大きく惹いた。他ならぬ故国ミタンニ王国が復興したとの噂である。
「なんでも皇太子だったお方がヒッタイトの王女を妻に迎え、ワシュカンニを奪還したそうですよ。」
密やかな囁きは、ムトネドイェメトに少なからず衝撃をもたらした。
「いつの、ことです?」
衝撃の冷めやらぬ声で尋ねたムトネドイェメトに、その商人は更なる驚きを引き出すことに成功した。
「サライ殿に直接お尋ねになってはいかがでしょう?」
一瞬息を呑んだムトネドイェメトは、思わずその商人の顔を凝視した。
サライは兄姉の家庭教師達と異なり、ムトネドイェメトの外出に積極的で、時には自らが護衛を務めて城外へお忍びで連れ出してくれることがあった。その都度、サライはムトネドイェメトを異国文化に触れさせるためと称して、他国の商人達と直に引き合わせてくれたものだ。かつてそこで紹介された顔のひとつと目の前の商人の顔が重なった。
「そなた、デルサ、といいましたね?確か、バビロニアの商人とか・・・。」
「お見知りいただき光栄に存じます。」
うやうやしく一礼したデルサにムトネドイェメトは一段と声を潜めて問い返した。
「サライが、来たのですか?」
「後宮に入れるのは私ども許可を受けた商人だけでございます。」
さらりと答えたデルサに、ムトネドイェメトはその場こそは何事もなかったかのように振る舞ったが、心臓は激しく波打っていた。ムトネドイェメトが商人達との交渉を引き受けた真の目的は、サライからの連絡を少しでも早く受けれることにあった。表向き国交のないエジプトの、しかも後宮にいるムトネドイェメトにサライが連絡を取ろうとすれば、出入りを許されている商人に伝言を頼む以外に方法がないと思ったから、情報収集も兼ねて商人達と直に接触できるよう図ったのだ。時間はかかったが、ムトネドイェメトの読みは当たり、バビロニアの商人を通じてついにサライからの連絡が入った。しかもデルサの返事は、サライもまたエジプトの王宮まできたことを示している。噂の真実を一刻も早く知りたいという気持ちと、サライに早く会いたいと逸る気持ちを抑え、ムトネドイェメトは努めて平静に品物の選定を続けた。
「ここまで出入りを許されていない他の商人達は、宮殿外の広場に控えております。そこで一般の役人の方々を相手に商売をしているのでございます。こちらにお持ちする商品より、若干質は落ちますが、値段の方もそれに見合ったものになりますゆえ、女官方にもそれなりのご贔屓を承っております。」
一枚の肩絹を広げて差し出しながら、デルサはムトネドイェメトに誘いをかけてきた。
「こちらの織物などいかがでしょうか。」
けれども、彼が広げた美しい装飾の施された生地は、すでに縫製が施されており、明らかに新品とはいえないものであった。本来ならこのような場所に持ち込むべき品物ではない。
だが、異国文様のそれにムトネドイェメトは見覚えがあった。
「これは・・・。」
それは、ワシュカンニを脱出するとき、持ち出したものの中の一枚であったのだ。デルサはただの出入り商人ではなく、サライの意を受けてムトネドイェメトに会いに来た使者であることを、その肩絹により証明してみせたのである。
「よろしければ、王宮外の広場に置いている他の商品もご覧になりませんか?」
デルサはどこまでも出入りの商人が新規の顧客を獲得したように装った。うかがいを立てたデルサにムトネドイェメトは黙って頷いて見せた。
「では、こちらでのご用件が終わりましたら、ご案内させていただきたく存じます。」
後宮に出入りを許されていた商人達は、そこでの商売を終えて出ていくとき、人数の多少こそあれ、みなそれぞれに贔屓の女官を引き連れて王宮外の広場へ戻っていくのが常だった。デルサはどうやらそれに乗じてムトネドイェメトを王宮の外に連れ出そうしているようである。事前に商人達は後宮の番人を始めとする要所、要所の兵士たちに鼻薬を嗅がせているらしく、後宮から外に出るには本来、許可がいることになっているのだが、誰ひとりとして女官の外出を引き留める者はいなかった。ムトネドイェメトもそういった女官達に混じって、無事に王宮の外へ出ることができたのであった。