砂漠の果てに

風砂の墓標(7)

王宮外の広場は、商人とそれを取り囲む王宮の役人や女官達でごったがえしていた。
「こちらでございます。」
デルサに案内されるままに雑踏の中を進み、ムトネドイェメトは奥まった一角のテントに懐かしいサライの姿を見出した。ムトネドイェメトの足が独りでに速まり、声を掛けるのももどかしいくらいであった。
「サライ?」
やっと会えたという思いがその一言に集約されていた。
「はい。姫、お迎えに参りましたぞ。」
「よく無事でいてくれました。」
ムトネドイェメトは再会のうれしさもさることながら、サライが殊の外元気そうな様子に安堵していた。
「陛下とのお約束を果たさぬうちは、死んでも死に切れませぬからな。」
サライも感慨無量とでもいうのだろうか、ムトネドイェメトに慈しむような眼差しを向けて力強く頷いて言った。亡き父がムトネドイェメトに何を望んでいたかは彼女もよく知るところである。ミタンニ王国の名を失墜させるような最悪の事態は、ザナンザを出陣させマリゼルが籠城したカルケミシュを陥落させることによって回避されたが、その後に為すべき事をムトネドイェメトは果たせなかった。砂漠を越えてエジプトにまで来たものの、故国復興のために役立つことは何も見出せないままに今日の日を迎えてしまったのだ。
「姫、サライとともにお帰りくださいませ。マッティワザ陛下も心よりお待ち致しておりますぞ。」
「兄上が?」
「はい。ですから、こうして私めが、お迎えに上がったのでございます。」
アンケスエンアメンに失望していたムトネドイェメトに、サライの迎えは、まさに渡りに船と言うべきものであった。しかも、兄マッティワザがミタンニ王国を復興したとあれば、彼女には帰るべき故国ができたということだ。今なら、もっとも自然な形でエジプトを去ることができる。ミタンニ王国から身ひとつで砂漠を越えてきたので、帰国するにあたって支度をするような物は何もない。今ムトネドイェメトが持っている物は、エジプト滞在中にアンケスエンアメンから用意してもらったものであり、それらを持ち帰る気には到底ならなかった。だから自分の身ひとつで出ていくことに何の未練もない。むしろ、そうすることでエジプトでの日々をきれいに精算できるというものだ。
「この国に、ミタンニを復興させる力はない。」
姉タドゥ・ヘパ(ネフェルティティ)が亡くなり、ツタンカーメンに会った時、ムトネドイェメトはそう判断した。けれどもアンケスエンアメンとの対話を通じての感触が、心のどこかで故国復興の期待を抱かせ、ムトネドイェメトをエジプトに留まらせてきた。だが、アンケスエンアメンがアイを次期ファラオに定めたことで、今やムトネドイェメトの希望は完全に打ち砕かれた。
アイの目は内政、それもアメン神官団との結合にあり、外国の情勢にはてんで無関心だった。もはやアイの君臨するエジプトに、ムトネドイェメトの求めるものは何もない。
「マッティワザ兄上が王国を復興したというのであれば、父上のご遺志を無にしないためにも帰国しなくてはならぬ。」
そう自分に言い聞かせ、ムトネドイェメトはエジプトを離れる決心をしたのであった。

帰国するとなると、広場までムトネドイェメトに付き従ってきたサトラーを王宮に返さねばならなかった。どう切り出したものかと思案している中、ムトネドイェメトはふと何者かの視線を感じ、振り向いた先にラムセスの姿を見出した。ラムセスはムトネドイェメトに形式的な礼を取ると、そのまま彼女を遠巻きに見守っている。よく見れば、そこにいるのはラムセスだけでなく他にも数人の兵士の姿が見え隠れしていた。その顔ぶれにムトネドイェメトは心当たりがあった。ザナンザを迎えに行った先の砂漠で、ホルエムヘブからムトネドイェメトがエジプトにいる限りは警護するよう命じられた者たちである。その際、ホルエムヘブは「ラムセスの責任において」とわざわざ言葉を付け加えて命じていたのだ。
「こういうところだけはしっかり律儀なのもね。」
困ったことだとムトネドイェメトは微かに溜め息を漏らすと、サトラーを従えたままラムセスに近付いた。
「何か?」
「これ以上先の警護は不要です。」
ラムセスに対してムトネドイェメトは用件のみを伝えた。
「エジプトにいる間は、俺が警護を任されてるんだ。」
相変わらずむっつりと不機嫌な表情でラムセスは言った。
「だから不要だと言っているでしょう。」
ラムセスは、はっとなったようにムトネドイェメトを見返した。
「ホルエムヘブは、私の行動に制限をするなとも命じていたはず。違いますか?」
さすがのラムセスも、これでは反論のしようがなかった。けれども、ラムセスは納得しても、サトラーは猛然と反論してきた。それまで黙ってムトネドイェメトの後ろに付いていただけの彼女が、にわかにムトネドイェメトの前に平伏して訴えたのだ。
「わたしは、最後までお供させていただきます。少なくともアメン神の加護のある街道はずれまでは、お供いたします。」
はっきり言い切ったサトラーに、ムトネドイェメトは一瞬困ったと思ったが、考えようによってはアイの手の者への牽制になると思い直し、そのまま同行することを黙認した。アメン神の巫女が一緒であれば、城塞門を出るときの言い訳が立つ。ナイル河畔から沈む夕日を見ながらアメン・ラーへの祈りを捧げに行く信者が、このところ増えてきたと噂に聞いていたことを思い出したのだ。

先に広場の外れで輿の用意を整えていたサライは、ムトネドイェメトの背後にエジプト人の侍女を見て不満そうな様相を示した。
「その者も連れて行かれるのですか?」
言葉の端々に不快な響きがこもっているが、ムトネドイェメトは敢えて無視した。
「街道へ出るまでのことです。別に構わないでしょう。」
サライは納得しかねていたが、主であるムトネドイェメトがそれでよしとしたのであれば、サトラーの同行を拒否するわけにもいかなかった。
「輿はありませんぞ。」
サライは冷ややかにサトラーを見下ろした。何を当然のことをとサトラーは憤慨したが、表情を変えるようなことはしなかった。サライはムトネドイェメトの輿に当たり前のように付き添ったサトラーを憮然とした表情で睨みつつ王都の外へと歩き始めた。

市街地を抜け城塞門を出ると、そこから先は砂漠まで乾いた道が続いている。輿に乗ったムトネドィエメトは無言のまま中に収まっていたが、ナイル河湖畔から砂漠へと続く路上に出た時だけは輿を止め、沈み行く太陽をしばし見つめた。夕焼けに紅く染まった空から遠く砂漠へと続く道をムトネドィエメトは正面に捉えていた。
日没間際の太陽は、不気味なほどに行く手の空を紅に染めている。砂漠に沈みゆく太陽をみるのは、なにもこれが初めてというわけではない。故郷ミタンニ王国も周りを砂漠に囲まれており、お忍びで遠出をしたときにはよく夕焼け空の中を帰城したものであった。だが、その頃、沈みゆく太陽をこれほどまでに巨大なものと感じたことはなかった。茜色の空に沈みゆく太陽を巨大だと思うようになったのはいつからだろうか?
「姫、お名残は尽きぬと思いまするが、マッティワザ陛下が待っておられます。」
サライに促されムトネドイェメトは再び輿の奥へと身を沈めた。その時、ふとムトネドイェメトはサライの言葉にどこか割り切れぬものを感じた。サライがいずれ自分を迎えに来るのはわかっていた。だが、それがマッティワザの命令によるものというのが妙に引っかかる。マッティワザの性格からして、ムトネドイェメトを疎ましく思うことはあっても必要とするとは到底思えなかったからである。亡き父トシュラッタから溺愛された分、兄姉達、とりわけ皇太子であるマッティワザからは疎まれていた。
「兄上は本当に私を必要としているのだろうか。」
アルタタマに王都を奇襲された際、いく人かの兄弟達を失ったにしても、ムトネドイェメトだけを特別扱いするほどのことはないと思っている。ムトネドイェメトは輿のベールを少し寄せて、外に目を向けた。
夕方の風が砂漠の熱風を何処となく運んでくる。
砂漠からの風は死せる魂の空虚な思いを具現化したかのように乾いた砂を巻き上げ、ムトネドイェメトにたきつけていた。

夕日
日没(提供:TOKOさん)


第3章「風砂の墓標」終了