砂漠の果てに

勝ちて帰れ(1)

砂漠の風を避けるようにムトネドイェメトは輿のベールを引いた。
あれほどまでに焦がれた故国に帰れるというのに、ムトネドイェメトの気持ちは華やぐどころか沈む一方であった。
しかも、急いでいるのか輿の揺れ具合がひどくて、ただでさえ優れぬ気分が一層悪くなってくる。
ついにムトネドイェメトは我慢の限界を感じて輿を止めさせ、サライを呼んだ。
「サライ、このままずっと輿に乗ったままというわけではないでしょうね。」
「それは、もちろんでございます。イヌリの谷に出ましたら、姫にも馬を用意してございますゆえご安心くださいませ。」
「それなら、このあたりで先に着替えていた方がよさそうですね。」
今ムトネドイェメトが着ている衣装は裾の長いドレスであり、到底馬に乗れるような代物ではなかった。
「サトラー。」
ムトネドイェメトは輿の横に付いているサトラーを呼んだ。
「は、はい。」
小走りに輿へ近寄ろうとしたサトラーにサライは予め用意していた動きやすい衣装を渡した。
「これを姫へ。」
すぐに輿が降ろされ、サトラーは着替えを手に輿のベールを割って入った。
「失礼いたします。」
受け取った衣装を着替えしやすいよう早速に広げ始めたサトラーをムトネドイェメトは複雑な心境で見つめていた。
「何も聞かないのですね。」
「ムトネドイェメト様が祖国をどんなに愛していらっしゃるか、日々よく感じておりましたから。」
サトラーは俯き加減に答えると、黙々と着替えの用意を整えていった。
「でも、それほどまでに祖国のことを思えるムトネドイェメト様が正直羨ましゅうございます。」
俯いたままのサトラーにムトネドイェメトは現在のエジプトの状態を思うと少しばかり心が痛んだ。
滅ぼされた時にあっても、ムトネドイェメトは故国を常に誇りに思ってきた。
サライは、一国の頂点に立つ者は、まず国を愛していなければならぬとムトネドイェメトに教えてきた。
しかし言い換えれば、サライもまた自分の故国であるバビロニアを愛しているということに他ならなかった。
「そう言えば、サライもよくバビロニアを自慢していたわ。」
「あの、お迎えに来られた方々はミタンニの方ではないのですか?」
「残念ながら皆バビロニア人よ。サライはバビロニアの出身で特に商人達に顔が利くから。」
「まあ。バビロニアはミタンニ王国より遙かに遠い地にあると聞いておりますのに、これだけの人を使って迎えに来させるとは、兄君様とは仲がよろしいのですね。」
「それはどうかしら。兄にとって私は単なる外交の駒でしか・・・。」
何の気なしに話していたムトネドイェメトの動きが不意に止まった。
「兄は本当に私を必要としてサライを迎えに寄越したのかしら。」
サライと再会したときから感じていた、どこか割り切れぬ思いがムトネドイェメトに現実の不安となって押し寄せてきたのである。

ムトネドイェメトはもう一度商人達の噂話を最初から思い出してみた。
何か大切なことを見落としているような気がしてならなかったのだ。
きっかけは、デルサと名乗ったバビロニア人の商人が、兄マッティワザがミタンニの王都ワシュカンニを奪還したと言ってムトネドイェメトの注意を惹きつけたことにある。
あの時はミタンニ王国復活の話に気を取られて他のことは聞き流してしまったが、その前にマッティワザがヒッタイト帝国の皇女を妻に迎えたと言っていなかったか?
王都奪還より婚姻が先であったということは、マッティワザがミタンニ王国を復興するに当たって、ヒッタイト帝国の助力を受けたということではないのか?
もしもそれが事実であるとすれば、ミタンニ王国は宿敵であるヒッタイト帝国と同盟を結んだということである。
一方、エジプト王国とヒッタイト帝国は、現在直接戦火を交えていないというだけで極度の緊張状態にある。
「サライはバビロニアとの友好の要的存在。わざわざ危険を犯させてまで迎えに寄越すほどの価値が私にあるとはとても思えない。そもそも、あの兄が私を迎えに人を寄越すということからして不自然すぎる・・・。」
その瞬間、ムトネドイェメトの背筋を冷たい物が流れた。
「サライは誰の意を受けてエジプトに来たの?」
サライの故国バビロニア王国が現在最も親しくしている国は、バビロニア王国の王女を正妃としているヒッタイト帝国である。
そしてミタンニ王国の新王となったマッティワザの正妃はヒッタイト帝国の皇女なのだ。
国と国との関係は常に変化しており、それによって人と人との繋がりも変わっていく。
ムトネドイェメトの鼓動は激しく波打ち、その血潮は爆発寸前までに沸騰しかねぬ勢いで流れていった。
「この砂漠の果てに、私の愛したミタンニは、もう、ないのだ・・・。」
ムトネドイェメトは心の迷いを現実を見つめることで断ち切った。

ひとたび心の整理が付くと、ムトネドイェメトは次に取るべき行動を考え始めていた。
このままサライと共にエジプトを出るわけにはいかない。
しかし、用意周到なサライのことだ。
イヌリの谷にはムトネドイェメトの馬だけではなく、バビロニアの商人に身をつやしたヒッタイト帝国の奇襲部隊も共にあるに違いない。
彼らをして本格的な戦いでの勝利に至らないまでも、エジプト王国の国境を破ったという実績は残る。
そこまで考えが至った時、じっとしたままのムトネドイェメトを手持ち無沙汰で見上げているサトラーの存在を瞳が捉えた。
着替えを持つサトラーの指先が布地の端を所在なさげに弄んでいる。
「そなたの指・・・。」
「え?」
と、顔を上げたサトラーの背後に複数の影が重なった。
瞬時にしてムトネドイェメトはサライを叱咤していた。
「サライ、おまえ達の影が見える。お下がりなさい。」
「それは、失礼いたしました。皆の者、下がれ。」
少し離れたところへサライ達が下がるのを確認すると、ムトネドイェメトはサトラーの手を借りるまでもなくそれまで着ていた非活動的な衣装を脱ぎ捨て、素早く身軽な服装へと身支度を整えた。
「あ、あの・・・。」
サトラーが手伝ったのは、ムトネドイェメトが付けていた重みのあるアクセサリー類を外すことくらいである。
外したアクセサリーをサトラーがひとまとめにしようとした時、ムトネドイェメトはその中のひとつ、ホルスの護符に目を留めた。
護符としてごくありふれたアクセサリーではあったが、その名はムトネドイェメトにひとりの人物を思い起こさせたのだ。
「それをこちらへ。」
ムトネドイェメトは護符を取り上げると、そのまま素早くサトラーの首にかけた。
突然のことで硬直したサトラーにムトネドイェメトは声を出さぬよう指先で唇を押さえ、そのまま本来胸に飾るべき護符をくるりと彼女の背に回した。
そして目を丸くしているサトラーには構わず、ムトネドイェメトは先んじて輿の外に出た。
「サライ、もうよい。こちらへ。」
ムトネドイェメトの声を待ちかねたように、サライが一頭の馬を引いてやってきた。
「侍女殿にはここよりお引き取り願いたく存じます。」
続いて現れたサトラーを前に、柔らかな物腰ながら、サライはこれ以上は譲れないと迫っていた。
一歩引いたサトラーにムトネドイェメトは抑揚のない声で呟いた。
「本当ならイヌリの谷からラー神を眺めさせてあげたかったのですが。」
サトラーの瞳は相変わらず大きく見開かれたままであったが、やや間を於いて彼女はムトネドイェメトの前に跪いた。
「砂漠の傍までお連れいただき、感謝しております。このように間近でラー神のお姿を拝見できて光栄でございます。」
紅い夕日の残照が短く祈りを捧げるサトラーの横顔を照らし出していた。

「では、こちらへ。」
サライが引き出した馬をサトラーはこわごわと見上げた。
「心配しなくても、そのまま馬に掴まっていればよい。あとは馬が連れていってくれる。」
サライが合図すると一行に従っていたなかでも屈強そうな男がサトラーを半ば強引に馬の背に押し上げた。
サトラーの身体はそれとわかるほどに緊張して強張っており、震える手で手綱を受け取った。
「そなたにホルスの加護があるように。」
ムトネドイェメトの見送りの言葉に、サトラーはカルナク神殿に祀られているひとりの神の名を持って返答した。
「・・・メンチュ神の御心のままに。」
ムトネドイェメトはそれを聞くと軽く頷き、青ざめているサトラーを乗せた馬にひと鞭当てた。
馬は短く嘶くとそのままサトラーを乗せたまま町とは反対の方向、砂漠へと向かって走り出した。
サトラーが反射的に馬の首にしがみついたのが見て取れたが、馬はそれに構うことなく走り去っていく。
「落ちねばよいですがな。」
「そうね。でも、一応大人しい馬を選んだのでしょう?」
サライを振り返ったムトネドイェメトの表情からは、完全に感情が消えていた。
そして彼が何か返事をする前に、ムトネドイェメトは手近にあった商人達が常備している護衛用の弓矢を取ると軽く引き絞って弦の調整に取りかかった。
「姫?」
「あまり実用的とは言えないけれど、取りあえずはこれで十分。」
言うが早いかムトネドイェメトは、そのまま矢を番えると砂漠へ走っている馬めがけて放ったのである。
サライの目は、ムトネドイェメトの放った矢が、サトラーの背の左上当たりに命中したことを認識していた。
遠目にも水平上に突き進んだ矢が馬の背に重なり、それと前後して馬上の人影が少し低くなった様子が見て取れた。
「あの馬が町へ戻るにはかなりの時間がかかるでしょうね。」
ムトネドイェメトは用の終えた弓矢をサライに投げ渡した。
「相変わらずお見事でございますな。」
短く賞賛したサライの横をすり抜けるようにして、ムトネドイェメトは再び輿の方へ歩き出した。
「さすがにこのあたりはだいぶ人影がまばらになってきたようですが、今しばらくは輿に乗って参ります。」
「・・・承知いたしました。」
ムトネドイェメトの姿が輿の中に消えるとサライは待ちかねたように担ぎ手達に出発を促した。
「急げ。イヌリの谷へ急ぐのだ。」
風の中にあっても低く響くサライの声をムトネドイェメトは虚しく聞き流していた。