砂漠の果てに

勝ちて帰れ(3)

日没後の砂漠は急速に気温を下げていくが、その残照は意外と長く砂漠を照らし出しているものだ。
若輩ながらも鷹使いを同行させたウアブの意図するところを察し、サトラーはイヌリの谷へ一直線に馬を急がせている。
「奇襲を知らせるだけならムトネドイェメト様はわたしの馬を町へ向けて走らせたはず。それをわざわざ砂漠へ向けたのは、きっとライアの隊をして迎え撃てということだ。」
確たる自信はないが、そう思ったからサトラーはムトネドイェメトに戦の神であるメンチュの名をもって答えた。
「あの時、ムトネドイェメト様は確かに頷かれた。だから、大丈夫。きっとムトネドイェメト様は谷で待っていらっしゃる。」
残る問題は、ムトネドイェメトが輿に乗ったままであるか否かということだ。
「馬に乗ってらしたら、話は早いのだけど。」
サトラーは厳しい表情で目前の砂山を睨み付けた。
この山を越えればイヌリの谷への分かれ道となる。
ウアブは最悪の場合に備えて敵となるべき人数を尋ねた。
「お迎えの商人は何名くらいだったのでしょうか?」
「わたしがお供していた時は8人だったけど、谷に着けばはもう少し加わるでしょうね。そのうち馬上にあったのは5人。でも、一頭はわたしが使ったから、最低4人。」
「鷹と弓とで何とかできればよろしいのですが。」
「やってみますか?」
それはひとつの賭けであった。
「こちらは6人。ムトネドイェメト様の盾となるには十分でございましょう。」
一行はサトラーを含めて7人である。
ひとり少ないのは、ムトネドイェメトを伴っていち早くその場を離れる者を勘定に入れていないからだ。
サトラーはごくりとツバを呑み込むと砂山の影に馬を止めた。
それを合図として鷹使いが鷹を上空に飛ばした。
遙か上空へと上昇していく鷹を見上げながらサトラーは弓に矢を番え、再び馬を走らせた。
サトラーを先頭にウアブ達はくの字型に体形を整えつつ後に続く。
サトラー達が砂山からイヌリの谷へ回り込んだのとほぼ同時に鷹笛が吹かれた。
残照の残る砂漠に一陣の巨大な影が猛スピードで通り過ぎていった。

同じ頃、イヌリの谷に入る直前で足止めを受けていたサライの元へ待望の馬が届けられていた。
「姫、参りましたぞ。」
馬を連れてきた部下を労う暇も惜しんでサライはひったくるように馬の手綱を引き取りムトネドイェメトの前に出た。
「これはよい馬だこと。」
二の足の強い足取りを見て、ムトネドイェメトの目が輝いた。
「お気に召していただけましたか?」
「ええ。これなら存分に走ってくれそうです。」
ムトネドイェメトに手綱を渡しながら、サライは彼女の周りを配下の者たちに囲ませていた。
思っていた以上にサライの用心深い様をムトネドイェメトは内心舌打ちした。
これではいかに馬の二の足が強くとも飛び越えて行くのは至難の業である。
唯一の救いは、戻ってきたのが馬を受け取りに行った者だけということだ。
安心するのはまだ早いが、少なくともこれ以上人数が増えるまでに多少の猶予はある。
谷の反対側はただっぴろい砂地が広がっているだけだが、右へ少し避ければ小高い砂山が視界にあった。
更に、ムトネドイェメトは視線だけで左横の荷の上に置かれたままになっている弓矢との距離を測っていた。
サトラーを射るのに使ったのを差し引いて残っている矢は5本。
自分の馬が無事でさえあれば、それで事足りるはずであった。
目星を付けた砂山の影に入るまでの間、ムトネドイェメトは完全に無防備な状態となる。
ムトネドイェメトはサライから手綱を受け取り、馬に乗りながら飛び出す機会を窺った。

その影は突然にサライ達の頭上に覆い被さった。
「何だ!?」
目にも留まらぬ早さで一同の間をすり抜け、瞬く間に上昇していく風が巻き起こる。
それが鷹であることに気が付いたのはサライとムトネドイェメト、どちらが先であったかはわからない。
しかし、いずれにしてもそう大差はなかったようである。
他の者たちは、ほぼ同時にサライとムトネドイェメトの相反する声を耳にしていた。
「取り押さえろ!」
「飛べっ!!」
発したものにしか瞬時の判断のつかない叫びは、わずかながらにもムトネドイェメトに有利に働いた。
当初、左に寄るつもりだったその馬の足を、ムトネドイェメトは手前に居た男を蹴飛ばすようにして飛び越えた。
予想だにしない馬の蹴りはその場に空白を生み出し、ムトネドイェメトは望んだ方向へ活路を作り出すことに成功した。
「飛べっ!」
迷うことなくムトネドイェメトは右へ力強く馬を飛越させた。
馬はその二の足の力を遺憾なく発揮し、囲いを突破して一気に走り出していた。
その後のサライの様子を振り返る余裕などなかった。
イヌリの谷から見て、障害となるようなものは右手に位置する砂山ただひとつ。
ムトネドイェメトは姿勢を低め、そのまま砂山目指して走り抜けたのであった。

サトラーは鷹が急激に降下していく様を息を呑んで見つめていた。
これで何も動きがなければ、イヌリの谷へ突入するつもりだった。
一旦砂山の影に姿を消した鷹が再び上昇するのに併せサトラーは弓を絞ったが、彼女の目には何の変化も見出すことはできなかった。
「入り口に見た人影は別人で、ムトネドイェメト様はもはや谷の奥へ向かわれた後なのか。」
小さく唇を噛んだサトラーは、弓の弦を弛め、再び手綱に取って変えようとした。
その時、風に混じったざわめきが空を揺るがせた。
目にはまだ見えないけれど、砂山の向こう側での喧噪たる動きが老兵たるウアブの五感を刺激している。
長年戦場の馬とともにあった彼の耳は、馬の嘶きに敏感であった。
「あの嘶きは、普通に走らせている馬のものではない。」
確信に満ちた声はサトラーに再び弓を引かせた。
「できるだけ遠くへ!」
サトラーは、大きく弦を引き絞ると、砂山の向こう側を狙って矢を放った。
放たれた矢は大きく弧を描き、砂山の影に消えた。
その矢を追うように鷹使いだけをサトラーの傍に残してウアブは残りの兵を率いて駆け出した。
「換え矢を!」
サトラーはそのままの位置から次々と矢を放っていく。
「見えました!砂山の影から人を乗せた馬がこちらに向かって来ます!」
人一倍目の利く鷹使いの声にサトラーの弓を絞る角度が変化した。
無作為に弧を描くのではなく水平に、そして目標物を捉えるように、サトラーは焦点を変えたのである。
「どこから?」
最初に見えた馬のあとに続くはずの影をサトラーの目は探している。
「すぐ後ろ!!」
彼の声はそこで途切れた。
現れた敵を威嚇するのは、サトラーの弓だけではない。
十分とは言えないが、この明るさの中でなら、まだ彼は鷹を使うことができた。
途切れた声に変わって鷹笛が音無き誘導に出た。
矢を狙う先を巨大な影が遮るようにして塞ぎながら移動していく。
走り寄ってくる馬の影がそれに連れて細くなっていった。
近付いてくる影はただ一騎のみであり、その後ろに入った影は紛れもなくウアブ達であった。
「ムトネドイェメト様!!」
後方の影が完全に味方だけになったことを確認すると、サトラーは片手綱のまま走り出した。

大きな飛越のあと、ムトネドイェメトはひたすら馬を走らせていた。
後方から射られるかも知れないという不安はあったが、サライ達の中に弓矢に通じた者がいる可能性は極めて低いこともあり、ムトネドイェメトは敢えて走ることだけに専念した。
馬は予想以上に瞬発力があった。
あとはそれがどこまで続くかである。
しかし、その不安を覚えるまでに強力な援護が加わったことに気が付いた。
真正面から接近してきた複数の騎馬は紛れもなくエジプト兵であったのだ。
このあたりでエジプト兵といえば国境警備の者しか考えられず、単なる偶然の見回り兵と出逢うには哨戒コースを離れすぎている。
となれば、考えられるのは、サトラーが砦にたどり着いたことによって出陣してきた者達だということだ。
案の定、彼らはムトネドイェメトを回り込むようにして背後に着いた。
明らかにムトネドイェメトを援護する態勢を取っている。
そして間もなく、ムトネドイェメトは自分の名を呼びながら馬上にあるサトラーの姿に気が付いたのであった。

サライはムトネドイェメトが覆い被さってきた鷹の影を利用して自分たちの囲いを突破したことに気が付くや否や、最初の命令を撤回した。
「追うな!谷へ入るぞ!」
「サライ殿!」
「追っても無駄だ。」
「しかし、姫は。」
「無駄だ。第一、この装備でエジプト兵とは戦えん。」
にべもなくサライは吐き出した。
「トシュラッタ王の目はやはり確かであったわ。生涯の敵とは相容れぬとな。」
サライは遠ざかるムトネドイェメトの影をそれ以上追うことなく、率先してイヌリの谷への道を取った。
その場の主たるサライがあっさり方向転換したため、他の者もそれに追従せざるをえなかった。
「サライ殿、これではアッシュールウバリト陛下に申し開きが立ちませぬぞ。」
「そうかな?儂としては、十分すぎるほどお役に立てたと思うが。」
空手で戻ることにむしろ満足している様相のサライをデルサは怪訝な表情で見返した。
「わからぬか?これでエジプトとヒッタイトの均衡は確実に破られる。遠からずして大きな戦が起こることは避けられん。戦は両国に少なからぬ被害をもたらすであろうよ。そうなれば我がバビロニアにもそれなりにチャンスは巡って来よう。」
「しかし・・・。」
「タドゥ・ヘパ様がご存命であれば姫にも機会はあったであろうが、アイが新王となった今となっては、姫の価値は・・・せいぜい王妃の話し相手くらいのものだ。姫のあの気性ゆえ、ヒッタイトを憎む温床作りにはひと役買うことになろうが。」
主思いの侍従から、辛辣な工作員へサライは変貌していた。
否、本来の姿に戻ったというべきか。
これまでは、ミタンニ国王トシュラッタが法外な値でサライの知識を買ってくれていたからこそ、彼はムトネドイェメトの家庭教師として仕えてきたのだ。
新たなミタンニ国王となったマッティワザは、サライの要求に応えるつもりは皆無であった。
まさに金の切れ目が縁の切れ目というわけで、サライは故国に忠実なバビロニア人に戻ったのである。
「追っ手がかからぬうちに砂漠へ出るぞ。」
サライはどこまでも現実主義であった。
だからこそミタンニ王国亡き後、ヒッタイト帝国に居ながら今日まで生き延びてきたのだ。
彼に仕える者達もそれは同様である。
時期を同じくしてテーベへ向かったヒッタイト帝国奇襲部隊の行く末は、サライの掌握外であった。
「テーベの門を破るのは容易いだろうが、その先はそうも行くまいな。ホルエムヘブは今だエジプトの将軍の座にあると聞く。新王の即位にせいぜいケチが付く程度のことだ。」
サライは冷酷に情勢を分析しつつ、イヌリの谷をシリア砂漠方面へと抜けて行った。