砂漠の果てに

勝ちて帰れ(4)

馬上にあったムトネドイェメトはサトラーの援護を受けて、そのまま一直線に彼女の前まで馬を走らせた。
出逢ったところでそのまま方向を変え、イヌリの谷から猛然と去っていく。
背後にサライ達の影がないことを確認すると、はじめてムトネドイェメトは馬足を弛め、サトラーに並ぶよう合図した。
ふたりの口から出たのは、まず互いの無事を確認する言葉だった。
「ご無事で何よりでございます。」
「サトラーも無事でよかった。」
ムトネドイェメトの視線がサトラーの背を気にしていることで、矢を射た件を指していることだとわかった。
「ホルスがお守り下さいました。」
現物を見せられないことを少し残念に思いながらサトラーは答えた。
そこでようやくムトネドイェメトは安堵の笑みを浮かべたのだった。
それを見て、サトラーは次の行動を尋ねる気になった。
「これからいかがなさいますか?」
「このまま、テーベへ戻ります。」
安全な砦ではなく、戦場になるかもしれない場所をムトネドイェメトは行き先に選んだ。
躊躇いの表情を浮かべたサトラーに、ムトネドイェメトは信頼を寄せた声で確認した。
「ライアは奇襲部隊を迎撃に向かったのでしょう?」
「はい。クシュ峡谷からイヌリの谷を封鎖すると言って出撃しました。テーベはラムセスがいるから彼に任すとも言いました。」
「なら、大丈夫。彼らは成功するわ。」
ムトネドイェメトの信頼に満ちた声はサトラーとしては嬉しいものであったが、自分が直接指示を与えたわけではないのにライア達の動きをそこまで信用できる度量の広さが、ある意味不思議でもあった。
ムトネドイェメトもその点については承知しているらしく、彼女にしては珍しく多弁であった。
「テーベを奇襲するために送り込まれた部隊は単独であり、孤立しています。彼らはエジプトの王都にただ一撃を与えるためだけに編成された部隊なのです。」
乾いた声にサトラーは息を呑んだ。
「そのような無駄なことを・・・。」
「新王の即位が控えていなければ、実行に移されることなどなかった駄策。」
ムトネドイェメトの瞳が鋭さを添えた。
その厳しい眼差しをウアブは前にも見たことがあった。
ヒッタイト帝国ザナンザ皇子が亡くなったあの砂漠で、アイの傭兵部隊を前に見せたのと同じ深い色をその瞳に浮かべている。
無意味な出兵によって命を失う事になる兵への悼みと、そのような無駄な作戦を実行させた指導者への憤りをムトネドイェメトは顕わにしていたのだ。
「成功すれば、確かにエジプトに一撃を与えたと諸国に印象付けれたでしょうが、失敗すれば全くの無駄足であったことを思い知らされるだけなのに。」
ムトネドイェメトの言葉には主語が抜けていた。
無駄な出兵であったことを思い知るのはヒッタイト帝国の誰かなのか、それともバビロニアの手の者なのか、サトラーは知りたいと思った。
エジプトにはおそらく直接に寄与しないことなのだろうが、なぜか気になったのだった。

ムトネドイェメトは目線が合ったサトラーをひとりの生徒であるかのように扱った。
「しばらくバビロニアから良質の商品は望めないでしょうね。」
「では、これはバビロニアが仕組んだことなのですか?」
「出兵してきたのはヒッタイトの兵ですよ。」
切り替えされて、サトラーは眉をひそめた。
ヒッタイトとバビロニアとでは、どう贔屓目にみてもヒッタイトの方が力が上である。
上位国が下位に位置する国の命令で出兵するとはまず考えられない。
「シュッピリウマならこのような奇襲を潔しとしない。」
それが次のヒントだったが、ヒッタイト帝国皇帝の名が出て、ますますサトラーは困惑した。
「どちらにせよ、近いうちに大がかりな出兵があるでしょう。」
既に諸外国の商人達の間では公然と口端に登っていることだが、ムトネドイェメトはそれを近い未来の出来事だと認めて言った。
「それは、ヒッタイトと我が国とが正面切って戦をすると解してよろしいのでしょうか?」
それまで黙っていたウアブが横から口を挟んだ。
ムトネドイェメトはその問いに対しては直接に答えを返すのを避けた。
戦争をするか否かを最終的に決めるのはエジプトのファラオなのだ。
新たなファラオとなるアイを知るムトネドイェメトには、こればかりは判りかねた。
その代わりに、彼女は自分にできるであろうエジプト軍への助力を口にした。
「なるべく早いうちにラムセスがもとどおりの軍務に服せるよう努力はします。」
意外な展開にその場にいた者は息を呑んだが、次の瞬間漏れたムトネドイェメトの呟きに一同は笑いに包まれた。
「ホルエムヘブは心配性すぎる。」
その裏に秘められたホルエムヘブの好意以上のものをムトネドイェメトが気が付いているのかどうか、老獪なウアブをしても判断することは困難だった。

サトラーから控えの弓を受け取りながら、ムトネドイェメトは安定した走りを見せていた。
サライが手配していた馬は持久力もそれなりに兼ね備えていたことを証明してみせたのだ。
「少なくとも半分は本気で迎えに来たと言うことか。」
落ち着いた様子のムトネドイェメトを見て、サトラーは気になっていたことの確認を遠回しに始めた。
「ムトネドイェメト様は、奇襲部隊に気が付かれたから、わたしを帰そうとされたのですか?」
これまでのところ、互いの意志がたまたまうまく噛み合ったから成功してきたが、それにはムトネドイェメトの先読みする力がかなり大きく働いていた。
サトラーが自分でよかれと思って行動したことも、結局はムトネドイェメトの予測の範囲内から出るには至っていなかったのである。
知識の差があまりに大きすぎると、今後不都合が生じる素となり兼ねない。
このままムトネドイェメトに仕えるのであれば、サトラーは可能なこととそうでないこととの線引きをしておく必要を感じたのだ。
「あなたがエジプト軍に属するとわかっていたからよ。」
それに対してムトネドイェメトは、それまでとは違い、ざっくばらんな口調で答えた。
その返事は、的を得ていたが、それだけにサトラーの受けた衝撃は大きかった。
「わたしは、アメン神官の推薦を受け巫女としてお仕えしてきました。それがなぜ軍の者だとおわかりになったのですか?」
なるべく平静を装って尋ねたつもりだったが、サトラーの丁寧な口調はそれだけで緊張していると取れるものであった。
ムトネドイェメトはサトラーの不安を察すると、自分の他には気が付いた者はいないと断言した上で彼女の質問に答えてやった。
「手よ。あなたの手。」
「私の手?」
「そう、あなたの手は私と同じ。」
そう言って、ムトネドイェメトはサトラーのを手取ると自分の手と並べてみせた。
どちらの指もほっそりしているが、そのところどころにタコが見え隠れしている。
「これは弓を引く者の手だわ。奥向きのことをする手ではないのよ。」
具体的に指摘され、サトラーは思わず赤面した。
ムトネドイェメトに初めてお目見えした日、香油を付ける役目を仰せつかったが、一度きりのことで、その後そういった奥向きの役目からは全て外されていた。
代わりに与えられたのは、側仕えの女官が携わるはずの交渉役であった。
言い返せば、最初から正体を見抜かれていたということになる。
「でも、それだけではわたしがホルエムヘブ様に組する者かどうかは・・・。」
「ええ、それは考えました。もしかしたらネブが送り込んできた刺客かもしれない、と。それでラムセスと引き合わせたの。」
しかしそれがどうして判断の基準になったのか、サトラーには理解できなかった。
ラムセスとはホルエムヘブに繋がるような会話をしたつもりはなかったし、後宮で親しく話をしたという記憶も無い。
腑に落ちぬ表情のサトラーにムトネドイェメトはクスリと意味ありげな視線を向けた。
「あの日、ラムセスと喧嘩をしたでしょう。」
「喧嘩?あ、あの時の・・・でも、それがどうして・・・?」
「あなたがラムセスに何の感情も持っていなければ、巫女の権限においてラムセスをアメン神への不敬罪で神官に告発し投獄したはずです。でも、あなたはそうはしなかった。個人的な喧嘩という形で彼を庇ったでしょう。」
ムトネドイェメトの答えは何気なさを装っていたが、内容としてはサトラーの気持ちをものの見事に言い当てていた。
背後を守っているウアブ達からも何やら忍び笑いらしきものが漏れている。
それはラムセスとの間柄を好意的にみていることによるものであったが、サトラーとしては公に認めたくはない感情であった。
「あ、あの、わたしはラムセスのことなど別に・・。」
とっさに否定しかけたサトラーであったが、ムトネドイェメトは待ち人顔で笑っている。
「別に?」
小さく笑って言葉尻を取ったムトネドイェメトに、サトラーはそれ以上言い訳することの無駄を悟った。
かといって、そのまま肯定するのは悔しいので、敢えて最初に掛けられた疑いを確かめるように話題を逸らした。
「もしかして、最初からわたしをホルエムヘブ様から遣わされた軍の者と知ってらして、いろいろな方へ引き会わされていたのですか。」
ムトネドイェメトはアメン神に信仰の厚いネリア女官長を始め、王宮内のアメン神官の息のかかっている場所へは何かと理由を付けてサトラーを伴っていた。
巫女であるサトラーを身近に置いていることで、ムトネドイェメトがアメン神を尊重していることをそれとなくアピールし、一方サトラーには、今後注意すべき人物を知らしめるという、まさに一石二鳥の訪問を執拗に繰り返していたのである。
おかげで、わざわざホルエムヘブから連絡を受けずとも、サトラーの頭の中には注意すべき人物とその勢力関係、及び人間関係が入っている。
「これからのこともあるし、いろいろと働いてもらいますよ。」
それはムトネドイェメトがエジプトに残るという意思表示でもあった。
もはや、砂漠を見つめる彼女の瞳は、テーベへと続く目前の道しか映していなかった。
見えぬものを見ようとする、あの遠くを窺うような眼差しはどこにも感じられない。
「今後ともアメン神のお導きのままにお仕えさせていただきます。」
サトラーもまた改めてムトネドイェメトに仕えることを誓ったのであった。

その後サトラーは回答を見つけられなかった疑問を自分の中だけに留め、ウアブと相談して隊列を組み直した。
疑問に対する答えを自らが見つけた時、サトラーの世界観もまた大きく変わっていくことになるのだが、それはまだずっと先のことである。
今、彼女たちにとって大切なのは、アンケスエンアメンの居る後宮にいかにして戻るかということだった。
そのためには、まず王都テーベに戻らねばならない。
「テーベへ。」
女性2人を含む8人の小部隊が夕闇の中をテーベへと向かっていく。
その先に待ち受けているのが味方の軍勢か、それとも敵の奇襲部隊かはまだわからない。
だが、一行の誰もがエジプト軍が出迎えてくれるものと信じて疑っていなかった。