砂漠の果てに

勝ちて帰れ(6)

ムトネドイェメトが向かっている道とラムセスが向かった道。
ふたりの向かう先は距離の多少こそあれ、ある地点で交差している。
ムトネドイェメトの一行とラムセスの小隊がテーベの外れの街道で出逢ったのは決して偶然ではなかった。
「止まれ!」
緊張した面もちのラムセスを前に、ムトネドイェメトは毅然と馬を止め、凛とした眼差しで小隊を見回した。
「お迎えに参りました。これより先は、このラムセスがご案内致します。」
息せき切っているサトラーが呆気にとられたほど、ラムセスの口上は平静であった。
だが、ラムセスがその身体を挺してムトネドイェメトの行く手を阻んでいるのは誰の目にも明らかである。
ウアブをはじめその場の誰もを凍り付かせるほどに緊迫した空気がふたりの間にあった。
ムトネドイェメトの視線はラムセスを凝視している。
しかし、その眼差しはラムセス自身ではなく彼の遙か後方に向けられていた。
自分以外のところにムトネドイェメトの目が向けられていることに気が付いた時、ラムセスは何故か安堵した。
そのラムセスの考えを肯定するかのように、ムトネドイェメトは一同が固唾を呑んで見守っている中で、艶やかな微笑みを返したのである。
「出迎えご苦労でした。」
穏やかな声がまずラムセスにかけられ、続いてウアブを労うものへと替わっていった。
「これより先は、ラムセスに先頭を任せましょう。ウアブは後衛を頼みます。」
ラムセスが拍子抜けするほどにムトネドイェメトはあっさりと彼に従ったのだ。
これにはさすがのラムセスも虚を突かれたようだが、そこでぐずぐずしてムトネドイェメトの不快を買うようなことはしなかった。
即座に陣形を組み直して、テーベへ引き返すよう手配したのである。

一行はラムセスを先頭にして隊列を組み直したが、いざ出発という時になって、ムトネドイェメトが待ったをかけた。
今更に何事かと訝ったラムセスに、ムトネドイェメトは一呼吸おいた後、傍らのサトラーをも呼んで尋ねたのだ。
「どこか、着替えのできる場所があるかしら?」
「着替え、ですか。」
思いも寄らぬ問いに、サトラーもすぐには返事ができかねた。
何より、ムトネドイェメトの意図することがすぐには理解できなかったせいもある。
「さすがに、この格好で王宮に戻るわけにはいかないでしょう。」
「あ!」
言われて初めてサトラーも気が付いた。
ムトネドイェメトが着ている衣装は、動きやすいという点では申し分ないが、格式からいけば、かなり難のある服である。
何よりエジプトの様式でないことが、問題であった。
後宮にいる女官で彼女の顔を知らないものはいないが、後々面倒なことにならないよう万全を期しておく必要があるのだ。
「それならば・・・。」
サトラーは何か思うことがあるのか、そこで一旦、言葉を切った。
「ムトネドイェメト様をお招きしても恥ずかしくない場所となると、やはり、ルーヤのとこしかないわね。」
少し考えてから、サトラーはラムセスに向いて言った。
「やっぱ、そうなるかあ。」
あやふやながらもラムセスは頷いた。
「それとも、他にいいところがある?」
「・・・そういう貴族の知り合いがゴロゴロいれば苦労しないな。」
サトラーとラムセスの意見が一致したところで、ふたりはウアブを振り仰いだ。
ウアブは心得たとばかりに早速にムトネドイェメトが立ち寄る旨をルーヤに知らせるべく伝令を走らせた。
ラムセスは一旦小休止の合図を出し、サトラーはルーヤのことをムトネドイェメトに説明した。
「ルーヤは、ライアの婚約者なんです。あの堅物がどうやって深窓の貴族のお姫様を口説いたのか、一時、すごく噂になったくらいで。」
かなり私情の交じった内容ではあるが、軍部と敵対している貴族でありながら、ルーヤとその一族はラムセス達に相当好意を持って迎えられていることがうかがえる。
実のところ、旧勢力である貴族の令嬢と新興勢力の典型ともいえる軍人のライアとの意外な組み合わせにムトネドイェメトも驚きを禁じ得なかった。
しかし、ライアの有能さと、それなりの人望のあることは宮廷でも評価されていたから、ルーヤの父親が彼の将来性を買って婿としたとしても不思議はなかった。
時代の流れを見る目を持っていれば、凡庸な貴族の子弟に嫁がすより、将来性のある軍人と繋がりを持った方が家の為になると判断した方がある意味自然な成り行きともいえよう。

ルーヤの家は、テーベの郊外に位置する貴族の別邸群の中にある。
その点でも、これからテーベに入るムトネドイェメトには好都合な場所ともいえた。
家の前では、ウアブから知らせを受けて、ルーヤ自身がムトネドイェメトを迎えるべく待ち構えていた。
「ようこそお越しくださいました。ムトネドイェメト様を我が家にお迎えできる名誉を賜り光栄にございます。」
恭しく礼を取った美しい女主人に、ムトネドイェメトはにこやかに、だが、油断なく辺りの様子に目を走らせながら言葉をかけた。
「急なことで何かと迷惑を掛けますが、よしなに頼みます。」
ルーヤは全てを心得ているとばかりに頷くと、自らが先にたって部屋へと案内した。
「本来ならば、まずはごゆっくりおくつろぎいただくところでございますが、急ぎ王宮にお戻りになる旨伺っておりますので、早速、お部屋にご案内させていただきます。ご用向きの物は、準備しておりますので、どうぞお支度くださいませ。」
ウアブがどこまで話したのかはわからないが、いずれにしても心配りの利いた案内にムトネドイェメトは感心した。
さすがはライアが選んだ女性だけのことはあると頼もしく思ったのだ。
側に控えている侍女達の配慮も細かく、いずれも主の意を汲んですぐに動ける者達ばかりを揃えているようだった。
ムトネドイェメトに従っている女性といえば、サトラーだけだったから、その点もかなり考慮してのことだろう。
これはムトネドイェメトへの配慮というより、むしろサトラーに対する心配りとでもいうべきものだが、いずれにしても有り難いものであった。
ムトネドイェメトのために用意されていた衣装一式は、相応のものというより、かなり贅を尽くしたと思えるものである。
これをサトラーだけでムトネドイェメトに着せるのはまず不可能だった。
その手の事に慣れた侍女達がいて初めて可能になることなのだ。
衣装の着付けには、ルーヤも加わって、手際よく進んでいった。

それなりの時間をかけてようやくムトネドイェメトはその身分に相応しい貴人へと変貌を遂げた。
「これほどに見栄えのする方は、初めてでございます。」
普段そういったことに慣れているらしい侍女達も、会心の笑みがこぼれるほどにムトネドイェメトは美しかった。
サトラーは単純に主の美しさを誉められて誇らしそうにしているが、ムトネドイェメトは衣擦れの感触を確かめながら別なことに思いを馳せていた。
ムトネドイェメトが着ている衣装は、好意だけで簡単に用意できるシロモノではないということだ。
貴族とはいえ、ルーヤの家は中流に位置する家柄であり、生活様式も特別に変わっているわけではない。
それが、ウアブから連絡を受けてからのわずかな時間で、これほどのものが即座に用意できるのは相当の財力があって初めて可能になることである。
大貴族ですら、おいそれとは手に入れられないはずの異国産のアクセサリーまで用意しての歓待に、ムトネドイェメトは少なからず疑問を持った。
「この宝石はエジプトではあまり見かけないものですね。」
さりげないムトネドイェメトの問いに、ルーヤは特段隠しだてする様子もなく実家の話をした。
「母の実家が商家で、国内の産物を手広く扱っております。それに、ホルエムヘブ将軍のお口添えをいただき、些少ではありますが、異国との取引もありますゆえ。」
「そうでしたか。」
ホルエムヘブの口添えで他国との交流があると聞き、ムトネドイェメトはひとり納得した。
ルーヤの母方の実家という商家は、ホルエムヘブの持つ情報ルートと密接な関わりを持っているに違いない。
正式な外交ルートがなくとも、商人達は自分の商いのために必要な情報を手に入れる努力は欠かさないものだ。
ホルエムヘブの形式に拘らず実益を得ることに重きを置いたやり方は、目端の利く商人達の思惑に相通ずるものがある。
「この色目といい、私の好みによく合って嬉しく思いますよ。」
素直に謝辞を述べたムトネドイェメトにルーヤもほっと胸を撫で下ろした。
だが、同時に緊張感が必要以上にほぐれたともいえる。
「それはもう、ムトネドイェメト様のことでしたら常日頃から・・・サトラーから、聞かされてますから。」
軽く話し出した途中から、ふいに言葉に詰まったルーヤをムトネドイェメトは怒る風でもなく、そのまま聞き流した。
「サトラーとも仲が良いのですね。」
にっこりサトラーに向けられた笑顔は、向けられた当人に冷や汗をかかせたが、それ以上の話には至らなかった。
ただ、ムトネドイェメトは、またひとつホルエムヘブに借りができたことを感じていた。
しかし、それを追求するより先にムトネドイェメトには為さねばならないことがある。
何より、テーベへ戻る時間が差し迫っていた。
サトラーはルーヤとともに、もう一度入念にムトネドイェメトの着付け具合を確かめると、外で待ちくたびれているであろうラムセスのもとへ出立の知らせを告げに走った。

女の、ましてやムトネドイェメトほどの女性の着替えにどれほどの時間がかかるものかラムセスには知る余地もない。
ウアブともどもいい加減待ちくたびれたところへようやくサトラーが戻ってきた。
「まったく、このまま一夜を明かすのかと思ったぜ。」
「仕方ないでしょ。でも、確かにいつものムトネドイェメトらしくないほど着替えに時間が掛かったのは事実ね。いつもはもっと簡略してさっさとお着替えになるもの。」
今回の着替えはサトラーですら思わず首を傾げたくなるほどに入念に、また時間をかけたものだったのだ。
「やはりサトラーでも疑問に思いましたか。」
「ムトネドイェメト様!」
ムトネドイェメトはルーヤを従えて裾捌きも鮮やかに姿を現した。
「いつもの私らしからぬと思うのも無理ありません。でも、これから新ファラオと対峙せねばならないのです。用意周到な上にもより一層入念であることが必要なのですよ。」
はっきりと言いきったムトネドイェメトにサトラーは勿論のこと、ラムセスですら驚きに立ちすくんだ。
「新ファラオと・・・対峙?」
サトラーはごくりと唾を呑み込んだ。
「後宮に戻るとは、そういうことです。」
言われてみれば、全く持ってそのとおりなのだが、サトラーにはまだ実感として湧いてこなかった。
「ルーヤ、これより先は、送るに及びません。・・・用意してくれたものだけで十分です。」
「しかし・・・。」
「あなたはここでライアを迎えてあげなさい。彼の隊もここに立ち寄るのでしょう?その時、あなたがいるのといないのとでは、志気のありようが全然違うのではありませんか?」
「申し訳ございません。」
「何を謝っているの?」
クスクスとムトネドイェメトが笑う声に、ルーヤはただ赤面するばかりであった。
訳がわからないとふたりの会話を見ているサトラーとラムセスに、ムトネドイェメトは改めて出発を急がせた。
「夜明け前までにはテーベへ戻らねばなりません。太陽神ラーの見えるときに全てを決するのが理想でしょうね。」
思わずラムセスは頭を抱えそうになった。
ここから先はムトネドイェメトとサトラーは馬ではなく、ルーヤが用意してくれた輿に従っての旅になるのだ。
「・・・あの輿を担いで、あの距離を走れってことかよ・・・。」
「よしなに頼みましたよ、ラムセス。」
「ま、そういうことだから、よろしくね。」
ラムセスの複雑な表情を尻目に、ムトネドイェメトに続きサトラーもまた輿に乗り込んだ。
「これより、テーベへ出発する。」
大きく深呼吸をひとつして、ラムセスは一行に出発の合図を送ったのだった。