砂漠の果てに

勝ちて帰れ(7)

夜明け前の最も気温が下がる時、ムトネドイェメトは、ラムセスを護衛としてテーベに帰還した。
「テーベの城門封鎖は、ラムセスの思惑どおりにアメン神殿の僧兵が動いたようですね。」
「ありがたいことにな。だが、これでは俺たちもテーベに入れない。」
固く閉ざされた城門を前にラムセスは進行を中止した。
「サトラー、ここはあなたに任せます。」
ムトネドイェメトの呼びかけにサトラーは、心得ましたとばかりに輿から降りると、用意してあったひと抱えほどもある箱を持って城門を守る僧兵の元に出向いていった。
「あの箱は確かルーヤが・・・。」
「そう、ルーヤから預かったアメン神へのお布施です。」
「お布施ねえ。」
こともなげに答えたムトネドイェメトにラムセスは小さく肩をすくめた。
あのお布施とサトラーの持つ「アメン神に仕える巫女」の肩書きは、さぞ効力を発揮することだろう。
案の定、サトラーはほどなく吉報を持って戻ってきた。
一旦、城下に入ってしまえば、あとはラムセスの領域である。
王宮警護の肩書きをここぞとばかりに誇示して、ラムセスは速やかに戒厳令の敷かれている町並みを抜け、ムトネドイェメトとサトラーを王宮へ送り届けたのだった。

エジプト王宮は、ヒッタイト襲撃の知らせを受けた文官、武官が右往左往して混乱のるつぼと化していた。
その混乱した中をムトネドイェメトは巧みに立ち回って、短時間のうちに正確な情報を次々と手にしている。
その影には、これまでムトネドイェメトが何かと心を砕いて、女官長ネリアの信頼を得ていたことが大きく寄与していた。
ムトネドイェメトは後宮に戻ると真っ先にネリアの元に訪れ、今後のための話し合いの場を持ったのだ。
夜明け前の非常識とも言える時間の訪問は、平時であれば門前払いを喰らってしかるべきものだが、今はヒッタイト奇襲の報に王宮上げて混乱している最中である。
ムトネドイェメトは誰もが知りたがっている情報を土産にすることで、ネリアの関心を引いたのだ。
彼女が実際に見聞きした部分はごく僅かだが、その後のラムセス達の動きから正確な状況を掴むことはそれほど困難ではなかった。
だが、ムトネドイェメトの話は、ラムセス達のことは一切触れず、ひたすらにアメン神官の手際の良さを褒め称えることから始まった。
「それならば、むしろ褒め称えられるべきは神官長殿でございましょう。」
話を聞いたネリアは、あたりさわりのない範囲で相槌を打っていた。
それを、より積極的な行動に移させるよう心境に変化を起こさせたのはムトネドイェメトの話法の巧みさにある。
「確かに、非常の報を受け、素早く行動に移された神官の方々には敬服致しますが、そこまでに至る知らせを寄越したのは、これに控えますサトラーでございます。」
ムトネドイェメトに促され、サトラーは面を上げてネリアに見えた。
「その巫女の顔には見覚えがある。確か・・・。」
「はい、ネリア様のご指導をいただき後宮に仕えさせていただいております。」
サトラーは言葉少なに控え、ムトネドイェメトがあとを引き受けた。
「サトラーは、常日頃から、ネリア様がどのように行動すべきかお教えくださっていたからこそ、いたずらに時間を過ごすことなくこの度の行動に移れたのでございます。それは、私にしても同じ事。かつて故国が滅びた時、逃げる術しか持たなかった私と違い、ネリア様のお教えを受けたサトラーは知らせるべき場所へ向かい、エジプトを守ることができたのでございます。」
実際、サトラーが向かったのは国境警備隊のライアの元であり、アメン神官に知らせを寄越したのは王宮警護のラムセスだったが、どちらも「兵士」というひとくくりでしか見ていないネリアにはどうでもよいことであった。
彼女が理解したのは、ヒッタイト兵と遭遇したサトラーが、兵士を通してアメン神官に知らせ、結果としてテーベが大事に至らなかったということである。
そしてその根底にあったのは、ネリアの後宮における教育がよい結果を生み出したということなのだ。
「それでも、結局のところ、手柄を立てたのはアメン神官。私などの出る幕ではない。」
「そうでしょうか?」
ムトネドイェメトはやんわりと言葉を返した。
「このところ、私どもの外出には、ことのほかネブ神官長が目くじらを立てて反対なさいます。この度、私がサトラーを伴って外出できたのは、ネリア様の格別のお許しがあったからです。もしも、ネリア様からお許しをいただけなければ、私の外出はままならず、ヒッタイト奇襲の大事を知らせることはできなかったでしょう。ネリア様のご英断があって、初めて為しえたことではありませんか。」
「アメン神を拝礼することはファラオのご意志に適うこと。ネブ神官長の意向など、伺うに足りぬ。」
後宮のことに何かと口を挟むようになったネブを忌々しく思い始めた矢先だけに、ムトネドイェメトの言葉はネリアの注意を大きく引いた。
「もしや、この度のことは、新ファラオにはアメン神の加護ありとのお告げが具現化したものではないでしょうか?」
ここぞとばかりにムトネドイェメトはわざと声を潜めて申し出た。
「ファラオへのアメン神の加護とな?」
「はい。私には、アイ殿をファラオとするエジプトは、ヒッタイトなど恐るるに足らぬとアメン神が意思表示されたのだと思えてならないのです。それを、これに控える巫女に具体的な形でお伝えになられたのではないでしょうか。そうでなくして、あの広く果てしない砂漠で私どものように不案内な者がヒッタイト兵と見えるなど、偶然にしてはできすぎていると思われませぬか?」
「アメン神からのお告げなら、神官長を通じてあってしかるべきものであろう?」
「そうしたくとも受け入れる側に問題があったらいかがなさいます?」
ムトネドイェメトは、挑むような目でネリアに望んだ。
「アメン神のお告げは、元々、ファラオとその妻にあるべきが筋。それを代弁するのがアメン神官と伺っております。が、アンケスエンアメン王妃様と神官長殿は、あまり懇意ではないと聞き及んでおります。その点、神官の資格をお持ちのネリア様はアンケスエンアメン様からの信頼も厚く、事実をそのまま伝えるに相応しいと思われたのではないでしょうか。」
新ファラオ、アイの政権下においてネブ神官長に遅れをとっている女官長ネリアがこの発言を利用しない手はなかった。
それまで受け身に聞いていたネリアは、その瞬間から、攻勢にでるべく行動を開始したのだ。
「ムトネドイェメト様、お疲れのところ申し訳ございませんが、これより私とともにアンケスエンアメン様にその事実を奏してもらえませぬか?むろん、サトラー、その方も証人として随行しなさい。」
「私のような若輩者が王妃様に見えるなど、空恐ろしゅうございます。」
一度は断ったものの、ネリアは再三に渡ってサトラーに同行を促した。
「アメン神の信託を受け、直接に行動した者がいなくては話ができぬ。」
ネリアは早々にアンケスエンアメンに面会を申し込むための使いを送り、侍女を急かして支度を整え始めた。
「サトラーの見た通りを話せばよいのです。」
ムトネドイェメトの意味深な視線を受け、サトラーはことのほか自信なげに頷いた。
支度の整ったネリアに従い、謁見の間に向かうムトネドイェメトの前に、まだ太陽はその姿を見せてはいない。

王宮の広間では、アイを囲んでヒッタイト迎撃とテーベ封鎖による功労の恩賞を軍部と神官とが互いに主張して、言い争いのまっただ中であった。
実行部隊はそれぞれの主張するとおりだから、アイがそこに割ってはいるべき理由がない。
ファラオに指名された地点で、アイは人の身分を捨て、今は無位無冠である。
故に、アイは完全に蚊帳の外で、軍部と神官の言い争う様を遠巻きにみつめているだけだった。
これなら、「神の父」として執政に与っていた時の方がまだマシなくらいである。
ファラオに指名されただけでは、宮廷における地位に何の足しにもならぬことをアイはに身に染みて感じていた。
何より、この場に王位継承者たるアンケスエンアメンの姿のないことがアイの立場を弱くしていた。
彼女がいれば、その代弁者として、この場における発言権を強力なものとできるのだが、アイを嫌っている王妃は、めったなことでは政の場に姿を現そうとしなかった。
その時、ふいにアイを取り巻く人の輪に割れ目ができ、華やかな一行が出現した。
「アンケスエンアメン様!」
とっさに平伏する人々の間を第一王妃の正装をしたアンケスエンアメンがまっすぐにアイを目指してやってくる。
その後ろに、ネリア女官長とムトネドイェメトの姿を見出した時、アイはいいようのない敗北感に襲われた。
ネリアは後宮にあってアイの信頼するネブと何かと対立している者であり、ムトネドイェメトは軍部、それもアイの宿敵たるホルエムエブヘブ側に立つものと認識されている。
無機質な表情のまま、アンケスエンアメンはアイの前に立った。
慌てて立ち上がり、礼を取ろうとしたアイをアンケスエンアメンは片手で制すると、居並ぶ者達が目を見張るような行動に出た。
アンケスエンアメンの方からアイに礼を取ったのである。
それにネリアとムトネドイェメトが続く。
重臣達が固唾を呑み、反応を返すまでの間で、ムトネドイェメトはその場の状況を完全に把握した。

アイに礼を取ったアンケスエンアメンは無言で玉座に着いた。
それを見切ってから、ムトネドイェメトはネリアに黙礼し、アイとアンケスエンアメンの前に進み出た。
この場にあって、まだムトネドイェメトは異国からの招かれざる客に類されている。
大臣達の冷ややかな視線が一斉にムトネドイェメトに向けられた。
しかし、ムトネドイェメトは臆することなくもう一歩アイの前に進み出ると恭しく礼を取り、堂々と思うところを言上したのだ。
「この度のアメン神の加護により、ヒッタイト襲撃からこの国をお守りになった新ファラオ・アイ殿に対し、謹んでお祝い申し上げます。」
ムトネドイェメトのよく通る声が響くと、それまでざわめいていたその場が水を打ったかのように静まりかえった。
招かれざる客の発言ではあるが、内容たるや、アイにとって極めて重要な意味をもつものであったのだ。
「エジプトへの侵略を試みたヒッタイト軍は、ライア率いる国境警備隊によってあっけなく討ち滅ぼされました。これは新しくファラオとなられるアイ殿の前途を祝しての、アメン神の加護の賜にございます。」
よどみなく続くムトネドイェメトの言葉に、ネブ神官長の声が飛んだ。
「国境警備兵といえば、国を守るのが任務のはず。当然のことをしたまでではないか。」
睨み付けたネブに、ムトネドイェメトは極めて冷静に言い返した。
「私達がアメン・ラー神に祈りを捧げている時、ヒッタイトが砂漠を越えてくるとのお告げがあったのです。そのお告げに従い、国境警備隊とアメン神殿に急を知らせたのは、ここに控えおりますアメン神に仕える巫女でございます。その知らせにより、国境警備の兵がヒッタイトの奇襲部隊を迎撃し、アメン神殿の僧侶達もまた王都テーベを危機から守ったのでございましょう?いずれもお告げを受けた巫女の知らせが功を奏してのこと。エジプト兵や僧兵の手柄などでは断じてございません。全てはアメン神の加護を受けた新ファラオ、アイ殿に帰するものでございます。」
「・・・我にアメン神の加護があると申すのか?」
あまりにも意外なムトネドイェメトの発言に、さすがのアイもすぐには応えることができなかった。
続いてムトネドイェメトは、アンケスエンアメンにも祝福の言葉を述べた。
「アメン神の妻たる第一王妃様の判断に間違いはございませんでした。新ファラオにアイ殿を御指名された王妃様に心より敬服致します。」
ムトネドイェメトは、王妃の選んだ新ファラオにアメン神の加護があったから成し得た勝利という趣旨を持って言葉を結んだのである。
その論法からいけば、ヒッタイト兵による奇襲を防ぎ、テーベを外敵から守った最大の功労者は、神の加護を受けたファラオということになり、軍を預かるホルエムヘブもアメン神官を統括するネブもともに出る幕などありはしない。
アンケスエンアメンから新ファラオに指名されたとはいえ、まだアイは正式にファラオに即位したわけではなかった。
それだけに、自らの即位をアメン神が祝福して外敵からエジプトを守らしめたというムトネドイェメトの発言は、自己の地位を正当化するに非常に都合の良いものであったのだ。

ムトネドイェメトの整然とした論法に誰もが反論すべき理由を見出せず言葉を失っていた。
その中でいち早く反論を返したのは、アメン神官長ネブだった。
「そのような、我の預かり知らぬお告げを鵜呑みにされるとは、神の代理人たる王妃様にあるまじきことでございますぞ。そもそも異国のお方にアメン神のお告げがあろうはずがございません。」
「なぜ、そう言い切れる?」
ネブに反論したのは、意外にも女官長ネリアだった。
「お忘れか。ムトネドイェメト様は先の第一王妃様の妹にして、現王妃アンケスエンアメン様の叔母にあたるお方ぞ。更に先々代のティイ王妃様の血をも引いておられる。王妃様に近しいお方とアメン神が認めてお告げがあったとて、何の不思議があろうや?」
アンケスエンアメンがうやむやにしてきたこともあり、それまで誰もムトネドイェメトの血筋に注意を払う者はいなかったが、ここに置いてにわかにその系統が注目を浴びることになった。
アイにしてみても、王妃に近しい者がアメン神の巫女を通してお告げを受けたという方が外部に対して説得力を持つ。
ファラオの地位をより強固にするためにも、王家の血に近しい者が身の回りに増えることは好ましいことであった。
アイは政治上におけるムトネドイェメトの利用価値をこの時はっきりと見出したのだ。
そしてその瞬間から、ムトネドイェメトを異国の王女としてではなく、アンケスエンアメンに次ぐ王家に連なる者として遇することに決めた。
事態はムトネドイェメトが思っていたより遙かに彼女に有利に進んでいった。
事の発端となったムトネドイェメトの外出すらも、潔斎中の王妃に代わってアメン神ラーに祈りを捧げに出たことにすり替えられてしまったのだ。
もはや、ムトネドイェメトが第一王妃アンケスエンアメンに最も近しい者としてアメン神のお告げを受けたことに異議を唱える者はなく、全ての功労は新ファラオに帰するとして決着をみたのである。

ムトネドイェメトは、自分に都合良く事が進んだからと言って、その場に長く留まるようなことはしなかった。
一旦、王宮における地位が認められたからには、このまま政治に参画することはやぶさかではないが、急激な変化を感情において受け止め兼ねている古くからの貴族達がいることもまた事実である。
ムトネドイェメトは疲れを理由に、早々にその場を辞することにした。
実際、彼女は疲れていたし、自分の身の振り方について、ゆっくり考える時間も欲しかったのだ。
「お待ちくださいませ、ムトネドイェメト様。」
足早に退出していくムトネドイェメトのあとを慌ててネリアが追ってくる。
後宮を預かる女官長として、彼女はムトネドイェメトに、その身分に相応しい処遇を整えなければならないことに気が付き追ってきたのだった。
ネリアの呼び声を耳に止め、ムトネドイェメトは庭へと続く回廊に出たところで立ち止まった。
折しも、東の空から朝の太陽がその光を惜しみなく王宮に注ぎはじめたところだった。
新たな光がムトネドイェメトに降り注ぎ、神々しいまでにその姿を映しだしている。
不変の象徴たる黄金色の輝きがムトネドイェメトの全身を覆っていた。
「・・・ムト・・・。」
ネリアの呟きにムトネドイェメトは怪訝な表情で振り返った。
このエジプトでは、アンケスエンアメンしか呼ぶことのない彼女の愛称を何故ネリアが知っているのか?
ムトネドイェメトの視線を受けて、ネリアは畏まった。
「失礼致しました。テーベでは、禿鷲のことを、そう申しあげるものですから。」
そのあとに続くアンケスエンアメンをどこかはばかるような響きを持った言葉だった。
しかし、アンケスエンアメンには関心のない話しらしく、彼女はそのままムトネドイェメトを追い越して後宮へ戻っていった。
アンケスエンアメンに遅れて後宮に戻ったムトネドイェメトは、それまで使っていた部屋とは違う部屋に案内された。
「お部屋の用意が調うまで、しばらくはこちらを控えの間としてお休みくださいませ。」
ネリアは選りすぐりの侍女をムトネドイェメトの側に残すと、サトラーを急かしてこれからの段取りにかかった。
その最中、足早に回廊を行くおり、ネリアはサトラーに並ぶと、かつてなく厳しい口調で言い渡した。
「先ほどのこと、決して口外するでないぞ。」
「心得ております。」
間髪入れずにサトラーは畏まった。
仮にもサトラーはアメン神の巫女である。
「ムト」がテーベのアシェリの貴婦人にしてアメンの配偶者、即ち偉大なる神聖母の名を意味することにすぐ気が付いたのだ。
同時に神々の系列に置いて、全ての神々の后と遇されていることも知識として持っていた。
だが、ただいまのエジプトにおけるアメン神の妻は、アンケスエンアメンであり、彼女が唯一の王位継承者なのだ。
ネリアに言われなくとも、そのくらいの分別は十分わきまえている。
サトラーは、あのネリアをしてそこまで言わしめたムトネドイェメトに、改めて畏怖の念を深くするのだった。

時は満ち、ツタンカーメン王の葬儀の日がやってきた。
それは同時に次代の王アイの即位する日でもある。
アイは定められた手順に従ってツタンカーメンの葬儀を滞りなく執り行い、続いて自らの即位を宣言した。
王位継承権を持つ唯一の王女アンケスエンアメンとの婚姻により、アイは正式にファラオの地位を手に入れたのだ。
新ファラオ夫妻の祝賀を受けるすぐ下位にムトネドイェメトの席がある。
皮肉なことに外政に全く興味を持たないアイの治世下で、ミタンニ王国王女ムトネドイェメトは、第一王妃アンケスエンアメンに最も近しい者として、エジプト王宮に居を構えることとなったのである。

第4章「勝ちて帰れ」終了