砂漠の果てに

ロータスを胸に抱いて(1)

アイは外政に興味を示さないファラオである。
即位に際してこそ、神々から加護を受けてヒッタイト帝国軍を撃退したと発表したものの、それ以上に政策を打つつもりはなく、放置している。
即位まではあれほどに忌避していたホルエムヘブですらもはや眼中になく、アイは転がり込んできたファラオの座に満足していた。
アイがこのありさまであったから、当然ホルエムヘブの地位は安泰、彼はこれまでどおりエジプト軍最高司令官の要職にあった。
だが、アメン神官の横行する宮廷では思うような行動が取れるはずもなく、来るべきヒッタイト帝国との戦争に十分な備えをすることのできない苛立ちを抱えていた。
彼にできることは子飼いの将兵達を鍛えるのが精一杯だったのだ。
その中に歩兵隊長に復帰したラムセスの姿があった。
ラムセスはホルエムヘブから引き続き新ファラオの第一王妃アンケスエンアメンの叔母として後宮にあるムトネドイェメトの護衛を命じられていたが、この危機に及んで有能な将兵を王宮に縛り付けていくことの無駄を厭ったムトネドイェメト自身によって、任務を解除されたのだ。
ただ任務を解除しただけではホルエムヘブも納得しないであろうからと、ムトネドイェメトはちゃっかりと後任を同行させてラムセスを兵舎に送り返したのだった。
無論、後任の者がホルエムヘブのお眼鏡に適わなければラムセスの任務解除もありえないことを承知の上での行動である。
果たして、後任者がラムセスから引き継ぎを受けるまでに当事者達の間ではひと騒動あった。

ホルエムヘブは、今のエジプト軍ではヒッタイト帝国軍とまともにやりあえるほどの戦力がないことを誰よりもよく知っていた。
時代は青銅器から鉄器への過度期にあり、エジプトはその技術面においてヒッタイトに完全に遅れを取っていたのだ。
だが、鉄はまだまだ貴重品であり、知識を持っているだけでは量産できるほどの技術が追いつかない。
ヒッタイト帝国軍で鉄の武器が広く普及するまでの間は、戦術で切り抜けられる。
故に、ホルエムヘブは新兵ではなく、熟練した兵士を多く必要としていた。
そこへ予想外のラムセスの帰還である。
ひとつの部隊をまかせることのできる将兵の復帰は、エジプト軍の戦力を大いに増強する。
だが、ムトネドイェメトから一方的に解除されたとあっては、すんなりと受け入れるわけにもいかなかった。
そこで大義名分の使者となったのが後任者への引き継ぎをホルエムヘブが認めるということであった。
ラムセスの後ろに控えていたムトネドイェメト推薦の後任者にホルエムヘブは鋭い視線を向けた。
「ムトネドイェメト様に仕える後宮の女官にしてアメン神の巫女、サトラーにございます。」
後宮に仕える女官らしく洗練された挨拶をして進み出たサトラーをホルエムヘブは同じく王宮の儀礼でもって対面した。
これまでムトネドイェメトがホルエムヘブと会う場に居合わせたことは幾度となくあるが、サトラーが単独でホルエムヘブと正面切って会うのは、これが初めてのことである。
かつてカルナク神殿に入信した時も、彼から直接に命を受けたわけではなかったからだ。
緊張した面持ちでサトラーはムトネドイェメトからの口上をホルエムヘブに告げた。
「では、今日からはそなたがラムセスの代わりを務めるというのだな。」
眉ひとつ動かさず、ホルエムヘブはサトラーに問うた。
「左様でございます。」
「そうか。」
ホルエムヘブは意外なほどあっさりとサトラーを認めた。
「ありがとうございます。」
サトラーはそのまま礼を言って立ち上がった。
薄様のドレスのひだがサトラーの動きに合わせて優雅に揺れる。
と、その時、ホルエムヘブが動いた。
「あっ!」
ラムセスが息を呑んだのと、ホルエムヘブが剣に手を置いたのはほぼ同時だった。
そしてホルエムヘブはそのままサトラーに向かって一歩踏み込み、剣を抜いたのである。
サトラーめがけて抜き身の剣がその刃を振りかざした。
ふたりの間は接近しており、いかにサトラーが身軽といえど避けるだけのゆとりはなかったはずだ。
とっさにラムセスも剣を抜いたが、それより前に鋼の砕ける音が響き渡った。
同時に砕け散った青銅の欠片が間一髪でラムセスの頬を掠めていった。
だが、目前のサトラーはそのままホルエムヘブと向き合ったままである。
彼女の手には小刀が握られており、それがホルエムヘブの剣を砕いていたのだ。
「将軍の剣が小刀に・・・?」
信じられない光景にラムセスは呆然となった。
「ほう、そう来たか。」
対照的にホルエムヘブは細く笑んだのである。
「ムトネドイェメト様から、お預かりして参りました。」
わずか一太刀を受け止めただけだが、明らかにサトラーの息は上がっている。
「なるほどな。それなりに腕も鍛えたか。」
サトラーの弓の腕前のほどはライアから聞いて知っていたが、剣術の方はどうにか扱える程度だと報告を受けていたので、どの程度の判断力を身につけているのかホルエムヘブは試したのだ。
避けれないなら、全力で食い止める。
ただし、それは持っている剣が相手と同等以上の材質であることが前提条件になる。
ムトネドイェメトはそれを見越してサトラーに自分の持つ鉄剣を持たせたのだ。
更にホルエムヘブはサトラーの構えから、彼女の剣術を仕込んだのが他ならぬムトネドイェメトであることも読みとっていた。
サトラーにはそれなりの実力を備えさせ、ムトネドイェメト自身も鍛錬を怠っていないとのメッセージを同時に受け取ったのである。
「ラムセス。」
「はっ。」
「これより、歩兵隊の訓練を任せる。」
ホルエムヘブは砕けた剣を脇に追いやると、ラムセスに旧任務への復帰を命じた。
「ありがとうございます。」
喜びに顔を輝かせたラムセスをそのままに、ホルエムヘブは外出する様子を見せた。
「どちらへ?」
「後宮だ。」
短く答えたホルエムヘブに慌ててサトラーが付いていこうとしたが、彼は笑って押し留めた。
「その腕、一晩は使い物になるまい。今宵は諦めてラムセスから引き継ぎを受けることだな。」
サトラーの横を通り過ぎるかたわら、ホルエムヘブは彼女の手から鉄剣を取り上げたのだ。
「あ・・・。」
その間、サトラーはホルエムヘブに抵抗することが全くできなかった。
腕が痺れたようで、手そのものも全く自由が効かず、剣を取られるままになっていたのである。
「これは私からムトネドイェメト様へお返ししておく。」
ホルエムヘブの言葉に、サトラーはただ頭を下げるしかなかった。
「将軍、ひとりで王宮へ行かれては・・・。」
「構わぬ。どのみち、お前はもう入るわけにはいかんのだぞ。」
ムトネドイェメトの警護をお役ご免になったラムセスは、もはやホルエムヘブの供をすることは叶わない。
後宮に入れるのは警備を担当する兵士だけなのだ。
上官のいなくなった部屋にいつまでもいるわけにはいかないと、ラムセスはサトラーを促した。
しかし、サトラーは歩き出したラムセスに付いてくる気配がなかった。
彼女は完全に痺れた腕を抱え、ホルエムヘブの剣を真正面から受けた恐怖に今頃になって竦んでいたのである。
「おい、引き継ぎもあるし、いつまでもここにいるわけにはいかないんだぞ。」
「わかってるわよ。」
口だけは相変わらずだが、その青ざめた横顔に、ラムセスはそっと彼女の腕に触れてみた。
「あーあ、完全に筋肉が硬直してら。こりゃ、並のマッサージで治るかどうか。」
「そんな、困るわ!明日からは私が護衛をしなきゃならないんですからね。」
「将軍の剣をまともに受けてそれで済んだんだ。ありがたく思えよな。骨が砕けたって文句は言えないんだぜ。」
「う・・・。」
ラムセスに言われて初めてその危険性を認識し、更にサトラーから血の気が引いていく。
「筋肉の硬直なんて訓練中の兵士にはよくあることだし。ま、一晩あれば何とかなるさ。」
サトラーとは対照的にラムセスは上機嫌である。
すっかり竦んでしまったサトラーの手を引いて、ラムセスは兵舎にある自分の部屋へと戻っていった。
エジプトは束の間の平和に浸っていた。

アメン神の加護によって国は守られていると発表したことでエジプトはひとまずの落ち着きを取り戻した。
だが、もう一方の当事者たるヒッタイト帝国はそれでは収まらない。
彼らにも国としての面子があった。
婚姻を口実に第4皇子を国境へとおびき寄せられた上で無惨にも殺され、その報復に向かった小隊も敢えなく全滅させられたとあっては、それこそ帝国としての面目が丸つぶれではないか。
戦で受けた屈辱は戦で晴らさねばならない。
ヒッタイト帝国軍には、何が何でも戦果をあげなくてはならないという気運が日々高まっていた。
当然のごとく、ヒッタイト帝国は万全を期した戦をエジプトに仕掛けるべく準備を進めはじめた。
その中心となったのは皇太子アルヌワンダと第3皇子ムルシリである。
「下手に焦るからああいう失態を引き起こすんだ。おかげで貴重な戦力を失った。しかも、だ。エジプトの新ファラオには神の守りが付いているなどと余計な噂まで広まる始末だ!」
不満やるせない形相でアルヌワンダはムルシリに怒りをぶつけていた。
「今更過ぎてしまったことを憤っていても仕方ありますまい。少なくともこの失敗は我らの与り知らぬこと。むしろ次の出兵には、皇妃の介入を防ぐ名目が立ったということで吉とすべきでしょう。」
ヒッタイト帝国の現皇妃はバビロニア出身であり、アルヌワンダやムルシリの生母ではなかった。
先のエジプト出兵はアルヌワンダやムルシリとは生さぬ仲である皇妃の意見を入れて皇帝が決断したことだが、元を質せば彼女の故国からの差し金であった。
「確かに、な。だが、この程度でバビロニアが諦めたとは思えぬが。」
「ええ。しかし、わからないのは、なぜこの時期に言い出したか、です。ザナンザのことがあったとはいえ、それについてはこちらが動くことを知らぬはずはありません。」
「皇妃の側近について、少し調べておく必要がありそうだな。誰か有力な者がバビロニアから派遣されているやもしれぬ。このところ形を潜めていたのが急に動き出したのも気に入らぬ。」
御意、とムルシリは頷くと、すぐに手配するべく配下の者を呼び寄せた。
「最近、特にザナンザの凱旋以降、皇妃の傍に変わった動きがないか調べよ。」
上からの命令は更に下へと伝えられ、それぞれに役目を果たすべく散っていった。
「余計なことに時間を割かせたたな。すぐに本題に入ろう。」
戻って再びアルヌワンダとムルシリは同じテーブルに着き、対エジプト戦への兵力について協議しはじめた。
勝つための準備はいくらしてもしすぎるということはないが、あまり時間を掛けすぎても無駄になることをふたりは知っている。
今はザナンザ皇子の弔い合戦という大義名分があるが、それもそう長くは使えない。
戦力が整い次第、速やかにエジプトに戦争を仕掛ける必要があった。
両国がどう取り繕うと、周辺諸国、とりわけ隊商の間では、戦争が起こることが当たり前のように取られていることも、開戦を急ぐ口実になっていたのだ。
自由に諸国を行き来できる隊商の情報は、当然にエジプト側にも知られていることだろう。
今はまだエジプトに大きな動きはないが、政権が落ち着けば、ホルエムヘブが動き出すのは確実だった。
老王アイは恐れるに足らないが、若きホルエムヘブ将軍の噂はヒッタイト帝国にもよく聞こえている。
エジプトに時間を与えてはならないという戒めは、即ち、ホルエムヘブに戦力を整える時間を与えないということなのだ。
「小競り合いだろうと何だろうと構わぬ。間断無くエジプト側を牽制せよ。」
ムルシリの激は特にシリア方面に向かって強調された。
シリアの制覇は、ヒッタイト帝国がオリエントを支配するための第一歩だった。
皇太子アルヌワンダはムルシリの進言を全面的に受け入れ、そのとおりに軍を投入していく。
やがてそれは、国境沿いの小競り合いから、守備を預かる要塞の攻防戦へ、更には都市の侵略と、一旦生じた戦禍は、次々と広がっていった。
エジプトのファラオが好むと好まざるとに関わらず、ヒッタイト帝国との全面戦争へと事態は突入していったのである。