砂漠の果てに

ロータスを胸に抱いて(1)

シリア制覇はヒッタイト帝国皇帝シュッピリウマの積年に及ぶ夢であった。
故にムルシリ皇子の進言を受け入れるまでもなく、エジプト戦にあっては第一にシリアのことを念頭に入れて挑んでいた。
その布石のひとつとして、シュッピリウマはミタンニ王国を懐柔し、自営に取り込んでいたが、信頼していたわけではなかった。
だからこそ、カルケミシュとハレブには息子を統治者として派遣していた。
一方、エジプトに置いてシリアは保護国であり、ミタンニをはじめとする同盟国がヒッタイトに奪われていくのを苦々しく思っていたことは言うまでもない。
ホルエムヘブはエジプト軍をそれなりに鍛え上げることには成功していたが、失われたシリアの土地を奪還できるだけの強力な軍事力を持つまでには至らなかった。
それでも、降りかかってくる火の粉は払わねばならぬ。
ホルエムヘブはヒッタイトの動向を事細かに報告させ、自らが対処にあたっていた。
そして、ついに最も恐れていた報がもたらされた。
シュッピリウマ皇帝自らが軍を率いてシリアへ向かったという知らせである。
「ついに来たか。」
その知らせをホルエムヘブは極めて冷静に受け止めた。
ヒッタイト帝国の皇子ザナンザが砂漠で命を絶たれた時からこの日の来ることは覚悟していたのだ。
「すでにシリア地方の大半はヒッタイトの勢力下にある。だが、勝負はついていない。」
ホルエムヘブは数に置いてエジプト軍がヒッタイト軍に劣ることをここ数日の報告から知っていた。
「確かに数では劣るが・・。」
エジプト軍は兵の数では劣っていたが、各部隊はライアやラムセスといった職業軍人達で構成されている。
それだけに彼らには必勝の思いが強く、士気が高い。
それに引き替えヒッタイト軍の構成は自国の兵より他国からの傭兵が多かった。
士気の高さだけなら、圧倒的にエジプト軍に利があるのだ。
「だが、それだけでは勝てぬ。」
ホルエムヘブは数の持つ重要性もよく理解していた。
「全軍に指令を出せ。」
エジプト軍はホルエムヘブ将軍に率いられ、速やかに出撃していった。

シリアの荒れ果てた平原を挟んでエジプト軍とヒッタイト軍は対峙していた。
既にヒッタイト軍はシリアの大半を占領下に収めることに成功していたが、それでも決定的な勝利を収めるまでには至っていなかった。
シュッピリウマが皇帝親征に踏み切ったのは、自らの手でシリア制覇という偉業を成し遂げたかったこともあるが、その裏にはエジプト軍の弱体化を聞いていたからともいえる。
それだけに、エジプト軍がここまで早く反撃に出てくるとは思っていなかった。
「予想以上に早いではないか。」
咎めるような視線を受けてアルヌワンダは心胆寒からしめた。
無論、同様の思いは彼だけでなく同席しているムルシリも持っていたが、それを顔に表すようなことはしなかった。いや、できなかったのだ。
ムルシリにはこの機会をとらまえて打たねばならぬ策があった。
「確かに早うございます。しかし、彼らにしてみれば当然の措置でございましょう。」
「どういう意味だ?」
「先に奇襲を受けているのです。並の将であれば、その次に来るべきものが何であるか想像するのも容易かろうと存じます。」
ムルシリは殊更に一般論を装って答えた。
「ホルエムヘブは良将としてそれなりに実績を持つ者。この程度の布陣は当然のことと思います。」
「ふむ。あの奇襲そのものが失敗だったと?」
ザナンザ皇子の弔い合戦をするべしとエジプト急襲を進言したのはシュッピリウマの妻、即ちヒッタイトの皇妃であるが、受け入れたのは皇帝自身だ。
言わずもなが、三番目の正妃にしてバビロニア出身の皇妃はアルヌワンダやムルシリの生母ではない。
この場に列席しているバビロニア軍の将校が苦い表情を浮かべたのを見て、アルヌワンダは軽くムルシリに頷いた。
これでバビロニアが今回の戦いにしゃしゃり出てくることはないとの確信を得たからだ。
ムルシリはそれなりの牽制を込めて話題を振ったのだ。
バビロニアさえ押さえておけば、あとの軍を自分の指揮下に収めることはそれほど困難ではなかった。
他の軍はみな皇太子の名を出せば従う友軍ばかりである。
戦いの動向は皇帝の采配に資するが、ただ勝つだけではアルヌワンダの利にはならない。
ムルシリにとって、二重の戦が待ち受けていた。

同様の時刻、エジプト軍においても軍議が開かれていた。
ホルエムヘブの子飼いたる少数精鋭の将校達が最後の詰めを確認しているところである。
その中に、ひときわ目立つ女性の姿があった。
アメン神の巫女たる肩書きを持ちエジプト後宮に仕えるサトラーである。
彼女はムトネドイェメト付きの女官だが、もともとは職業軍人の家庭に育った娘である。
絶対的な兵員数が不足しているエジプト軍には実戦に耐えうる能力保持者は女性であっても貴重な存在であった。
サトラーはその弓の腕を持ってして父の跡を継ぎ弓兵隊の隊長を仰せつかったのである。
彼女をホルエムヘブに起用させるにあたって、ムトネドイェメトも協力を惜しまなかった。
正式に兵となってしまうと女官としての身分を失ってしまうので、アメン神の巫女という肩書きにものを言わせて表向きはエジプト軍に同行する神官という形を取っていた。
しかし、内輪だけの会議にその配慮は無用である。
軍議の席で、サトラーの弓兵隊はラムセスの率いる歩兵隊の後方支援を仰せつかった。
弓兵隊の本隊はサトラーと別に指揮官をいただいている。彼らはホルエムヘブの本隊と行動を共にすることになっていた。
先陣を切るのはライア率いる騎兵隊である。
「我が軍の強みは機動力の軽さだ。もっともそれだけしかないともいえるが。」
戦場はエジプトの国境に近いが、要となる兵力の補給はあまり期待できなかった。
「遠征軍と補給条件が同じになろうとは我ながら情けないものだ。」
それだけに短期決戦で挑まねばエジプト軍に未来はない。この時ホルエムヘブが最も恐れたのは長期に渡る消耗戦であった。

出陣命令を受けて自分の陣営にもどったサトラーは、作戦を徹底するべく小隊長を集めた。
それぞれの役割を明確にしないと貴重な物資を無駄にすることになりかねないため、サトラーは特に布陣位置に慎重だった。
小隊長が集まるのを待つサトラーの前に同じく武装した女性が現れた。
「ムトネドイェメト様。」
本来後宮にいるべき女性ではあるが、ムトネドイェメトの場合は、戦の勝利を祈願するエジプトの王妃の名代としての参加である。
それならばホルエムヘブのいる本陣にあるのが筋だが、激戦になるからと後方の部隊へと強行に連れてこられたところでサトラーと出会ったのだ。
「出陣命令が出たようですね。」
「はい。我が隊はラムセス隊と共同で、右翼の、ミタンニ軍を攻撃します。」
ミタンニというところで少し間を取ったサトラーにムトネドイェメトは口元を引き締めて答えた。
「あれは私の故国などではない。ヒッタイトの属国です。」
ムトネドイェメトの声はどこまでも乾いていた。
やがて出陣前の引き締めを始めたサトラーの邪魔をしないよう、ムトネドイェメトは一歩離れ、戦場が見渡せる高台へ登った。
氷のごとく冷たい眼差しでムトネドイェメトは丘の上に展開しつつあるミタンニ歩兵団に目を向けた。
故国の兵力を値踏みすると言うよりも、どのていどの戦力をあててきたのか見極めるためであった。
今のムトネドイェメトにできる最大の援助がそれなのだ。
遠目ながらも兵力の編成を確認したムトネドイェメトは、思わぬ展開に困惑していた。
「まさか他国の戦争に本国の主力を投入してくるとは。」
ムトネドイェメトの呟きを耳敏く捉えたサトラーはぎょっとなり、出しつつあった出撃命令を一旦中断した。
「ヒッタイトの援軍は、傭兵ではないのですか?」
確認を求めたサトラーにムトネドイェメトは自嘲的な笑みを浮かべて首を振った。
「いいえ。どうやらミタンニに限っては傭兵ではなく、正規軍を当ててきたらしい。」
「冗談じゃありませんわ。」
その瞬間、サトラーはたった今出したばかりの出撃命令を即座に撤回し、新しい命令に切り替えた。
「各隊に命令。直ちに撤退準備をせよ。それから、ラムセスにも撤退命令を!」
「隊長!」
抗議の声をあげた副隊長には構わず、サトラーは矢継ぎ早に撤退する旨の伝令を飛ばした。
ムトネドイェメトはその様子をじっと見つめている。
ひととおり伝令の手配が終わったところで、サトラーはムトネドイェメトの前に立った。
「これより我が隊もここから撤退します。すぐに馬を用意させますからそのつもりでお支度を。」
「戦わずして負けを認めるのですか?」
サトラーは一瞬だけきつい眼差しを向けたが、すぐに冷静な女官の表情にもどって答えを返した。
「あれは、ムトネドイェメト様がミタンニに温存してきた歩兵でございましょう?ということは、陸戦においてはオリエント最強を誇っていたトシュラッタ王のミタンニ歩兵団ということです。」
ラムセスはサトラーにムトネドイェメト護衛の任務を引き継いだ後、ホルエムヘブの方針に従って、エジプト軍の要となる歩兵団の育成に努めてきた。
だが、ラムセスに与えられた時間はあまりにも短く、とてもではないが、歴戦の戦士が集うミタンニ歩兵団に対抗できるほどに鍛錬できなかったのだ。
これが烏合の衆混じりの傭兵相手なら、問題なく対峙できただろうが、今回は相手が悪過ぎる。
サトラーは凍った眼差しで撤退の用意を急がせた。
「ラムセスの援護には向かわないのですか?」
ムトネドイェメトの問いにサトラーは悔しそうに拳を握りしめて答えた。
「機動力が追いつきません。もともと後方からの援護が主体の部隊です。」
サトラーの言うとおり、弓による遠距離攻撃で援護はできても、その後が続かないのだ。
ラムセスの歩兵は身軽に動けるが、弓を抱えた兵士とでは移動速度に歴然の差が出てしまう。
同時に撤退したのでは足手まといになってしまうのだ。
「随分消極的なのですね。」
「このまま参戦したところで、却って足手まといになるだけです。それでも打って出ろと仰せですか?」
サトラーとしては歯痒い限りなのだろうが、具体的な策のないままに猪突猛進するほど愚ではないらしい。
また、それだけの冷静な判断が下せることを認められて今回の抜擢があったこともサトラーはよく承知していた。
戦には勝たねばならぬ。だが、無用の戦に参戦していたずらに戦力を失っては元も子もないのだ。
しかし、答えながらサトラーは妙に期待している自分に気が付いた。

ムトネドイェメトは立ち上がると、左手に見える平原を指差した。
「歩兵がこの方向ということは、戦車隊が潜んでいるのはあのあたりになるでしょう。戦車は馬によって走るもの。そしてエジプト軍を待ち伏せするのなら、彼らの注意は当然目前の平原に向けられているはず。」
「ラムセスの歩兵隊を囮に我が軍は戦車隊を攻撃するんですね。」
短絡的に答えたあとでサトラーは首を捻った。
エジプト軍の布陣はそれほど奇をてらったものではないから、どこにどの部隊がいるかヒッタイト軍の良識ある将軍なら大まかながらでも予測できる。
当然ヒッタイト軍では、エジプト軍の弓兵隊の行動も万が一も含めて予想して作戦を立てているはずだ。
「サトラーの弓兵隊はあくまで援護が主体。だからこそ、待ち伏せして攻撃するには打って付けでしょう?」
さすがにそこまで言われるとサトラーにもムトネドイェメトの考えが読めた。
積極的に打って出るのではなく、あくまで味方が撤退するのを援護するのが目的の布陣なのである。
まさか弓兵隊が予定していた戦場を早々に放棄して撤退のための援護体制に移行するとは思ってないだろうから、今ならそれを逆手に取って待ち伏せする布陣が敷けるというわけだ。
「ただし、ラムセスも早々に撤退してくれなくてはこちらが思うとおりの攻撃ができません。」
「その点でしたら、大丈夫です。そのために伝令を出したのですから。」
「随分と自信があるみたいですね。」
「相手がミタンニの正規軍で鉄器を持ってるぞって伝えたんです。それが一番効果的でしょう。」
嘘でもこの際大げさに言った方がいいですからと笑ったサトラーにムトネドイェメトの表情が固まった。
「私としたことが・・・その可能性を考えてなかったとは。迂闊でした。」
「ムトネドイェメト様?」
「サトラーの伝令は、真実になるかもしれません。」
「どういう意味でしょう?」
「ミタンニの兵に与えられた武器が、もしも鉄器だとしたらということです。」
「まさか。だって鉄は貴重品です。王族の近衛隊長あたりならともかく、一介の兵士にまで鉄器を与えるなんて無理です。第一、ミタンニは、ヒッタイトの属国だと、他ならぬムトネドイェメト様がおっしゃったのですよ。」
「だから、です。」
サトラーはムトネドイェメトの言っている意味がわからず次の言葉を待った。
「少数精鋭を持ってあたるのは、我が軍だけではないということです。」
「あ!!」
「この戦い、早く引かねば、本当にあとがなくなります。」
「ラムセスにもう一度伝令!ミタンニと戦っては駄目だと念押しして。それから、ライアに援護を要請!」
矢継ぎ早に命令を出し、サトラーは自ら撤退の指揮を取った。