砂漠の果てに

ロータスを胸に抱いて(3)

エジプト軍の本陣でホルエムヘブは右翼を任せたはずのラムセス・サトラーの両部隊が戦闘開始と同時に撤退を始めたと聞き、一瞬耳を疑った。
「どういうことだ?」
ホルエムヘブの詰問に答えれる者はなく、その場に控えた将軍達もただ互いの顔を見合わせるだけだった。
「具体的にはどういう命令で撤退を始めた?」
冷ややかな声に伝令の使者は舌先を凍り付かせながらもサトラーがラムセスの部隊へ向けて放った伝言を繰り返した。

ミタンニ軍は一兵卒に至るまで鉄剣を支給されている。

その場に居合わせた者全てが呆気に取られ、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの雰囲気に包まれた。
「鉄器はヒッタイトの専売品であり、非常に高価な物ですぞ。正規軍とはいえ属国の軍に支給するなど考えられません。」
だが、ホルエムヘブの反応は異なった。
彼の鋭利な頭脳は自軍の布陣とこれまでもたらされたヒッタイト軍との構成を対比させ、それが決してあり得ない選択ではないという可能性に行き当たったのだ。
同等の戦力で戦闘を行った場合、指揮官の優劣と一瞬の判断力の差が勝敗を決める。
今、ホルエムヘブは自分がその瞬間に置かれていることに気が付いた。
このままの布陣でも負けない自信はある。
たとえ右翼が崩れても本陣は健在であり、ヒッタイト軍を防ぐだけの兵力は備えている。
何より主力ともいえるライアの騎兵隊が左翼に展開しており、この戦場で最も有利な場所を押さえているのだ。
ここを抜かれない限り、エジプトは国境を死守できる。
「だが。」とホルエムヘブは静かに結論を下した。
エジプト軍の所持する青銅の武器がいかに優れていようとも、ヒッタイトの鉄器には到底太刀打ちできない。
青銅の武器を砕かれ、丸腰となったエジプトの兵をヒッタイト軍が殲滅させるのは造作もないことであった。
「ラムセスの軍を失っては後がない。」
戦況は指揮官の采配に左右されるが、戦闘は指揮官だけではできないのだ。
「だからといって、ヒッタイトに我が国境は抜けさせぬ。」
ホルエムヘブは命令を下した。
「ライアをラムセスの援護に向かわせろ。左翼の援護には私が入る。」
ホルエムヘブの本陣の動きがにわかに慌ただしくなり、エジプト軍は全軍を挙げての戦闘隊形を展開していった。

右翼に展開するかに見えたエジプト軍の予想だに早い撤退は、少なからずヒッタイトの首脳陣に困惑をもたらした。
「あれでは戦わずして負けを認めるようなものだぞ?」
皇太子アルヌワンダは傍らのムルシリに聞くともなしに尋ねていた。
「さすがはエジプト、というべきでしょう。確かな戦況を見る目は健在とみえる。」
感嘆と失笑の入り交じった答えにアルヌワンダもふむ、と頷いた。
「右翼を預かるのは、ラムセスなる若い将軍と聞いたが、なかなか、どうして。たいした判断力です。いくら機動力のある部隊とはいえ、戦闘開始と同時に動いたのでなければあそこまで早く撤収することはできないはずですから。」
「なぜ撤退したと思う?」
「正確な情報と正しい判断力を持っていたからでしょう。」
ムルシリは即答した。援軍であるミタンニ軍の精鋭部隊に鉄器の支給を決めたのは他ならぬ自分だが、その背景には、例え戦力的に不利な立場に置かれても、敵前逃亡を図ることを潔しとしないエジプト軍の風潮を利用した向きがある。
それを覆しての撤退は、鉄器と青銅器では端から勝負にならないことを真に理解していなければできない判断だ。
だが、ムルシリが真に感嘆したのは、その潔しとしない命令を整然と受け入れるだけの軍をラムセスが作り上げたことにあった。
「あの若さで、あの命令を徹底させるとは、実に大したものです。」
しかし、感心してばかりもいられない。ムルシリはその対抗策を講じねばならなくなったのだ。
「ミタンニに伝令。深追いは禁物だ。おそらく撤退と同時に伏兵も配しているはずだからな。生きて帰りたければ、今は決してエジプトの国境を越えてはならぬ。」
ムルシリの命令は直ちに自軍とミタンニ軍へと伝えられた。

早すぎるラムセス軍の撤退は、的確なるホルエムヘブの判断と迅速なるライア軍の援護とでミタンニ・ヒッタイト両軍と大きな戦闘をすることなく成功した。
「左翼にホルエムヘブ将軍をもってきちまった。」
改めて布陣を確認したラムセスは思わず頭を抱えてしまった。
いったいどこに総大将を前線に送り出して後方で安穏と控えている部下がいるだろうか?
「でも、ヒッタイトも動きませんね。」
撤退が完了する前に、皇帝親政軍が一時期国境を越えたという情報も流れてきたが、ライアの集中攻撃を受けて退却し、結局両者は睨み合ったままで戦況に変化は見られない。
見方によっては、ホルエムヘブが左翼を固めたことにより、ヒッタイトもそれ以上の進軍を慎重にせざるを得なくなったともいえる。
布陣が完成された今となってはうかつに動くわけにもいかず、ラムセスは不本意ながらも後衛を固めることに専念した。
そうなると今度はムトネドイェメトの処遇が問題となる。
「一番いいのはサトラー共々テーベに戻ってもらうことだが。」
それが困難なことはラムセスが一番よく知っている。ヒッタイトとの直接対決のチャンスを安全なところから眺めているような大人しい女性達ではないのだ。
しかし、ラムセスの願いは意外なところから叶えられることとなった。

それはごくありきたりの小さな前哨戦だった。
たまたま遭遇したのがラムセスの小隊で、ムトネドイェメトとサトラーが加わっていたのもいつもの成り行きからであった。
戦闘そのものは特に苦戦するような類でもなく、ごく普通に戦ってラムセスはヒッタイトの哨戒を追い払った。
戦いの後に残ったのは閑散とした廃墟だが、それはこの戦いの以前からのものであり、ラムセスは時に注意を払っていなかった。
「このあたりにも村があったのですか?」
戦後にムトネドイェメトが尋ねたのもごく普通の会話の流れからであり、特に意識してのものではなかった。
「ああ。昔はそれなりに交易を生業として栄えていたらしいが、度重なる戦闘ですっかり寂れてしまったらしい。」
「でも、交易で栄えていたなら、それなりに配慮したでしょう?」
大陸間の交易による利益は国の財政を潤すための必要不可欠な存在である。
「だからメンフィスに引き上げさせた。彼らの大半は、いつかここに帰れる日を待ってる。」
「テーベに劣らずメンフィスが栄えているのはそういう理由もあるんです。」
少しばかり誇らしげに話をしたサトラーにムトネドイェメトはなるほどと頷いた。
ラムセスとサトラーの故郷はテーベではなくメンフィスだと聞いたことがあったからだ。
いつか故郷に帰れる日を夢見て生きる人々の気持ちがムトネドイェメトにはよく理解できる。
「彼らの話を聞いてみたいわ。」
何気なく洩らしたムトネドイェメトの一言にラムセスは意外なほど反応した。
「サトラー。」
「なに?」
「ムトネドイェメト様をメンフィスの神殿に案内しないか?」
「今から?」
「別に問題ないだろ。戦闘も膠着状態だし。ついでに、戦勝祈願でもしてきてくれるとなお、嬉しい。」
最後の一言はその場での思いつきだろうが、巫女の資格を持つサトラーと神官扱いのムトネドイェメトを前線から離すにはまさに打って付けの口実であった。
「そうねえ、悪くはないけど。」
サトラーは付き従う兵士の顔ぶれをざっと眺めた。
「行ってきてもいいかな。」
それとなくラムセスがほっとする様子を苦笑混じりで見ながら、サトラーは承諾した。
もともと自分が口にしたことが発端ということもあり、ムトネドイェメトに否やはなかった。
「ヒッタイトが動くまでには戻ります。」
別れ際の言葉に憮然としたラムセスに見送られて、サトラーはムトネドイェメトを護衛しながら前線を離れ故郷のメンフィスへ進路を取った。

シリア砂漠からメンフィスまでの道のりは、サトラーが拍子抜けするほどに戦闘らしい戦闘に遭遇することなく極めて順調であった。
「先の戦い、少なくともエジプトが負けたとは思っていないようですね。」
「はい。正直、ここまで平穏だと返って気味悪いくらいです。」
あの時は勢いで撤退を勧告したものの、その後の軍の動きを見てサトラーは少なからずラムセスに申し訳なく思っていた。
何しろ、初戦から戦わずして撤退させ、しかも総大将に左翼を担わせてしまったのだ。
ホルエムヘブもラムセスもそのことについて何ら言ってこないが、軍の規律から考えると示しが付かないのではないか。
「でも、だからこそ神殿への寄進は意味ある物に捉えられるかもしれません。」
柔らかく微笑んだムトネドイェメトにサトラーはおやっという表情を浮かべた。
ムトネドイェメトが微笑む顔を見るのは別にはじめてではないが、いつもの微笑み方と明らかに表情が違っている。
「ヒッタイトはこれ以上の侵攻を吉としないでしょう。」
微笑んだままのムトネドイェメトの言葉にサトラーは思わず手綱を引くほどに驚いた。
その様子を見てムトネドイェメトはわずかに馬足を緩めサトラーに速度を合わせた。
なぜですかというサトラーの問いと、わかりませんかと尋ねたムトネドイェメトの声が重なった。
「いいえ。」
正直に頷いたサトラーにムトネドイェメトはいつも見る厳しい表情へ戻って答えた。
「もうヒッタイトも気が付いたはずです。これがバビロニアのやり方であるということに。」
「え?」
「ミタンニをヒッタイトに取り込ませエジプトとの均衡を破らせるまではよかったけれど、その先を焦りすぎました。エジプトにはまだ力がある。だからこそ隙を突きたかったのでしょうが、ヒッタイトにも賢弟はいます。これ以上、他国の策に乗せられるのは、さぞ不本意でしょうから、今頃は退却の時期を計っていることでしょう。」
遠慮なく往来で話をするムトネドイェメトにサトラーはそれこそ気が気でなかった。
しかしムトネドイェメトはお構いなしに話を続けていく。
「でも、私は感謝しているのですよ。今、こういう風に考えることができるのは、それだけの知識を惜しみなく与えてくれた結果なのですから。」
ピタリとムトネドイェメトの馬足が止まった。
馬上の先にはごくありきたりなバザールのテントがある。
その中にいる砂漠の衣装に身を包んだ商人にムトネドイェメトの視線は注がれていた。
とっさにサトラーは護衛体制を取った。
それは命じられる前に動いたというより、軍人として育った本能によるものだった。
テントの中の商人はひとりだけだが、付近のそこかしこから似たような殺気を感じている。
故郷だと思って安心しすぎたと反省したのも束の間で、呼吸ひとつ置く間もなく戦闘に突入した。

鋭い刃が目にもとまらぬ早さで馬上の二人を目指して襲ってくる。
キンと反射的に避けた剣の煌めきになぜかラムセスの声がだぶった。
「サトラーは考えるより先に身体が動くタイプだからなあ。」
「ま、だからこそムトネドイェメト様付き女官が勤まるんだろう。普通の女官じゃ1日と持つまい。」
続いて聞こえてきたライアの声に今度はサトラーも振り返らずにはいられなかった。
カーンと剣を弾く音とともに姿を現した人物は、紛れもなくエジプト軍を担う将軍ラムセスとライアであった。
「なんでふたりがそこにいるのよっ!!」
怒鳴った先で更に振り下ろされた剣が刺客を袈裟切りにした。
鈍い音とと鮮やかな血しぶきにサトラーが眉を顰めたところへラムセスのとどめの一撃が打ち振るされた。
「つまりはそういうことだ。」
「そういうことって、どういうことよ。」
「今、ムトネドイェメト様が説明してくださったとおりってことだよ。」
ラムセスがうっとおしいといわんばかりに剣を振り払って刺客達を薙ぎ払い、サトラーとくつわを並べた。
「ちぇっ。さすがに黒幕は逃したか。」
「え?じゃあ、サライも居たの?」
「なんだ、知ってたのか。」
「知ってたのかって・・・ええええ!?」
再び声を大にしたサトラーをラムセスが呆れたように見やっている。
これではいつもとまるで反対ではないかといわんばかりの様子に、サトラーは慌てて表情を引き締めた。
すでにムトネドイェメトは剣を収め、ライアがその横で間断無く護衛に当たっている。
「申し訳ございません。」
サトラーは急いでムトネドイェメトの元に駆け付けた。
「お怪我はございませんか?」
我ながら何と間の抜けた問いかけだろうかと思いつつも念のためサトラーはムトネドイェメトの無事を確認した。