砂漠の果てに

ロータスを胸に抱いて(4)

ムトネドイェメトはそのままメンフィスにある小神殿へ案内された。訪問の名目が対ヒッタイト戦におけるエジプトの勝利を祈願するものであったから、それはしごく当然のことであったが、サトラーだけでなくラムセスとライアまでが神殿に同行した。
「護衛なら間に合ってるからふたりともさっさと戻りなさいよ。」
だが、サトラーに睨まれてもラムセスとライアはケロッとしたものだった。
「そんなこと言われてもなあ。」
「ホルエムヘブ将軍の命令だし。」
「将軍の命令ですって?」
国を挙げてヒッタイト帝国との戦争をしているときに両翼たる将軍を揃って前線から遠ざけるとはいったいどういうつもりなのだろうか。
「だから、さっきムトネドイェメト様が説明してくださったとおりだよ。」
サトラーの心を見透かしたようにラムセスが答えた。納得しかねていると「おまえ、本当にわからないのか?」と逆に呆れられる始末である。
「そんなこと言われても、サライがここにいたこととふたりがここにいることと、どう関連づけろっていうのよ。」
「え?」
サトラーの質問はラムセスの全く予期せぬ内容だった。
ラムセスは単純に自分とライアがメンフィスにいる理由がわからないのだと思っていたのだが、サトラーの疑問は全く別の視点によるものであったのだ。
今度はラムセスが困惑する番だった。
互いに気まずい沈黙に囚われたふたりに一石を投じたのはムトネドイェメトだった。
「どうやら私には、まだミタンニ王国王女としての利用価値が残っていたようですよ。」
ムトネドイェメトの口調はまるで他人事のようであった。
彼女の中ではミタンニ王国はとっくの昔に亡きものとなっていた。
今、マッティワザを王として戴いているミタンニ王国はヒッタイト帝国の属国であり、彼女の故郷とは別物と位置付けられている。
「あのぅ、まさかと思いますけど、サライはムトネドイェメト様をバビロニアに?」
「ヒッタイト帝国の皇女を正妃にもつ男の妹なら政治的に価値があると踏んだのでしょう。側室に迎えるにしても一国の王女ともなれば、それなりに箔も付くでしょうからね。」
「・・・それでラムセスとライアですか。」
ひとりで納得したサトラーにラムセスは不満気だった。
「なんで、そこに俺たちが出てくるんだ?」
「あら、わかんないの?」
さっきとは反対に今度はサトラーから尋ねられ、ラムセスはぐっと言葉を呑み込んだ。

その頃、ムトネドイェメトの襲撃に失敗したサライは生き残った配下の者とともにメンフィスの郊外にいた。
先刻の襲撃でかなりの被害を被ったが、彼自身は無傷だった。
「ムトネドイェメト姫の一行は小神殿にそのまま滞在するとのことですが、いかがないさいますか?」
デルサに問われ、サライは首を振った。
自分達を迎え撃った二人の若者が何者であるかわかった今では、これ以上の襲撃が無意味であることを知っていたからだ。
「神殿には、ラムセス家とライア家からそれなりの護衛が派遣されているだろう。我らがごとき少人数では到底太刀打ちできるものではない。」
「はい。まさかホルエムヘブが前線の将軍を寄越しているとは思いも寄りませんでした。」
「確かにな。だが、そうすることが可能になったからあのふたりを寄越した。」
「と、いいますと?」
わからぬか、とサライは鼻を鳴らした。
「ヒッタイト軍に備える必要性がなくなったからだ。皇帝軍は今頃ハットウサに着いている頃だろう。」
「まさか・・・。」
「エジプトが守りに徹していることは明らかだ。しかもホルエムヘブ自らが指揮をとってそれを徹底させている。初戦の一戦でヒッタイトはそのことを思い知らされているから、ヒッタイト側から国境を越えることはありえない。両軍にらみ合いの状態で損をするのは遠征してきたヒッタイトの方だ。主力を指揮しているムルシリ皇子は無駄を嫌う。ましてや犬猿の仲の皇妃が絡んでいると知れば、意地でも戦闘を控えさせるだろうよ。」
「しかし、皇帝が親征したとあっては、おいそれと撤退できるとも思えませんが。」
デルサの問いはサライも気にしている部分ではあった。
「だがな、皇帝は年だ。今皇帝に死なれて一番困るのは皇妃だからな。」

エジプトへの侵攻はシュッピリウマ皇帝にとって、ミタンニ制覇に継ぐ悲願だった。
だが、老いた身体にエジプトまでの遠征はかなりの無理を強いることになる。
それを押して出陣に踏み切ったのは、短期決戦でカタがつくとの判断をしたゆえに他ならない。
それが外れたとあっては、長居は無用と転身の機会を窺っていた。
さりげなくムルシリが後方への移動を進言したこともあって、皇帝シュッピリウマは予定より早くに戦場から離れ、睨み合いが長期化する様相を示した時に本国へ帰還したのだった。
戦場に残った皇太子軍にエジプトと戦う意志がないことは布陣をみれば明らかだった。
だが、何の成果もなしに全軍を撤退させるにはそれなりの口実が必要である。
それゆえに、ヒッタイト軍は遠巻きにエジプト軍と睨み合いを続けることを余儀なくされていた。

「しかし、そうだとしても、両翼のふたりをムトネドイェメト姫に付けるとは思い切りがよすぎやしませんか?」
「戦略的にはかなりの賭けだとは思う。だが、それがあの男の意思表示だ。今回ばかりは姫も困っておられよう。」
ムトネドイェメトのことに話が至ると、サライの表情はどこか懐かしむような様相を浮かべた。
莫大な報酬と引き替えに引き受けたムトネドイェメトの家庭教師だったが、彼女はサライにとって確かに自慢の生徒だったのだ。
サライが再びエジプトへやってきたのは、ムトネドイェメトが指摘したようにミタンニ王国王女としての彼女に用があったからだが、それを阻止したのはミタンニ王国王女の肩書きを必要としない男だった。
「怪我をした者は、このまま本国へ戻れ。残りの者は、しばし控えよ。」
サライは短く命令を下した。

メンフィスの神殿に同行したラムセスとライアはそのまま神殿に滞在することになっていた。
最前線にあるべき将軍が揃って実家でくつろいでいたとあっては示しがつかないというのが表向きの理由だが、街の状況を見る限り、あまり意味のないことのように思われた。
小神殿には両家から大勢の召使いが神殿への奉仕として派遣されており、それがそっくりそのままムトネドイェメトの世話係へとすり替えられた。
滞在に際して必要と思われる品々もテーベから商人がすでに運び込んでおり、サトラーはそれを確認するだけでいいようになっていたのだ。
戦勝祈願として公式に訪問するとなるとムトネドイェメトはエジプト第一王妃の名代であり、その滞在にはそれなりの格式を求められる。
急な訪問は返って迷惑になるのではとの懸念もあったがそれこそ無用の心配だった。
「もしかして、これを手配したのって、ルーヤ?」
目録を確認しながら尋ねたサトラーに、控えていた商人頭がするりと頭巾を取って微笑んだ。
「サトラー様にはお久しぶりにございます。」
王宮付の女官と出入りの商人との立場を崩さぬよう巧妙に立ち回ったルーヤの姿がそこにあった。
「やっぱりライアには内緒ですか?」
「言えば反対するでしょうが、黙ってしたあとでは文句を言わない人ですから。」
ライアの性格では、言わないのではなく、言えないのだと弁護してやりたいところだが、それ以上は夫婦の問題だからとサトラーは沈黙を守った。
いずれにしても貴族の姫君というより、商人の娘としての血の方がルーヤに色濃く出ているのは明らかだった。
また、その才覚を認めているからこそ彼女の両親も娘のやることに目を瞑っているのだろう。
少なくともこれまでルーヤの投資は全て元値以上の成果をもたらしている。
「ホルエムヘブ様は、今度こそ本気なんですね。」
「それもありましょうが。」
そこでルーヤは表情を改めて尋ねた。
「ムトネドイェメト様にお目にかかることはできましょうか?直接お目にかかって伝えるよう伝言を言付かっております。」
ルーヤにしては妙に改まった物言いだった。
だが、サトラーは特に気にしなかった。
ここは王宮ではないが、ムトネドイェメトはエジプトの第一王妃の名代なのだ。
本来なら、出入りの商人が直接に話のできる相手ではない。
女官のサトラーを介さずに伝えたい内容とはいかなるものか気にはなったが、ルーヤのことだ。
会えないと答えれば、そのまま伝言を持ち帰るのが目に見えていた。
サトラーは一呼吸置くと、ルーヤの荷の中の一品に目を移して言った。
「ムトネドイェメト様はただ今、奥でおくつろぎになっていらっしゃいます。そろそろお飲物でもお持ちしようと思っていますが。」
彼女の視線の先には、極上のワインが積まれていた。
「それでは、このワインがよろしゅうございましょう」
すかさずルーヤはその中でも最も飲み頃と思われるワインを選んで杯に注ぎ入れた。
「よい香りです。そうですね、たぶんムトネドイェメト様のことですから、そのワインの産地のこともお尋ねになるでしょう。」
遠回しにサトラーはルーヤに同行を促した。
ルーヤは控えめに頷くとサトラーに従って神殿の奥へと進んでいった。

小神殿の奥まった一室でムトネドイェメトは久しぶりにくつろいでいた。
テーベでの喧噪とした日々はムトネドイェメトに絶えず緊張を求めるが、ここではそれがない。
「アンクエスはどうするつもりなのだろうか。」
エジプト軍の出陣に際して、アイ王の見送りは受けたが、彼の体調は相当悪いように思えた。
それでなくとも老体のアイにエジプトのファラオの座はかなりの負担を強いている。
そこへ長時間に及ぶ出陣の見送りは相当堪えたはずだ。
アイの死は、三度、アンケスエンアメンに新たなる夫を選ぶことを要求する。
その時彼女は誰を選ぶのか。
今更考えるまでもなく、答えは誰の目にも明らかだった。
しかし、一度拒否した相手をファラオに据えることが果たしてアンケスエンアメンにできるのだろうか?
そこまで考えた時、人の気配にムトネドイェメトの思考は中断された。
「失礼致します。よいワインが入りましたので、お持ち致しました。」
サトラーの声に振り返ると、続いてルーヤの姿が目に映った。
ムトネドイェメトが黙っていると、ルーヤが静かに進み出て杯を差し出した。
「お待ちしています。」
ルーヤは杯を掲げながら、ムトネドイェメトにだけ聞き取れるよう小声でただひとこと口にした。
杯を受け取るムトネドイェメトの動きが一瞬だけ止まった。
だが、すぐに彼女はそのまま杯を受け取ると、ワインを口に含んだ。
「いかがでございますか?」
ルーヤの問いにムトネドイェメトはしばらくワインを口に含んだまま考えていたが、やがてゆくっくりと飲み込み感想を述べた。
「良い味です。太陽の恵みをよく受けた香りがする。」
ムトネドイェメトの表情にはこれといった変化は見られなかった。
「お気に召したのであれば、もう少しお持ち致しましょうか?」
サトラーが尋ねると、くつろいだ表情のままムトネドイェメトは頷いた。
「でも、しばらくはこれで十分です。今後のこともあるでしょうし、今のうちに彼らとゆっくり話をしておきなさい。」
「それでは、私どもはこれで失礼させていただきます。」
ムトネドイェメトの言葉に甘えるわけではないが、サトラーにはラムセス達と相談しておかねばならないことが山ほどあったのだ。
入ってきた時と同じようにサトラーはルーヤを従えて控えの間から出て行った。
その後、再びサトラーがムトネドイェメトの部屋に様子を尋ねた時、部屋はもぬけの殻であった。
「ムトネドイェメト様!?」
ムトネドイェメトが座っていた椅子に先刻ルーヤが運んだ杯がワインの入ったままに置かれている。
「どういうことなの?」
予期せぬムトネドイェメトの失踪にサトラーはただ呆然と立ち尽くしていた。