砂漠の果てに

ロータスを胸に抱いて(5)

多くの神殿には禊ぎの儀式用に水が引き込まれている。
ムトネドイェメトが案内された奥向きの部屋は儀式の控え室を兼ねていた。
ゆえに、ひとつ扉を挟んだ小部屋には水を引き込む水路が設けられていた。
しかも、板一枚を隔てて直接河から水を引き込むだけの簡素な作りなので、濡れることを厭わずそこを開ければ簡単に外に出ることができる。
即座に神殿の敷地から出れるほどに不用心ではないが、正面の警備からは盲点になっていた。
そこから表口に回れば、一般の参拝客に混じって堂々と外に出ることができるのだ。
おりしもルーヤの率いてきた大量の荷物の整理に下働きの者達は大わらわだったので、かえって参拝客が物見高く近づくことを敬遠しており、人の流れに乗って出て行くことに注意を払う者は少なかった。
これがもう少し時間を経て落ち着いた時分なら、また違った警戒態勢が取られていたに違いないが、今のところは当面の整理でそれどころではないようであった。
「さすがにここから馬を走らすのは無理でしょうね。」
遠目に厩の警戒ぶりを見て、ムトネドイェメトは川沿いの道を選んで歩き出した。
これといって当てのあるわけではないが、地理的状況はごく自然にムトネドイェメトに水路沿いの道を選ばせた。
川辺では至る所に小舟がつけられるような桟橋があった。それなりに人の往来も多い。
その中でムトネドイェメトが足を止めたのは、市場にほど近い桟橋の広場であった。
だが、桟橋には真っ直ぐ進まず、少し離れた木立のほとりに向かい、背後へと声を掛けた。
「こういうことにだけは反応が早いんだから。」
ムトネドイェメトの声にはどこか呆れた響きがこもっている。
「ここまで来たのなら、堂々と付いてくれば?」
「そういう言い方は止めてください。」
むすっと答えたラムセスにムトネドイェメトは笑った。
「そんなにサトラーと似ていました?」
「どうせあとで嫌味を言われるのは俺なんだ。」
ラムセスは憮然としたまま答えると、ムトネドイェメトと話をしやすいように側へ寄った。
これからの話はいかにしても往来で話せるような内容ではない。
人の通り道から十分外れた木陰で休むふりをして、ムトネドイェメトとラムセスは並んで立った。

「よく気が付きましたね。」
「ルーヤがあそこまで完璧でなければ気が付かなかっただろうな。」
どちらも表面上は穏やかな声である。
だが、ラムセスの口調は、かつてムトネドイェメトに反感を抱いていた頃のぶっきらぼうなものに戻っていた。
「ライアと俺とは将軍の命令を受けてから、昼夜を継いで走ってやっと追いついたってのに、あれだけの大荷物を従えながら、悠々の到着だろう?それもテーベからだぜ。ルーヤはこういう時、確かに気が利いて頼りになる人だけど、いくらなんでも早すぎる。たとえ船を使ったとしてもあまりにも早すぎるんだ。」
話ながらラムセスは時間と距離との間で落差が大きすぎることに気が付いた。
「例え船を使ってとしても、かなり以前に出発してなきゃ、この時期に着けるわけがないよな。」
独り言のように呟いて、ラムセスは心当たりのない人物に首を捻った。
ルーヤは将軍以外の人物から依頼を受けてテーベを出発した。
その上でムトネドイェメトを呼び出せるほどの人物となると、自ずと範囲は限定される。
「まさか・・・。」
それまで思いも寄らなかった可能性にラムセスは突き当たった。
だが、そう考えると全ての辻褄があう。
ラムセスの全身は警戒心が露わになり、彼自身もまた戦慄していた。
それまでムトネドイェメトだけに注がれていた注意が辺りへと及んだ時、彼は水路の影に第三者の潜む気配を感じ取ったのである。
「そこまでわかっていて、なぜここにいるのです?」
「さあ、なんでかな。」
正直なところ、自分でも不思議だった。
「それでも私に付いてくるつもりですか?」
「俺が止めたところで無駄なんだろう?だったら、他に選択のしようがない。」
ムトネドイェメトの確認にあっさり同意したラムセスは戦意を持っていない証として剣を腰から外して足下に置いた。
「俺の家から船を出してもいいが、それじゃ、あっちで困るだろう。そっちで用意してくれるっていうんだから、便乗させてもらうよ。」
堂々と答えたラムセスに、それまで潜んでいた影が姿を現した。
一目で異国からきた商人とわかる風情の男達はすばやくラムセスの剣を取り上げると、繋いであった小舟へと道を示したのだ。
「では、ご案内させていただきます。」
淡々と告げられた声はムトネドイェメトにとって馴染みの深い声だった。
この声に引かれ、ワシュカンニの城を後にした日がつい昨日のことにように感じられる。
「まさかあなたがアテン神の使者も兼ねていたとはね。」
ムトネドイェメトの皮肉にサライは笑った。
「いくとおりにも道を繋いでおいてこそのお役目でございますから。」
ムトネドイェメトとラムセスは四方から挟まれるような形で小舟に乗った。
「この先に別の船を用意しております。先方へはそれでご案内しますので、しばらくはご辛抱願います。」
小さな小舟に大の大人が6人も乗れば窮屈なのは仕方がない。
「行け。」
その声を合図に小舟は桟橋を離れた。

ムトネドイェメトの失踪に一旦は呆然としたサトラーだが、やがて落ち着きを取り戻すと、そのままルーヤが荷分けをしている部屋へと走った。
途中の回廊でライアと鉢合わせた時、ふたりとも目的を同じくしていることに気が付いた。
「もう、こういう時にラムセスは何してるのかしら。」
「ムトネドイェメト様を追って行ったんだろう?」
「そんなことくらいわかってるわよ。」
サトラーが腹を立てているのはそこから先のことなのだ。
急を要するとはいえ、ラムセスが行動に移った地点では、部下を手配する時間がないほどに切羽詰まってはいなかったはずだ。
それなのにひとことの伝言も残さず、しかも単独行動に踏み切ったことに対して、サトラーは怒っていたのである。
これが別の土地なら仕方のないこともあろうが、ここはメンフィス。彼らのお膝元なのだ。
「帰ってきて理屈が通らなかったら締め上げてやる。」
宮廷論法で鍛えられたサトラーを納得させるのは、新入りの兵士に戦法の理屈を覚えさせるより骨が折れることだろうと密かにライアはラムセスに同情した。
だが、同情してばかりもいられない。彼自身にも難問は迫っていたのだ。
「ルーヤの答え次第では、ライアにも責任を取ってもらいますからね。」
神殿の一番大きな広間を借り切って荷分けの指示をしているルーヤの姿を見ながらサトラーは宣言した。

サトラーとライアの姿に気が付くと、ルーヤの方からふたりの方へやってきた。
「お勧めしたワインはムトネドイェメト様のお口に合わなかったでしょうか?」
「ええ、一口飲んだだけで全部残されてるわ。」
冷たく言い放ったサトラーに、ルーヤは目を伏せた。
だが、面を上げて答えた声は自信に満ち、聞く者に付け入る隙を全く与えない。
「私が受けたのは、ムトネドイェメト様にワインを直接お渡しすることだけです。」
受けた依頼はきちんと果たすがその後のことには関与していないと、問われるより先に答えたのだ。
「それがムトネドイェメト様を呼び出すことなると気が付かなかったわけではないだろう。」
普段めったに声を荒げぬライアの問いにもルーヤは動じなかった。
「けれども、そこから先のことは、ムトネドイェメト様のご判断に寄ること。私の関与すべきことではありません。ただ、こうなった場合、サトラー様が神殿の祭事を代行するように伝えよとの指示は受けております。」
「祭事の代行って?」
「無論、ムトネドイェメト様に代わってのエジプトの勝利祈願です。」
「・・・それは、誰の指示だ?」
「当然、ホルエムヘブ様からです。」
よどみなく答えたルーヤにライアとサトラーは困惑して顔を見合わせた。
どう考えてもルーヤの受けた依頼はひとつ元から発したものではない。
いくつもの命令が重なり合い、しかもそれが出された時間には相当に隔たりがあると思われるのだ。
「依頼も指示も受けたのはテーベだな?」
ライアは自分の考えを整理するためにも確認すべき必要のある事柄を繰り返し尋ねた。
「テーベを離れたのはこれが初めてですわ。」
柔らかく微笑んだルーヤにライアはそうだったなと一人頷いた。
「あの貢ぎ物の大半は勝利祈願用というわけだ。」
実際、ルーヤの持ってきた荷物は、カルナク大神殿でファラオが祈願するに匹敵するほどの大がかりなものだった。
メンフィスも古の都として機能しているので、同等の祭祀を執り行うことは可能だが、それにしても一介の巫女風情がどうこうできる量ではなかった。
できなくはないが、王族以外の名で行うと余計な反感を買うことになりかねない。
古い都だけあって、メンフィスの市井はそういうことに敏感なのだ。
「確かにあれを貢ぎ物にして祈願するとなれば、ムトネドイェメト様のお名前を借りなきゃ無理ね。」
「では、この件につきましては確かにお伝えしました。」
「将軍の命令なら従うしかないけど。でも、それじゃあムトネドイェメト様はどうなるの?ラムセスだけでどうにかなる相手じゃないんでしょ。」
「それは。」
答えかけてルーヤは言葉を止めた。
彼女に依頼をした人物のことを、今告げるべきかどうか判断に迷うのもがあったのだ。
「私がテーベを出発する時には、エジプトとヒッタイトとは同列で戦闘に挑んでいると聞いていました。それは今もそうなのでしょうか?」
ふと話題を戦場に変えたルーヤをライアは意外そうに見やった。
代わって答えたのはサトラーだった。
「ラムセスとライアのふたりが離れても大丈夫なくらいだから、これ以上には広がらないと思うわ。」
だが、そうなるとエジプトの勝利祈願も結果のわかりきった茶番に見えてくる。
「戦の無駄を神事で収めるのも悪くないわね。いいわ、そっちの方は引き受けた。ネブ神官長が悔しがるほどの華々しい祭事をしてやるわ。」
どのみち体調の優れないアイでは、テーベで勝利祈願の祭事を行うなど無理な相談である。
宮廷への影響力も計算に入れ、サトラーはアメン神に仕える巫女へと早変わりしていった。

サライの用意していた小舟からナイル河畔に浮かぶ大きな船に移ったラムセスはその船がエジプト船であることに少しばかり安心した。
「ご心配には及びません。この船は、私も使うよう指定されただけで、案内するのはエジプト人の船長に任されておりますから。」
船が上流に向かっているのは間違いないのだが、最終的な目的地はどうもはっきりしていないような口ぶりだった。
「アケトアテンではないということですか?」
今更遠慮してもはじまらないと思っているのか、ムトネドイェメトは忌憚なくサライに尋ねた。
「それも示された場所のひとつですが、まだはっきりとは定まっておらぬようです。」
川の流れを見極めるかのようにサライは答えた。
「今しばらくは時間がかかりそうですな。」
まるで他人事のようにサライは続けた。
「エジプトのファラオも、ヒッタイトの皇帝もなかなかしぶといようで。」
「アイとシュッピリウマが死ぬのを待っていると?」
「少なくとも片方が死なねば、どちらも動けますまい。」
サライは笑った。
その笑いが、自分の役目を果たした時にしか見せない快心の笑みであることを思い出した時、船は遥か沖合を進んでおり、ムトネドイェメトは自分が軟禁状態にあることに気が付いた。
「アンクエスの依頼は、私を呼び出すことではなかったの?」
「エジプトの第一王妃様の心にあるのはアテン神の行く末だけですよ。」
かつてサライがムトネドイェメトの教師であった時、疑問に対する答えは自分で見つけるまで教えてはくれなかった。
例えそれが間違っていたとしても、一度は自分の力で解くことを求められたものだった。
今もその姿勢は変わっていない。つまり、少なくとも今のサライは敵ではないということだ。
だが、味方にもなり得ないことをムトネドイェメトは心に深く刻みつけた。
「いずれにしても長期戦というわけですね。」
「御意。」
うやうやしく一礼したサライの前をムトネドイェメトは殊更に無視して通り過ぎた。
「ラムセス、何をしているの。あなたは私の護衛でしょう。」
その役はサトラーに引き継いだと言い返したいのをぐっと堪えて、ラムセスはムトネドイェメトに従った。
用意させていた部屋にあっさり引きこもったムトネドイェメトの真意を考えあぐねながら、サライはたゆまず流れるナイルの河面を見つめていた。