砂漠の果てに

ロータスを胸に抱いて(6)

船内に用意されていた部屋に入るとムトネドイェメトはラムセスに自分の鉄剣を投げて寄越した。
「それの扱い方は心得ていますね。」
仮にもエジプトの一軍を預かる将軍に対して、それはないだろうと言い返そうとして、ラムセスはムトネドイェメトがこれからやろうとしていることに対する注意を勧告したことに気が付いた。
ムトネドイェメトの目は、表面上は穏やかなナイルの流れに向けられている。
「ここがどのあたりかはわかりませんが、いずれにしてもアケトアテンからそれほど遠くないところで待つつもりでしょう。だとすれば、何とかなると思いませんか?」
謎掛けのようなムトネドイェメトの問いに、ラムセスは文字どおりわからないふりをした。
「あんた、泳げるのか?」
躊躇いがちに尋ねたラムセスにムトネドイェメトは振り返ることなく答えた。
「サトラーにはよく水場へ付き合わされましたからね。エジプト人がこれほどまでに泳ぐことが好きだとは思いませんでした。」
「ミタンニには泳ぐ習慣はなかったのか?」
「少なくともサライの授業にはありませんでしたよ。」
ラムセスはそれ以上尋ねる気力を失った。
「どちらにしても、サライの言ったとおり、しばらくはここにいることになるでしょう。」
それが長く続いた方がよいのか、それとも事が決まる前に行動に移るのか。
ラムセスはムトネドイェメトの動向をただ見守るしかなかった。

異端の王アクエンアテンの死後、王都アケトアテンは閉鎖され、王妃ネフェルティティの死後は王宮も放棄されていた。
その放置されていた王宮にエジプトの第一王妃アンケスエンアメンが、数名の従者と侍女を供に到着したのは、つい先刻のことである。
到着したものの、休む場所すら満足に確保できないほどに荒れ果てた部屋のありようを見て侍女達は困惑していたが、アンケスエンアメンは座れる場所があればよいと鷹揚に応え、窓辺から沈みゆく太陽を眺めていた。
奇しくもそこは、かつて父アクエンアテンが好んで休息を取るのに使っていた小部屋であった。
幼い頃からアンケスエンアメンがもっとも親しんできた部屋だったのだ。
あの頃、この部屋は常にアテンの光で満ちていた。
「形式にはこだわらぬ。太陽の光はあまねくすべてに平等に振りそそぐ・・・。光ある限り、アテンは不滅。そうですね、父上。」
自分自身に言い聞かせるように呟くと、アンケスエンアメンは改めて侍女達に命じた。
「そなたたちは、下がっていなさい。」
怪訝な表情で見上げた彼女らにアンケスエンアメンは来訪者の存在を告げたのだ。
「間もなくここへホルエムヘブが来ます。」
その一言で侍女達は一斉に部屋を出て行った。

アンケスエンアメンが一人になっていくらもしないうちにホルエムヘブは現れた。
表面上はいつもと変わらない平静な様を装っていたが、手段を問わず昼夜を費やして戦場から駆け付けてきたことはアンケスエンアメンにも一目でわかった。
「ファラオから帰還命令は出ていないはずですが。」
皮肉めいたアンケスエンアメンの声を無視してホルエムヘブは反対に尋ね返した。
「ムトネドイェメト様はどちらにおられます?」
「さあ、どのあたりにいるのかしらね。」
別にアンケスエンアメンはとぼけたわけではなかった。
ホルエムヘブを呼び出すために、サライに依頼してムトネドイェメトをナイル河畔の船上に軟禁したが、彼女が大人しくその状態に甘んじる女性でないことは誰よりもアンケスエンアメンが一番よく知っていた。
何らかの動きがあるまでは大人しくしているだろうが、ひとたび事が起これば、自力で脱出してほどなくここへやってくるのは間違いない。
だが、さすがに今ムトネドイェメトがどのあたりにいるのかまではわかりようがなかった。
「一度来たことのある場所ですから、王宮までの道をよもや迷うことはないでしょうが。もっとも、この街をよく見るほどに、少しくらいは迷って欲しいと思います。彼女なら、この王都のすばらしさを理解してくれるでしょうから。」
「・・・残されたいのですか?」
アンケスエンアメンはホルエムヘブの探るような視線を正面から受け止めた。
「私はアケトアテン以上に素晴らしい都を知りません。」
だが、現実はというと、アクエンアテン王と王妃ネフェルティティの死後数年にして美しかったアケトアテンは廃墟と化してしまったのだ。
同時にアテン神は忌むべきものとして人々から急速に忘れ去られてしまっている。
更には、ツタンカーメンの死後、次期ファラオにアイを選んだことで、アケトアテン復興の機会を完全に封じたのは他ならぬアンケスエンアメンではなかったのか。
「ならば、なぜアイを選ばれた?」
乾いた声がホルエムヘブから発せられた。
「あなたを選べば可能であったとお思いですの?」
自嘲的な、しかし鋭い響きにホルエムヘブは返答に窮した。
事実を事実として否定するのは簡単だが、そのような答えを彼女が求めているのではないことはホルエムヘブにもわかっていた。
アンケスエンアメンと意見を異にしながらも、ホルエムヘブもまたアメン神官団とは対立の立場にあることを彼女は見抜いている。
それ故に、アメン神官団の意向のままにアテン神を否定するのは、自分の力が彼らに及ばないことを認めるのと同じであり、彼自身としては苦々しい限りだったのだ。
ホルエムヘブが沈黙を守っているとアンケスエンアメンは心の内をとつとつと語りはじめた。
「父上の死と共に失われたアテンの栄光を形を歪めてまで残そうとは思いませぬ。さりとて、無為のまま放逐され淘汰されるのはあまりにも口惜しい。それならばいっそ、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手に触れるもの、その全てを葬り去ってくれた方が余計な心を痛めずにすむ。」
そこで一旦アンケスエンアメンは口をつぐんだ。
壊れた窓辺から、夕方の陽光が細く差し込んでふたりを分かっている。
弱々しい光の帯は、太陽が沈むに連れてますます細くなり、やがてふたりの間から消えていった。
「あなたになら、それが可能なはず。」
冷たく抑揚のない声が部屋を満たした。
本気で言っているのかとホルエムヘブが訝り頭をあげた先で、アンケスエンアメンの挑発するような視線とかち合った。
「正当なファラオによる命令であれば、いかなる運命であろうとアテン神もお受けになりましょう。」
アンケスエンアメンの意図することはホルエムヘブにも理解できたが、そのために最も重要な条件が彼には欠けていた。
市井の軍人出身であるホルエムヘブには、現王家との血の繋がりが全くない。
それ故に王位継承権を持つアンケスエンアメンがホルエムヘブとの婚姻を拒否したとき、彼のファラオへの道は閉ざされた。
軍を司る者として誰もが絶対的な権力者として認めながらも、その一点が欠けているためにホルエムヘブの登玉は実現しなかったのである。

アンケスエンアメンの言葉は確かに矛盾に満ちていた。
だが、彼女自身に迷っている様子は全く見受けられなかった。
「ムトネドイェメトの愛称を知っていますか。」
ホルエムヘブが黙っていると、アンケスエンアメンは質問を変えて再び聞いてきた。
「ムトネドイェメトが王宮で何と呼ばれているかは知っているでしょう?」
さりげない言葉の影に答えは隠されている。
「ムトの名が何を意味するか知らないとは言わせませぬ。」
柔らかな澄んだ声が、不思議な響きを持ってホルエムヘブにこだました。
「それなのに、あのネリアですら私の前以外では彼女のことをそう呼んで、はばからないのですよ。」
アイがファラオの座についた時、ムトネドイェメトはエジプトの第一王妃に次ぐ者として宮廷に残った。
その後、ムトネドイェメトの後宮における力はネリア女官長の全面的な支持を受けてアンケスエンアメンをはるかに凌ぐようになっていたのだ。
アンケスエンアメンはツタンカーメンの御代では嫌々ながらもエジプトの第一王妃としてアメン神の祭祀に臨席していたが、アイをファラオに迎えてからは一度も出席していない。
常にムトネドイェメトが王妃の名代として参列していた。
足下のおぼつかない老王のあとを堂々と歩む美しき王妃の名代を人々がどのように感じるか、推して図るべきものがあろう。
「さすがにテーベでは名代として祈願するしかありませんが、メンフィスではムトネドイェメト自身の名前で祈祷が行われたとか。」
「やはりご存じであられたか。」
「いかにあなたとて、シュッピリウマの存命中に戦場を離れるわけにはいかないでしょうからね。」
名目上はエジプトの勝利祈願だが、実際はヒッタイト皇帝への呪詛に近いものであったろうことをアンケスエンアメンはほのめかした。
それがホルエムヘブの戦場離脱を容易にし、ヒッタイト軍を撤退させる要因となりうることを彼女もまた知っていたからである。

だが、ホルエムヘブはこの時、それ以上の成果を持ってこの場に顕れていた。
「死んだのはシュッピリウマだけではございません。次代の皇帝アルヌワンダも帝位を継いで幾らも経たないうちに亡くなりました。」
相次ぐ皇帝の死は、予想以上にヒッタイトに衝撃を与えたらしい。
もしもこれが戦場での死であれば、名誉の戦死として崇められたのだろうが、シュッピリウマとアルヌワンダの死は病死であった。
ともに同じ病気で、しかも戦場にほど近くにあったエジプトの廃村でかつて流行ったという噂の疫病にかかって死んだのだ。
それだけなら不幸な病死で片付けられたのだろうが、メンフィスでムトネドイェメトが祈祷を行った後であったことが意外な効果を発揮したのである。
皮肉にもそれは祈祷をしたムトネドイェメトがミタンニ王国の王女であったことに起因していた。
かつてミタンニ王国の王女タドゥ・ヘパがエジプトに嫁いだのは国力の差もさることながら、ミタンニ王国の持つ奇跡の女神像シャウシュガを当時重病に伏していたエジプトのファラオに送る役目を担っていたのだ。
シャウシュガは愛と生命の女神であり、病気の治癒力も備えていた。
事実、ミタンニから送られたシャウシュガ像は、エジプトのファラオに健康を取り戻させたのだ。例えそれが一時的なものであったとしても。
この度メンフィスで祈祷を行ったムトネドイェメトは王国の名誉を継ぐ者としてトシュラッタ王から愛され、一部ではシャウシュガの化身とまで噂された時期があったことを、ヒッタイト帝国の情報網は掴み、報告していた。
その上、エジプトにおいてムトネドイェメトが公然とヒッタイト帝国を敵視していることはつとに有名である。
更に、ザナンザ皇子とムトネドイェメトに接点があったことをも明らかになったのだ。
多くの情報が集まるほどにヒッタイト側は恐怖を募らせ、生き残ったムルシリに決断を迫った。
「子のなかったアルヌワンダは弟のムルシリを後継者に指名しておりました。」
「ムルシリ!?あの策略好きな男が帝位に就いたというのですか。」
ムルシリの名に意外なほど反応したアンケスエンアメンをホルエムヘブは少し驚いて見たが、彼女はヒッタイト帝国とは元大使のハニスを通じて頻繁に交渉していたのだから、皇室の事情に詳しくても不思議ではなかった。
「そう、あの男が皇帝になったの。」
「帝位に就いたムルシリは、エジプトとの和平を望んでおります。」
ファラオでないホルエムヘブには、戦争を終結させる権利がない。
彼は仮の休戦条約を結んで、直ちにアケトアテンにとって返したのだった。

軍人であるホルエムヘブが戦争を止めたがっているというのも面白い話だが、エジプトの現状を深く知っていれば当然のことだった。
「いずれにしても戦争は終結に向かっているということですね。」
「御意。」
「エジプトの第一王妃の始めた戦を王妃の名代が収めたと、さぞ噂になることでしょうね。」
さすがのホルエムヘブもアンケスエンアメンの言葉には凍り付いた。
確かに、今回メンフィスでムトネドイェメトの名により執り行われた祈祷によってヒッタイトの皇帝が相次いで死亡し、それが戦争を終結させることになったと広まっては、その影響力たるや計り知れないものがある。
一瞬の沈黙の後、アンケスエンアメンは会心の笑みを浮かべると、最後の、そして切り札とも言える言葉を放った。
「ムトは、テーベの聖母として次代のファラオを選ぶ唯一の存在となるでしょう。」
その瞬間ホルエムヘブは、パチリと何かが自分の心の中で弾けるのを感じた。
「・・・アンケスエンパーテン様!」
思わず漏れた声にホルエムヘブが舌打ちしたとき、アンケスエンアメンは確かに微笑んでいた。
だが、それも一瞬のことで、すぐにもとの無表情な王妃にもどった。
けれども、ホルエムヘブは、その無機質な眼差しこそが強固な意志表示であったことに気が付いていた。
長い間、抱いていた疑問が解け、アンケスエンアメンの目指したものが何であったのか、ようやくホルエムヘブは理解できたのだった。
彼女はやはりエジプトの第一王妃以外の何者でもない。
己の信念が異なる故、やり方が異なるのは当然であった。
しかし、その根底にあるものは、アンケスエンアメンもホルエムヘブも同じであることに変わりはない。
むしろ、ホルエムヘブの目指す物を一番よく理解しているのはアンケスエンアメンであるかもしれなかった。
「今のエジプトには再生のための終焉こそが必要なのです。」
その一言で、ホルエムヘブは自分の考えが間違っていないことを確信した。

アンケスエンアメンがホルエムヘブと話をはじめてから随分と時間が経っていた。
夕暮れの太陽は更に深く沈み、黄昏時の闇へと変貌しつつある。
迫り来る闇は、アンケスエンアメンにサライの存在を思い起こさせた。
サライはバビロニア人としてアンケスエンアメンの依頼を引き受けてくれたが、かつてはムトネドイェメトの守り役をしていた男だ。
「その時、サライはどちらを選ぶのかしらね。」
アンケスエンアメンの呟きがホルエムヘブの耳にも聞こえたのか、彼は怪訝そうに見返した。
「そろそろムトネドイェメトが現れてもいい頃ですが、さて、どこから来るのやら。」
他人事のように話をすり替えたアンケスエンアメンは、階下に広がる庭園を見渡した。
見るものもなく荒れ果てた庭園だが、ナイルの水を引き込んで作られた上水べりには華やかな面影が残っている。
「ムトネドイェメトがここに現れたら、庭園にいると伝えてください。」
荒れ果てたとはいえ、広大な王宮には無数の庭園が存在する。
「それだけで、ムトネドイェメト様にはおわかりになると?」
ホルエムヘブの質問にアンケスエンアメンから直接の答えは返ってこなかった。
その代わりに、明らかにホルエムヘブに対する挑戦ともいえる短い言葉を発したのだ。
「あなたは、あなたの思う場所でムトネドイェメトを迎えるがいいわ。」
そしてアンケスエンアメンは部屋を出て行った。