砂漠の果てに

ロータスを胸に抱いて(7)

黄昏時のアケトアテンの王道をムトネドイェメトはひとり北方離宮へと向かっていた。
ナイル河からアケトアテンの入口まではラムセスと一緒だったが、そこでふたりは別れたのだ。
最初のうち、ラムセスは最後まで同行すると言って聞かなかったが、ナイル河畔の兵営から出るのろしの意味するところを指摘されて、ようやく彼も決心を変えた。
そもそもふたりが行動を起こすきっかけとなったのが、湖畔上から見えたのろしだったのである。
ヒッタイトとの戦争中にファラオの死を伝えるのに表立って使者を立てることは難しい。
さりとて知らせぬわけにもいかず、苦肉の策として採られたのが普段軍部が連絡に使っているのろしだった。
のろしには煙の色を変えることでいくとおりかの伝聞が予め定められていた。
その意味するところはムトネドイェメトに知らされていなかったはずだが、サライの依頼された内容とアンケスエンアメンが行動を起こしたことにより気が付いたようである。
見張りの動きから、ムトネドイェメトが指摘したとおり、ふたりが泳いで渡るということをサライが計算に入れていないことは明らかだった。
おかげでムトネドイェメトとラムセスは難なくナイル河へ入り、そのまま泳いで渡るという荒行を実行して見事に成功したのだった。
いずれ船室から姿が消えていることでふたりの逃亡にサライも気が付くだろうが、今となっては手遅れである。
「私はこのまま北方離宮へ向かいます。ラムセスは王宮でホルエムヘブと合流なさい。」
北方離宮は荒れ果てたアケトアテンの中でも最も寂れていると言われる場所である。
「そんなとこに王妃様が?」
先回りして答えたラムセスにムトネドイェメトは微笑んだ。
「そこが最初に出会った場所だからです。」
一抹の不安を残しながらもラムセスはムトネドイェメトが北方離宮へ向かうのを見送ったのだった。

北方離宮はかつてネフェルティティが晩年を過ごした場所であった。
死期が近づいてからは番人の家に移されたが、第一王妃の地位を剥奪されてからも、そこで王族としての格式を持って生活していたのである。
初めて訪れる場所にもかかわらず、ムトネドイェメトは迷うことなく水辺に沿って人工池にほど近い庭園へと進んでいった。
北方離宮は、驚くほどにワシュカンニにあった北の離宮と造りが似ていた。
ナイルの水を引き入れた人工池は、寂れた王宮にあって唯一昔のままに面影を残し水をたたえていた。
水があれば、当然そのほとりに生える植物も同様に存在している。
折しもナイル河岸に咲く蓮の花が満開の時季にさしかかっていた。
「アンクエス。」
人工池のほぼ中心にアンケスエンアメンはいた。
庭園の手入れの悪い様は、池の中心部へと繋がっている石の足がかりを全て覆い隠していることからも明らかである。
普段なら絶対そのような雑踏に足を踏み入れることはないだろうが、その時アンケスエンアメンは少しも構った様子が見られなかった。
彼女はムトネドイェメトに気が付いても素知らぬ様子で水辺に咲く薄紅色の蓮の花を摘んでいた。
花を摘みだしてまだそれほど時間が経っていないのだろう。彼女の手にある花の束はそれほど大きくなかった。
それでもムトネドイェメトの見ている前で、少しずつ薄紅色の花輪は大きくなっていった。
「きれいでしょう?」
それは突然に掛けられた声だった。面を上げるわけでもなく、振り向く素振りも見せず、けれどもアンケスエンアメンは確かにムトネドイェメトに語りかけたのだ。
「でも、あなたにはあげない。」
ゆったりと、どこか夢見るような口調で言い捨てると、アンケスエンアメンは蓮の花を摘み続けた。
「アンクエス?」
その様子にムトネドイェメトはどこか不自然なものを感じた。
アンケスエンアメンはムトネドイェメトと話をする時、心やすそうな素振りをしても、決して打ち解けた様子はみせなかったからだ。
二人の間には、いつもひとつ張りつめた緊張感が漂っていた。
それが今のアンケスエンアメンからは感じられないのだ。
ふとふたりの視線が交わった。
「欲しいの?」
誘うような笑みを浮かべてアンケスエンアメンは尋ねた。
ムトネドイェメトの脳裏に、かつて砂漠で見た水辺の風景が蘇った。
あの時、差し出された青い蓮の花を見て、ムトネドイェメトはエジプトに来ることを決心したのだ。
けれども、今、アンケスエンアメンはムトネドイェメトに薄紅色の蓮を差し出すことを拒否している。
口では誘っていても、彼女は全身でムトネドイェメトをはっきり拒絶していた。
「なぜなの?」
ムトネドイェメトは叫んでいた。
ムトネドイェメトの声が聞こえたのだろうか、アンケスエンアメンは一瞬だけ花を摘む手を止めた。
だが、やはりその目はムトネドイェメトの方を見ることはなかった。
「アンクエス!」
ぱしゃりと水を弾く音がして、ムトネドイェメトは雑踏に覆われた人工池に足を一歩踏み出した。
しかし、ムトネドイェメトが動けたのはそこまでだった。
勢いのままに人工池へ踏み込もうとしたムトネドイェメトの身体は、突然に背後から回された腕によってその場に留められたのだ。
「ムトネドイェメト様!」
同時に力強い声が、ムトネドイェメトの全身を貫いたのだった。

アケトアテンの王宮でホルエムヘブは不覚にもアンケスエンアメンの姿を見失った。
アクエンアテン王の作った王宮は、ホルエムヘブが知る以上に複雑な構造をしていたようで、ほんのわずかな隙を突いて、アンケスエンアメンは完全に姿を眩ませたのだ。
「いったい何をなさるおつもりなのか。」
アンケスエンアメンがムトネドイェメトをどこかに呼び出していることはわかるのだが、王妃の目指すものとムトネドイェメトが望んでいるものとの落差が激しすぎることをホルエムヘブはよく知っていた。
考えがまとまらないままに、かつてムトネドイェメトを案内してきた道を反対に辿っていたホルエムヘブを見つけたのはラムセスだった。
ラムセスは連絡を途絶えさせたことをまず詫び、続いてムトネドイェメトが北方離宮へ向かったことを告げた。
「ご自身でそうおっしゃたのか?」
「よくはわかりませんが、そこが初めて会った場所だからと言われました。」
「初めて会った場所?」
ホルエムヘブには全く心当たりのない言葉だった。
ムトネドイェメトがアケトアテンを訪れるのは、エジプトに来た最初のあの日以来のはずである。
その時、アケトアテンを案内したのは自分であり、どこをどう案内したのかもはっきり覚えている。
「私は北方離宮へ案内したことなどない。」
「しかし、ムトネドイェメト様は北方離宮のことをよくご存じのような口ぶりでした。」
ラムセスの返事にホルエムヘブはまたしても沈黙した。
どうやらホルエムヘブの知らない何かがアンケスエンアメンとムトネドイェメトの間にはあるらしい。
「わからぬ。」
ホルエムヘブは呟いた。だが、同時に北方離宮へと向かうことも忘れてはいなかった。
「いずれにしてもアンケスエンパーテン様がご健在である限り、そう簡単に諦めるとも思えぬ。」
禁忌とされているアテンを関する名前で王妃を呼んだホルエムヘブにラムセスは思わず立ち止まった。
「どうした?」
だが、いざ尋ねられると、どう聞いてよいかラムセスにもわからず、結局それまで気になっていた疑問を聞くに留まった。
「その、今更なんですが、ムトネドイェメト様を呼び出したのは王妃様ですが、いったいどうやって王妃様はサライと知り会ったんでしょうか?」
実行するにあたって動いたのはルーヤだが、それにしてもアンケスエンアメンとサライとの繋がりはこれまでにない道であった。
サライがかつてムトネドイェメトの家庭教師であったことはホルエムヘブも知っている。
「単なるバビロニアの間諜だけではないとは思っていたが。」
そこまではラムセスにもわかっているのだろう。特に驚いた様子は見せなかった。
「いずれにしても、あまりよい方向といえる話ではないな。」
ホルエムヘブはそこまでと話を切り上げ、猛然と北方離宮を目指し始めた。

ムトネドイェメトの後を追うようにして北方離宮に到着したホルエムヘブとラムセスは、封印されたはずのその地に少なからず人の出入りがあった痕跡を見つけ嫌な予感に囚われた。
「急ぐぞ。」
ホルエムヘブは、ネフェルティティがお気に入りであった人工池をまっすぐに目指した。
その頃になって、北方離宮がネフェルティティの故郷であるミタンニの王宮に面影を残した造りであったことを思い出していた。
彼の予感は的中し、人工池の中にアンケスエンアメンを見いだし、同時にそこへ入ろうとするムトネドイェメトの姿を発見した。
「ムトネドイェメト様!」
姿を見たあたりからホルエムヘブはムトネドイェメトに呼びかけたが、何の反応も返ってこない。
アンケスエンアメンにしてもそれは同様だった。
「まさか・・・。」
アンケスエンアメンの夢見るような表情を見分けることができるまでに近づいた時、ホルエムヘブは王妃の執念にも似た思いを感じ取ったのだ。
折しもムトネドイェメトが一歩人工池に足を踏み入れたところだった。
「なりませぬ!」
ホルエムヘブは走った。
「ムトネドイェメト様!」
そのまま池の奥へと向かいかけたムトネドイェメトをホルエムヘブは強引に引き寄せ、抱き留めたのだった。