砂漠の果てに

ロータスを胸に抱いて(8)

ホルエムヘブに背後から抱き留められ、名前を呼ばれたことでムトネドイェメトは現実にかえった。
「ホルエムヘブ?」
我に返ったムトネドイェメトにホルエムヘブエムは安堵すると同時にアンケスエンアメンに鋭い視線を向けていた。
その時になって、ムトネドイェメトもアンケスエンアメンの様子がただならぬものであることに気が付いた。
そしてホルエムヘブがムトネドイェメトをこの場に留めている理由を彼女なりに考え始めたようだ。
「まだ気が付かれませぬか?」
聡明なムトネドイェメトらしからぬとでも言いたげなホルエムヘブの声であった。
「ご存じなくて当然ですな。姫はワジェト神(コブラ)を直接にご覧になったことがないゆえ。」
「サライ!!」
今度はムトネドイェメトもはっきりとサライの存在に意識を返した。
「まさか泳いでナイル河を渡られるとは思いませんでしたぞ。よくぞセベク神(ワニ)に捕らえられなかったと驚くばかりですな。」
話ながら、サライはムトネドイェメトとの間にはっきりとした距離を置いていた。
サライが口にした神の名前からムトネドイェメトも状況を理解したようである。
生い茂った灌木に紛れて見えないだけで、人工池にはコブラが放ってあったのだ。
アンケスエンアメンの夢見るような表情は、おそらくコブラの毒による幻覚症状の現れに違いなかった。
いつしかアンケスエンアメンの姿は人工池の中に消えていた。
彼女が摘んでいた薄紅色の蓮の花があたりに散開している。
「アンケスエンパーテン様は、ワジェト神に導かれてラー神の元へ旅立たれたのです。」
ホルエムヘブに言われるまでもなく、ムトネドイェメトもアンケスエンアメンの死を感じていた。
「アンクエスは最期まで王妃であることを望んだのですね。」
それもアンケスエンアメンではなく、アンケスエンパーテンとしてあることを選んだのだ。
「例えそうだとしても、アンクエスをあのままにしてはおけないわ。」
踏み出せば手の届く範囲にいるのに、ホルエムヘブはムトネドイェメトの身体を捕らえて離さなかった。

「アンケスエンパーテン様のお身柄は、私が責任をもって、かの地へご案内致します。」
突然のサライの申し出にホルエムヘブのみならずムトネドイェメトも驚きを禁じ得なかった。
しかもサライはそれがどこであるか言わなかったが、ネフェルティティが葬られたのと同じ場所であると匂わせての発言である。
だが、驚きながらもそれが誠から出た言葉であると信じられた。
「なぜ、サライがそこまで?」
「タドゥ・ヘパ様も、私には限りなく良き生徒でございましたよ。」
遠い目をしたサライをムトネドイェメトはどこかで見たような気がした。
あれは・・・。
「北の離宮の姫君。」
ふと洩らした声にサライは頷かないまでも同意の眼差しを向けている。
あの時は詳しく聞き損ねたが、どうやらそれに関係していることだとムトネドイェメトにも察しが付いた。
「けれども、もはや私の口から申し上げるべきことではございません。」
穏やかな口調ながらもサライの決意は固いようだった。
「ホルエムヘブ殿にとっても悪い取引ではございますまい。」
アンケスエンアメンがホルエムヘブを拒否していることをテーベで知らぬ者はいない。
その彼がアンケスエンアメンの遺体を処置したとなると、後に禍根を残すことになるのは明白だった。
例えヒッタイトとの間に戦争を起こしエジプトを余計な混乱に陥れた責任を追及されてしかるべき存在であったとしても、アンケスエンアメンがエジプトの第一王妃である限り、ホルエムヘブには不可侵の相手なのだ。
「それでよろしいか?」
ホルエムヘブはムトネドイェメトに問うた。
いつしかムトネドイェメトを束縛していた腕が緩み、触れるだけの抱擁に変わっていた。

アケトアテンの王道はナイル川に沿って創られている。
その道をムトネドイェメトはホルエムヘブとふたりだけで歩いていた。
ラムセスはその少し前に一番近い兵営へ先触れとして向かったところである。
「今頃はサトラーからこってり絞られていることだろう。」
「では、サトラーもこの近くまで来ているのですか?」
「ヒッタイトから休戦の申し入れがあったところで、ひとまずの目的は達せられた。あとはライアに任せても問題ない。私にとってはむしろこちらの方が重要でした。」
「でも、アンクエスは最期まであなたをファラオに指名することを拒否したのでしょう?」
アイの死後はホルエムヘブを王位に就けるしかないことをアンケスエンアメンは知っていたが、彼女はアンケスエンパーテンとして最期まで拒否することで己の意志を貫いたのだ。
「確かにアンケスエンパーテン様は拒み通された。が、アンケスエンアメン様は別の方法を示して逝かれたのです。」
そこでホルエムヘブは一旦言葉を切った。
「ムトネドイェメト様はご自身の愛称がどのような意味を持っているかご存じか?」
「ムトのことですか?」
聞いてから、ムトネドイェメトは首を傾げた。
「ネリア女官長から禿鷲を意味すると聞いたことはありますが。そういえば、アシェリの貴婦人ともサトラーが言っていたような。」
答えながら、なぜ急にそんなことを聞いてきたのかムトネドイェメトは疑問に思った。
エジプトには多くの神々が存在するが、よもやその中の一人と同じ名前であるとは思わなかったのである。
ムトネドイェメトは第一王妃の代理としていくつかの祭祀に参列したことはあるが、全ての祭事に精通しているわけではなかったのだ。
「テーベではアメン神の妻のことをムトとも呼ぶのです。そしてムトは神聖母として崇められている。」
そこまで話すとホルエムヘブは再び話題を元に戻した。
「今のエジプトにはヒッタイトと互角に戦う力はない。だが、いずれまたヒッタイトとは争う時が来る。その時のために私はエジプトに力をつけさせたい。アメンやアテンに縛られることなく、公平な方法でかつての栄光を取り戻したいのです。」
ホルエムヘブはどこまでも正直に自分の描くエジプト像を告げた。
けれども、その実現に王妃に継ぐ者としてあるムトネドイェメトの存在が必要であることは曖昧に伏せて言わなかった。
「あなたは王国の名誉を継ぐ者として育ったお方だ。けれども、継ぐべき王国がひとつだけではないことを考えたことがおありだろうか。」
ホルエムヘブの最後の質問はムトネドイェメトに静かな一石を投じていた。

いつしかナイル川の水辺に青い蓮の花が混じり始めた。
「あれは、ロータス?」
「そうです。このあたりはネフェルティティ様の意向でロータスとパピルスがともに植えられていたと記憶しています。」
その時なぜか青い蓮の花がアンケスエンアメンの抱えていた薄紅色の蓮の花に重なった。
そして、アンケスエンアメンが「欲しいの?」と誘うように尋ねた声が再び聞こえたような気がしたのだ。
あの時には答えを返す間がなかったし、また欲しいとも思わなかったのだが、水面に揺れるロータスを間近にして、ムトネドイェメトはひとつの答えを導き出していた。
「ええ、欲しいわ。」
今度ははっきりとムトネドイェメトは答えた。
「ムトネドイェメト様?」
突然あげられた声に訝ったホルエムヘブを尻目に、ムトネドイェメトは水辺に近づくとロータスを茎からポキリと折った。
青い花びらがひとつ、またひとつとムトネドイェメトの腕の中で広がっていく。
ホルエムヘブが見守る中でムトネドイェメトはロータスを次々と摘んでいった。

「何をなさってるんですか?」
気が付くとホルエムヘブの側にサトラーが立っていた。
彼女の背後には、神妙な面持ちのラムセスとそれに連なる兵士達が控えている。
「随分と早かったではないか。」
予定では、アケトアテンの入口当たりで合流することになるだろうと思っていたのだが、ここはまだ北方離宮の域を離れていなかった。
無論、ムトネドイェメトがロータスを摘むなど予定外の出来事はホルエムヘブの予測からは抜けている。
「いつまでそのまま見ていらっしゃるおつもりですか?」
先ほどより少し強めの口調でサトラーは尋ねた。
「仕方あるまい。ムトネドイェメト様がそうしたいと思われている以上、少しくらいの遅れは・・・。」
答えながらホルエムヘブはサトラーの尋ねた真意に気が付き、急に押し黙ってしまった。
言われるまでもなくホルエムヘブはムトネドイェメトを欲していた。
アケトアトンで馬上のムトネドイェメトに見えた時から惹かれていたといっても過言ではない。
だが、時が経つに連れ彼女の存在そのものが自分の野心の実現に不可欠なものとなってしまい、どこまでが自分の本意なのかわからなくなってしまったのだ。
そしてそのことを決定付けたのがアンケスエンアメンだった。
アンケスエンアメンはホルエムヘブをファラオに指名することは拒んだが、エジプトの行く末は託して逝ったのだ。
このままテーベに戻れば、ムトネドイェメトがアメン神の神聖母として宣託を受け、ファラオの指名権を得ることは間違いなかった。
その時まで待つのもひとつの道ではある。
だが、サトラーは責めるような眼差しでホルエムヘブを見上げていた。

つと目をそらせたホルエムヘブに再びサトラーは声を掛けた。
「パピルスでしたら、あちらに生い茂ってます。」
言われた方向に目を向けると、確かにパピルスの茂みが水辺に揺れていた。
上エジプトの象徴たるロータスと下エジプトの象徴であるパピルスとを共に持つことでファラオはエジプトを継承する。
いかにもアメン神の巫女らしい発破のかけ方にホルエムヘブも心を決めたようだった。
ホルエムヘブは黙ったままパピルスの茂みに向かうと、剣先で薙ぎ払うようにしてひと山ほど刈り取った。
パピルスの束を抱えたホルエムヘブがロータスの花を抱えたムトネドイェメトに近づいていく。
ホルエムヘブが声を掛けるより先にムトネドイェメトは振り返った。
ロータスを胸に抱いたムトネドイェメトの姿は、まさにアシェリの貴婦人にふさわしく堂々たる輝きを放っていた。
「ムト。」
その時初めてホルエムヘブはムトネドイェメトを愛称で呼んだ。
「私にはアメンの妻ではなく、あなた自身の愛称としてこれからもそう呼ばせて欲しい。」
同時にぎこちないしぐさででパピルスの茎を一掴みムトネドイェメトに差し出した。
パピルスとロータスの交換はファラオの婚姻に帰するもの。
ホルエムヘブの言動に大いなる矛盾を見いだしながらも、ムトネドイェメトは問い返すようなことはしなかった。
言葉で返すかわりに、ムトネドイェメトもまた胸に抱いていたロータスを1輪抜き出すとホルエムヘブに差し出したのだった。

遥か砂漠の果て、エジプトの地でミタンニ王国王女ムトネドイェメトは第18王朝最後のファラオ、ホルエムヘブの王妃として生涯を終えた。
父王が願ったとおりに故国の名誉を継ぎ、夫が望むとおりに王国の名誉を損なうことなく、彼女自身が目指したとおりに次代への繁栄を担った一生であった。


あとがきに代えて