妖(あやかし)秋の午後

薄紅の空間。
ディアーナのお気にいりだという、その場所は狂おしいまでに咲き乱れる桜に埋め尽くされていた。
「…なんだか、怖いくらいですね」
 木立の中、緩やかな斜面を上りながらシルフィスはつぶやいた
「そうかしら?」
 ディアーナが小首を傾げる。
 ふわりとその髪が風に揺れた。舞い散る花びらより幾分濃い色の髪。

 −亡くなったお母様の髪はわたくしよりも淡い色合いでしたの−。
 いつだったか、少し切なげな表情でディアーナが言った。
 …かの女性の髪はこの桜のような色だったのだろうか。
 ディアーナは母親似だという。
 ディアーナの母親。レオニスが忘れられぬ女性。
 その面影を残すというディアーナ。
 レオニスがディアーナに示す優しさ。
 ディアーナがレオニスに向ける信頼。
 それらが自分の心の中に昏い想いを呼び起こす。
 …私はどうにかしているな。
 シルフィスは桜の花から目をそらした。
 突風が巻き起こり、視界を桜の花びらが覆い尽くした。風がおさまり、視界が晴れた時、ディアーナの姿は消えていた。

「姫っ!?」
 慌ててシルフィスは周囲を見回した。ディアーナの気配はおろか、小動物の気配もない。
風はぴたりと止み、静寂が辺りを支配している。
まるで何かが息をひそめて、こちらを伺っているかのような感覚にシルフィスは焦りを覚えた。
「姫っ、どこにいらっしゃるのですかっ!」
 くすくす、くすくす。
 どこからともなく忍び笑いが巻き起こる。
「何者だっ!」
 とっさに剣の柄へと手を伸ばす。
「望んだのはお前だろう?」
 からかうような、嘲るような声が響く。油断なくシルフィスは視線をめぐらしたが、声の主は目には映らない。
「いなくなってしまえと願ったろう?」
 シルフィスは唇をかんだ。否定することが、できなかった。
「否定できるはず、ないものな。お前は自分が何より大切なのさ。
嫉妬の心を抱く自分を認められないんだ。醜い自分を見たくないから、あの娘がいなくなればいいと思っているんだろう?」
 心の奥底を見透かしたような言葉にシルフィスは肩を震わせた。
「あの娘がいなくなったところで、あの男がお前に目を向けると思っているのなら、とんだ楽天家だな。
あの男はお前なんか、なんとも思っちゃいない。あの男が見ているのは、過去さ」
「…そんなこと、分かっている」
「分かっちゃいないさ。お前はあの娘が羨ましいのだろう?あの女の娘だから。
お前はあの女になりたいのだろう?あの男が自分を見ないから」
「黙れっ!」
「お前の姿を変えてやろうか?」
 ふわりと何かの気配がシルフィスを包んだ。
 見ているうちに剣を握り馴れた手が淑女の手に変化した。
体が丸みを帯び、女らしい曲線を描く。
柔らかな桜色の髪が流れ落ちる。
 自分が欲した姿。レオニスが恋い焦がれた女性の姿。
 呆然とシルフィスは立ち尽くした。
「…感謝する」
 知らず知らず唇が皮肉な笑みを形づくる。翠緑の瞳が強い輝きを帯びた。
「いかに自分が愚かであったかを思い知らせてくれて」
 シルフィスはゆっくりと剣を抜き放った。
「私は私だ。私以外の何者にもなれはしない。…私は勝手に、人の心に踏み入るような者は許さないっ!」
 シルフィスは己の勘を頼りに何もない空間を切った。どこか遠くで笑い声が聞こえ、桜の花びらが舞った。

 自分を呼ぶ声に、ゆっくりシルフィスは瞼を上げた。
 すぐ目の前に心配そうに覗き込むディアーナの顔があった。その大きな瞳が涙で潤んでいる。
「姫?…御無事でしたか…」
「わたくしは平気ですわ。どこか痛みます?なかなか目を開けないのですもの、わたくし、どうしようかと…」
 ぼんやりとシルフィスは何が起きたか思い出した。斜面に突き出して生えていた桜の古木が突如として倒れて来たのだ。
咄嗟にシルフィスはディアーナを庇って、避けたのであるが、その拍子に頭をどこかへぶつけたらしい。
 シルフィスはゆっくりと起き上がった。
「軽い脳震盪を起こしたようですね」
 両手両足を動かして、怪我の有無を確認しながら言う。
「心配をおかけしました」
「いいえ、いいんですわ。わたくし、シルフィスがいなければ、桜の下敷になっていましたもの」
 シルフィスは倒れた桜の木に目を向けた。ほとんど朽ちている古木が、花を咲かせた一枝。
それは刃物で切ったようにすっぱりと切断されていた。
「シルフィス?」
「…なんでもありません」
 シルフィスは軽く頭を振った。
 どうやら私は古木に宿る妖に惑わされたようだな…。いや、諭されたのか。
 シルフィスは苦笑を浮かべると花枝を拾い上げた。
「この枝で挿し木ができるでしょうか?」
「わかりませんわ。帰ったらシオンに聞いてみましょう。…もう大丈夫ですの?」
「具合が悪そうに見えますか?」
「いいえ…。なんだか晴れ晴れして見えますわ」
 不思議そうにディアーナが言う。
「打ち所が良かったのかもしれませんね」
 その言葉にディアーナは噴き出し、この様子だと心配ないですわねと笑いながら言った。
 …妖は、自分の心に潜んでいたのかもしれない。
 もはや薄紅の桜を見ても心が痛まぬことに気づき、シルフィスはディアーナとともにいつまでも桜の花を眺めていた。

おわり

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