冬来

冷たい雨が大地を潤していた。
 こんな日は、外に出掛けることもなく、一日をこの小さな研究所で過ごす。
 シルフィスは緑の瞳を窓の外に向けた。
 見えるのは灰色の空。静かに降り続ける銀の雨。滴の伝う紅葉した葉。
 雨音に誘われるように心の底に隠された不安がひそやかに頭をもたげる。
 どうして自分はここにいるのか。
 答えははっきりしている。
 自分はあの魔導士が好きだから。
 けれど…。
 自分のできることは、あまりにささいなことばかりで。
 自分の役割は他の誰かと代わり得るもので。
 ここにいるのは自分でなくてもよいのだと、もう一人の自分が言う。
 シルフィスは不安から逃れるように立ち上がり、外に向かった。

 ふとキールは書物から顔を上げた。
 窓から見えるのは落葉を始めた枝越しに見える曇天。ひそやかに降り続ける雨。
 シルフィスは何をしているだろう。
 彼女は自分の助手としてこの小さな研究室で共に暮らしている。
 キールは立ち上がった。
 部屋にも居間にも、小さな建物のどこにもシルフィスの姿は見えなかった。
「…出掛けたのか」
 こんな雨の中を?
 不安がよぎる。
 外衣に手を伸ばしかけ、一瞬、ためらう。
 自分は彼女を信じている。彼女が自分に何も告げず、いなくなることはない。
 だが、この不安は…別のものだ。
 キールは外衣をつかむと外に向かった。

 騎士になれなかった元騎士見習い。
 男でも女でもない分化中のアンヘル族。
 魔力を持たない、魔導士の助手。
 なんと自分は中途半端な存在なのだろう。
 あてもなく歩いているうちに、いつの間にか郊外の森まで来ていた。
 彼が一人で過ごすために訪れていた場所。
 自分が彼に会うために足を運んだ場所。
 強く降り出した雨を避けるためにシルフィスは大きく枝葉を広げた大木の下に身を寄せた。幹にもたれかかり、体を休める。
 地面に敷き詰められた鮮やかな色の落ち葉を濡らす雨を眺めながら、どれほどの時が過ぎたかはわからない。
「何してるんだ、風邪をひくだろう」
 腹立ちを含んだ声とともに外衣が体を包んだ。
「…キール」
 緑の瞳が間近にのぞきこむ。
 いらだちと心配がその目に浮かんでいた。
「どうしたんだ?」
「…わからなくなったんです。私があなたのそばにいる理由が」
 キールは微かに顔をゆがめた。
「それは…もう、俺に愛想を尽かしたということか?」
「違います!私はあなたが好きです。前と変わらぬくらいに、いいえ、前よりもずっと。この思いは私のなかで唯一確かなものです。…ただ、今の私にはそれだけしかない」
 シルフィスは俯いた。
 金色のまつげが震える。
「あなたのそばにいたい。でも、私にできることは…私でなくとも、できることばかりです」
「そんなわけないだろう。誰がお前の代わりになれるんだ?お前の代わりになんて、誰もなれない」
「私はあなたの重荷になりたくないんです、キール」
 顔を上げて、瞳をのぞきこむ。
「あなたに寄り掛かるだけでなく、自分の足で立っていたい。それなのに、とるべき道を見付けられない。あなたから離れたくないからこそ、そうしたいのに」
 重荷になるなんてことは決してあり得ない。
 そう口にするのは簡単だった。
 だが、シルフィスは気休めを望んでなどいない。
 例え心からの言葉であっても、未来を語る言葉である限り、不確定なものだから。
 キールはじっと翠の瞳を見据えた。
「…それなら、協力するから。一人で何もかも抱え込まないでくれ。そのために、一緒にいるんだろう?」
 もどかしげに、違うのかと問いかける。
 シルフィスはゆっくりと瞬きした。
 その表情と言葉に、自分が共にいたいと願う、まさにその人に背を向けようとしていたことに気づかされた。
「…手伝ってもらえますか?」
 どうにか唇を動かし言葉を紡いだ。
「そうすると言っただろう」
 憮然とした調子で応え、泣き笑いの顔になった恋人をキールはしっかりと胸に抱き締めた。
 天から落ちる滴はいつしか真っ白な雪のかけらにかわっていた。

おわり

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