銀木犀

 秋の装いを始めた森の中を、ゆっくりと散策していたシルフィスはほんのりと漂う香りに足を止めた。
 金木犀?
 どこにあるのだろうと見回し、小道をやや離れた所にこんもりと緑の葉を茂らせる樹木の姿をとらえた。葉陰に隠れるように、そっと咲く小さな花は人目を避けているかのようだが、その香りは不思議なほどに人を引きつける。シルフィスは自然にその茂みへ近づいた。花は白く、香りの主は金木犀ではなく、銀木犀であった。
 木陰に、意外な人物の姿を見いだして足を止める。
 吟遊詩人の青年が一人静かに佇んでいた。
 広場や通りでよく大勢の人に囲まれている吟遊詩人が実は一人を好むことをシルフィスは知っている。笑顔で愛想良く人々に接する彼だが、人に向ける瞳の底には冷たいものが沈み、決して心を許そうとしない。そうかと思えば、時として驚くほどに優しく慈愛に満ちた眼差しを向ける。
 彼は人間という愚かしい存在を激しく憎むと同時に愛おしんでいるのだろう。
 邪魔をせぬように、シルフィスはそっと踵を返そうとしたが、柔らかな声で呼び止められた。
「シルフィス」
「…お邪魔してしまって、すみません」
「あなたが謝ることはありませんよ。…この香りは誰のものでもないのですから」
 微笑を浮かべてイーリスは樹木を見上げた。
「イーリスもこの花が好きなのですか?」
 言ってから、我ながら馬鹿なことをと呆れた。嫌いならば、こうして近くで愛でるはずがない。
「ええ。この香りがすると秋になったことをしみじみと感じます。…来年、この香りを楽しむこともないでしょうが」
「どこか遠くへ行かれるのですか?」
 儚げな、今にも消えてしまいそうな姿にシルフィスは思ったことを素直に尋ねた。この樹木が育たぬような遠い土地まで旅するのかと考えたのだ。
 イーリスは微かに目を見張った。
「ええ、とても遠いところです」
 優しく目を細めた吟遊詩人の若草色の髪には、白い小さな花が香りとともにまとわりついていた。
「…寂しくなります」
「社交辞令でも、嬉しいですよ」
 イーリスは綺麗な笑顔を返した。
 ごうっと強い風が吹き抜け、可憐な花と香りを散らせた。
 吟遊詩人が倒れたという噂をシルフィスが耳にしたのは、それから、わずか二日後のことだった。


 開け放たれた窓を通して風が甘い香りを運んできた。
 ふっとシルフィスは机の上の書類から顔を上げた。
 香りは彼女の記憶をそっと呼び覚ました。
 これから、毎年、この香りをとらえる度に、彼のことを思い出すのだろうか。
 澄んだ秋空をシルフィスは見上げた。
 白い雲が遙かな高みを流れてゆく。
 もし、あの時、あなたとともに行くことを選んでいたら、今頃は、一緒にこの香りを楽しんでいたのでしょうか。
 微笑とも苦笑ともつかぬ笑みがシルフィスの口元に浮かんだ。
 自分は今の暮らしに満足している。
 クライン王国史上初の女騎士としての地位を得、ほんの少しずつであるが、アンヘル族への人々の偏見を修正しつつある。そのことが彼女に自信を与えた。
 私は、後悔していません、イーリス。
 どこか遠い異国の空の下にいるであろう吟遊詩人にシルフィスは心のなかで語りかけた。
「おーい、シルフィスー!」
 窓の下から、同僚のガゼルの声がする。
 相変わらず、元気があり余っているようだ。
「なに、ガゼル?」
 立ち上がって、窓に寄る。一年前とは比べものにならないほど背の伸びた少年がこちらを見上げている。
「お前に客だってさー」
 あっち、と面会室のある方向をくいっと親指で示す。
「わかった、すぐ行く」
 シルフィスは窓を閉めると部屋を出た。
 ふわりと甘い空気が揺れる。
 閉ざされた部屋の中で、記憶をのせた香りがいつまでもひっそりと漂っていた。

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