「迷想」〜前編〜

 静かであるはずの書庫に元気のいい少女の声が響いていた。仕事に必要な書物を取りに来たアイシュはその声に苦笑をこぼした。
「少しは人の言うこと聞きなさいよね!」
「お前がそれを言うか?」
「少なくとも、あたしは自分の健康を人に気遣わせたりしないわよ」
 書棚を回ると少女が手を伸ばして双子の弟の額に当てるのが見えた。
「ほら、やっぱり熱がある!さ、本なんか置いて帰った、帰った!」
 問答無用とばかりに本を閉じてせきたてる。しぶしぶながらも素直にキールは立ち上がった。これがアイシュ相手ならば、かえって、むきになって無視したことだろう。
「ちゃんと寝てるかどうか、後で調べに行くからね!」
「それは安眠妨害と言わないか?」
「なに〜!」
 拳を振り上げたメイにひょいとキールは肩を竦めて、書庫を出て行った。
 その背中を見送って、やれやれとばかりにメイは吐息をこぼした。それから、こちらに気づいて、ぱっと笑顔になった。
「あれ、アイシュ!いたんなら、アイシュもあいつに言ってくれればいいのに」
「僕の出る幕はなかったですよ〜」
 あははと笑って動揺をごまかす。
「ひょっとして」
 榛色の瞳にのぞき込まれて、どきりとする。
「弟を取られた気分になってるとか?大丈夫、心配しなくたって、アイシュはキールにとっては一番大事な家族だってば」
「そうだといいんですけどね〜」
 にこにこと笑顔で応じながら、アイシュは全く別のことを考えていた。
 全く逆なんですよ、メイ。僕はあなたをキールに取られたような気がしたんです。
 メイへの思いが「妹」に対するものではないことをアイシュはようやく自覚したのだった。

 王宮の中庭でメイはシルフィスとともにディアーナの課題が終わるのを待っていた。開け放たれた窓辺でカーテンが風に揺らめいている。
「…いいなぁ、ディアーナは」
 ディアーナの部屋を眺めていたら、ふとそんな呟きが口から漏れた。
「どうしてですか?」
「だって、アイ…」
 思わず、本音がぽろりと転がり出そうになってメイは慌てた。
「アイシュ様がなにか?」
 シルフィスは妙な所で勘がいい。
「か、家庭教師がアイシュで羨ましいと思ったのよ。アイシュは優しいし、丁寧だし。キールなんか、ぽんぽん殴るし、口うるさいんだから!」
「そう、ですか?」
 シルフィスが小首を傾げる。
「確かにキールはぶっきらぼうかもしれませんけど、質問したらきちんと答えてくれるし、分かるまで辛抱強く教えてくれるじゃないですか」
「それは!相手がシルフィスだからよ。あたしになんか、こんなことも分からないのかって、厭味の連続よ」
 自分が山ほど口答えをすることは棚に上げてメイは言った。
「それだけ親しいということでしょう?」
 話題がそれたことに内心ほっとしていたメイはシルフィスのどこか寂しげな表情に気付かなかった。
「遠慮がないってのは確かだけど。嬉しくともなんともないわ」
 そう口では言うものの、異世界人として腫物に触れるような扱いをしないでくれるのは助かっていた。親身になってくれるからこそ、あの人付合いの苦手な魔導士が口うるさくなるのだということも分かっている。
 その点、アイシュは誰にでも優しいから、距離が測れない。でも、ディアーナに対する態度は少し違うのは分かる。ディアーナが王女だからなのか、それともディアーナがディアーナだからなのかは分からない。
「もうっ!まだ終わらないのかなぁ」
「メイ、そんな大きな声で言ったら聞こえてしまいますよ」
 全くその通りで、ディアーナに早く勉強を切り上げてくれと目で訴えられていたアイシュが授業を終えると告げたのは、その次の瞬間だった。

 ダリスの新王との婚約が整って以来、ディアーナへの「教育」はさらに強化されていた。本人も王妃としてふさわしい人間になるべく努力しているため、以前のごとく王宮を抜け出すことも少ない。
 友人とお菓子と紅茶に囲まれて一時の幸せを味わっていたディアーナはふと金髪の友人が浮かない顔をしていることに気付いた。お菓子にも紅茶にも余り手をつけていない。もとより、おしゃべりではないが、いつもにまして口数が少ない。
「シルフィス、具合でも悪いんですの?」
 驚いたようにシルフィスは顔を上げた。
「え?いえ、そんなことはありませんが…このところ、余り食欲がないので」
「何か悩みごとでもあるの?」
 あたし達で良ければ相談に乗るよとメイが気遣わしげに顔を覗き込む。
 シルフィスはしばらくためらった後、口を開いた。
「…多分、分化が始まったのだと思います。分化の時期には、体になんらかの変調を来すそうですから」
 ディアーナとメイは目をまるくした。
「えーっ!いつ頃から?」
「大体、十日程前からです。始めは風邪かなと思っていたんですけど」
「訓練に参加していても大丈夫ですの?」
「ええ。少し熱っぽい感じがするだけで、特に障害はないですし」
「本当に?レオニスに言って、お休みを頂いた方がよろしいんじゃありませんの?」
「いえ。村では、病気ではないのだから大丈夫だと分化の始まった子供に親が言い聞かせてましたから、心配はいらないと思います」
「それならよろしいのですけれど…」
 まだ心配そうな顔をするディアーナに大丈夫ですとシルフィスは笑顔を向けた。
「ねっ、どっちになりそうか、聞いてもいい?」
 メイが身を乗り出す。
「まだ分かりません。…でも、もし、男になっても友達でいてもらえますか?」
「当たり前じゃん!」
「どちらになっても、シルフィスはシルフィスですわ」
 二人の力強い言葉に、シルフィスの顔から不安そうな表情が消えた。
「ありがとうございます」
 ディアーナは小さく首を傾げた。
 シルフィスには好きな人がいるのではないかしら?
 以前は男女どちらでも分化できればいいと言ってましたもの。もし、今もそう思っているなら、もっと喜んでいるはずですわ。
「大丈夫、きっと女神様が良いように計らってくださいますわ」
 にっこり笑って言ったディアーナをメイとシルフィスはどこか不思議そうな顔で見詰めた。


 書庫から帰る途中でキールはその人物を目にした。その姿を認めた途端に足は意志に反して動かなくなる。
 栗色の髪の少女が背伸びして耳にささやく。
 唇が触れるかと思うような至近距離。
 ささやきを受け止めたアンヘルの民の唇が柔らかな笑みを刻んだ。
 途端に心のなかに名付し難い感情が渦巻いた。
 衝撃にも似た、しかし、もっと別のもの。
 恥ずかしそうな顔で身を引くと、異世界の少女は弾むような足取りで立ち去った。
 緑の目が彼を捉えた。
 先程とは違う種類の笑みを唇に浮かべる。
「心配しなくても、メイにとって私は異性じゃありませんよ、キール」
 未分化の自分自身への自嘲と異世界の少女の保護者あるいは別の存在に向けた微量の揶揄を込めた言葉にキールは我に返った。
「別に心配なんかしていない」
 憮然として応じると、シルフィスはからかうような笑みを返した。
 本当に?
 まるで心の奥を見透かされた気がして、そのままキールは背を向けた。
 メイが自分にとって特別な存在だということは間違いない。
 自分とはまるで違う視点を持つ少女には度々驚かされ、そして、助けられてきた。
 だが、今、自分が抱いた焦りに似た感情の原因がキールには分からなかった。

 騎士団宿舎に向かって歩きながらシルフィスは友人の言葉を思い出していた。
「あのね、シルフィス、女の子になった時は、アイシュをとらないでね」
 恥ずかしそうな声が彼女の恋をうち明けた。
 あの時、自分が感じたのはちょっとした驚きと友人の恋を祝福する気持ち。そして、安堵。メイが恋したのが、アイシュであったことに、自分は安堵したのだ。
 厭になるな、私は。
 メイが他の人間に恋したからといって、彼が自分に振り向いてくれるわけがないのに。
 彼にとって自分は何なのだろう?
 有用な研究対象?未分化のくせにメイのまわりをうろちょろする目障りな存在?
 知らず知らず唇から溜息がこぼれていた。
 いっそ、男に分化すればいい。そうなったら、この思いもすっぱりと諦めることができるだろう。
 しかし、身体は心よりもずっと正直だった。

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