クライン王国の北の国境地帯における砦の上には曇天が広がっていた。
砦から煙が幾筋か空に立ちのぼっていた。
魔導士達の活躍で落雷によって引き起こされた火事は鎮まったものの、敵の奇襲による被害は甚大だった。
手当の甲斐もなく、幾人もの人々が命を落とした。
一日でこれほどん多くの死に立ち会ったのはシルフィスにとって初めての経験だった。

無力だな、私は。

負傷者の救助に走り回り、心身ともに疲れ果てていたシルフィスはその気配に気付くのが一瞬遅れた。
生来の俊敏性がなければ、命を落としていたかもしれない。
物陰から飛び出して来た敵兵の最初の一撃をかわすのが精一杯だった。
応戦すべく、剣を抜き放った腕に鋭い痛みが走る。
切られたと認識するまでに一呼吸あった。
「もらった!」
勝機をとらえたとばかりに隙を見せた敵兵に、シルフィスはとっさに左手に持ちかえた剣を振るった。
剣はどちらの手でも使えた方が有利だというレオニスの言葉に、ガゼルと二人で練習に励んだ成果である。
シルフィスの一連の動きはなめらかだった。
敵の刃をかいくぐり、擦り抜け様に胴をなぐ。
振り向いたシルフィスの頬に紅の飛沫が散った。
絶命した敵兵が倒れるのが、やけにゆっくりと感じられた。
初めて人の命を奪った。
戦場に向かうことが決まった時から、覚悟はしていたつもりだ。
それなのに、体の震えが止まらなかった。
シルフィスは呆然と己の剣から滴り落ちる血を眺めていた。
「シルフィス」
名を呼ばれ、びくりと肩を震わせた。
長身の騎士の目が、自分に、そして地面に倒れた敵兵に向けられた。
「…他にも伏兵がいる可能性があるな。魔導士達と合流する。行くぞ」
そのままレオニスは背を向けた。
シルフィスは、はっと我に返った。
剣を鞘に収めると、慌てて足早に後を追う。
「…心を鎮めろと言っても無駄だろう。だが…表には出すな」
シルフィスは息を飲んだ。
自分が動揺を表に出せば、心優しい友人は必ず心配するだろう。
声が震えぬように、細心の注意を払って、短く答える。
「はい、隊長」
この道を選んだのは自分。
共に歩むために、同じものを見るために。
守られるよりも、共に戦うことを選んだ。
シルフィスは手の甲で血をぬぐった。

北の砦を後にして王都への帰路についた時、栗色の髪の友人が、硬い表情でぽつりとつぶやいた。
「…知ってる人がいなくなるのはいやだな…」
いつも前向きで自分を元気付けてくれる少女が、この時ばかりはひどく頼りなげな存在に見えた。
「私もです。…だから、そうならないために、騎士がいるんです」
言って、ああ、そうかとシルフィスは自分自身納得した。
国を守るのが「騎士」ならば、殿下もシオン様も「騎士」だろう。
だから、彼らはためらわないのだ
…時には非情と思えるほどに。
大切な人々にこんな表情を、こんな思いをさせないために、戦うのだ。
国を守るための騎士。大切な人々の暮らす国を守るための騎士。
彼らを守るためならば、自分は命を捨てられるだろう。


ダリス王国に潜入して、同国の魔法兵器製造の証人を連れ帰る。
近隣諸国を説得し同盟を結ぶために、証人の存在は欠かせなかった。
その任務にシルフィスは自ら名乗りを挙げた。
時間を稼ぐために、ディアーナがダリス王との政略結婚を承諾していた。
ディアーナはかけがいのない心を許せる友だ。
だからこそ、失敗はできない。
任命と同時に騎士位を授けられた。
この王都に来た時の、最初の目標は騎士になることだった。
今、その目標は果されたが、自分にはすでに他の目標がある。
「死んだりしたら、承知しないからね!」
「そうですわ。絶対に許しませんことよ」
出発の前日、それぞれに自分に贈るお守りを携えて訪れた二人の友人は口を揃えて言った。
「死にません」
無理なく笑顔でシルフィスは答えた。

あなた達を悲しませるなんて、自分を許せませんから。
だから死にません。

シルフィスが二人の友人を送り出した後、ふらりと青い髪の魔導士が姿を現した。
「シオン様。この期に及んでまた厄介事を持ち込むなんてしませんよね?」
「おいおい、せっかく激励に来てやったってのに、それはないだろうが?」
「冗談ですよ」
軽く笑って応じる。
「まったく、言ってくれるねぇ。…シルフィス」
めったに見せぬ真面目な表情になったシオンをまっすぐにシルフィスは見返した。
「お前が志願したのは、あいつのためか?正直に答えろ。
お前が、名乗り出なければ、あいつが名乗り出ただろう。だから」
「違います、シオン様」
シオンの言葉を遮って、きっぱりとシルフィスは否定した。
「私自身のためです」
シルフィスの翠の目は揺るがなかった。
ふうとシオンは息を吐いた。
「それなら俺に言うことはない。…ま、せいぜい頑張って来い」
「ありがとうございます、シオン様」
ひらひらと手をふって、青い髪の魔導士は去って行った。
彼の言った言葉は少し前の自分にならそのまま当て嵌まったことだろう。
だが、今は違う。
彼の人にこれ以上、無理を重ねさせたくなかったのも事実だが、状況からみて自分が行くのが最適だと判断したのだ。
レオニスにしろ、シオンにしろ、彼らはクライン王国になくてはならない人材だ。
彼の人を見詰め、彼の人を追いかけて来た。
だけど、ただ追いかけるだけでは、決して追い付くことはできないのだ。
だから、自分自身の道を切り開くことに決めた。
同じ騎士としての、だけども異なる道を。
それはいつか交わるかもしれないし、決して交わらないかないかもしれない。
いつか後悔するかもしれないし、決して後悔しないかもしれない。
「…でも、私は行きます」
強い意志を秘め、シルフィスは誰にともなくつぶやいた。

「…行っちまったな」
金髪の若い騎士を見送った後、青い髪の魔導士は隣に立つ男に目を向けた。
「帰って来ると思うか?」
「シオン!」
青銀の髪の皇太子が咎める声を上げる。だが、黒髪の騎士は微苦笑を浮かべて、静かに言った。
「生き残るだけの力はあります」
「そーかい、そーかい。…あれはいい女になるな。帰ったら、口説いてもいいか?」
「…シオン」
呆れたようにセイリオスは額に手をあてた。
「もう私の部下ではありませんから、御自由に」
その言葉にセイリオスは軽く眉を上げた。シオンはにやにやと笑っている。
「じゃ、遠慮はいらないな」
「はい。…ですが」
深青の瞳で魔導士を見据えながら、レオニスは言った。
「私も身を引くつもりはありませんので」
「そーこなくっちゃな。恋仇が手ごわい程、燃えるってもんだ」
やれやれとセイリオスは肩を竦めた。
この魔導士がどこまで本気なのかは親友である彼にも分かりかねた。
だが、その事で思い煩う程の余裕は彼に与えられていない。
セイリオスは二人にこれからなすべき指示を出した。


無事、任務を果たして帰国したシルフィスはメイと合流して、その足でディアーナの一行を追った。
シルフィスと入れ違うように、ディアーナはダリス王国に向けて王の花嫁となるべく出立していたのだ。
道中、ディアーナが攫われたと聞いた時には心臓が止まるかと思ったが、攫ったのは、ちょうど行方を捜していたダリス王国の正当な王位継承者その人だった。
クライン王国を初めとする周辺諸国は彼を支持することを表明し、新たな国王がダリス王国に誕生した。
その後、しばらく混乱が続き、シルフィスはメイと共に国境付近を中心に奔走した。
メイもまた宮廷付き魔導士に任命され、人使いの荒い上司によって、いいようにこき使われていたのである。
数カ月を経て、ようやく二人が王都への帰途についたのは初秋のことだった。
「あーあ、いつの間にかあたしがこの世界に来てから、一年以上経ってるんだわ」
馬車に揺られながら、メイが言った。
「そう言えば、そうですね。…まだ、帰りたいですか?」
ううん、とメイは首を横に振った。
「全く帰りたくないって言えば嘘になるけど、あたしが一番帰りたいのは、別の場所になったから」
少しだけ照れ臭そうに、だけども幸せそうに、小柄な魔導士は言った。
「そうですか。…首を長くして待っていることでしょうね」
メイとその恋人は仕事上、何度か顔を合わせてはいても、ゆっくり話す機会などなかったのだ。
「そうだと良いけど。浮気なんかしてたら、どーしよ」
あの人物に限って、それはないと思ったのだが、シルフィスは笑って言った。
「その時は、締め上げるお手伝いをしますね」
「あはは、よろしく頼むわ」
「ああ、でも、姫が見張っていてくださった筈ですよ」
「うーん、持つべきものはやっぱり女友達だわね」
二人の明るい笑い声が馬車の外にまで響いていた。

皇太子への正式な帰還報告の場は薄紅色の闖入者によって雰囲気が一転した。
近ごろ、すっかり王女らしくなったと喜んでいた家庭教師達が見たら落胆したであろうが、本人はもとより、その場にいた誰もが気にも留めなかった。
ディアーナによって書庫から引っ張り出されて来た緋色の肩掛けの魔導士は人前でメイに抱きつかれて非常に決まり悪げな顔をしていたが、振りほどこうとはしなかった。
それをにやにや笑って眺めていたシオンが声をかける。
「いやー、お熱いねぇ。シルフィス、寂しいんなら、俺の胸を貸してやろ−か?」
「間に合ってます」
にっこりと笑顔で拒絶する。
「ああ?聞き捨てならない言葉だな。向こうで男でもできたのか?」
「秘密です」
「おいおい、それはないだろう。俺は一日千秋の思いでお前さんの帰りを待っていたんだぜ?」
「私の知るところではありません」
「冷たいねぇ。いつの間にそんな情のない人間になっちまったんだ?」
嘆かわしい、とシオンが言うと、セイリオスがすかさず言った。
「嘆かわしいのはお前だ、シオン。いい加減、目に付いた女官を片っ端から口説くのはやめてくれないか?お前に泣かされて退職する分だけ補充するのが大変なんだぞ」
「宮廷仕えの唯一の楽しみを俺から奪おうってのか?」
どうやらシオンは相変わらずのようだ。
シルフィスは苦笑をこぼした。
「シルフィスはまた奇麗になりましたわね」
「え?」
「なんだか眩しいくらい」
真顔でディアーナにそんなことを言われて、シルフィスは微かに赤面した。
「姫こそ。なんというか、とても大人になられて…」
「うふふ。あなたも、メイもですわ」
「そうでしょうか?あまり自分ではわからないのですが」

大人になった。
それが本当なら、少しは彼の人に近付けたのだろうか。

「ああ、そう言えば、レオニスのことなのですけれど」
まるで、その心を見透かしたかのようにディアーナが言った。
「もう知っているかもしれませんけれど、今年の春に階級が上がって、今では中隊長ですのよ。だから、宿舎にはいませんわ。今、休暇中のはずですから、明日にでもお屋敷の方へ挨拶に行ってみるとよろしいですわ」
「ええ、そうします」
「あ、それから、ガゼルですけど、今、お仕事で王都を離れてますの。会えば、きっとびっくりしますわ。前より、ずっと背が伸びてますの」
くすくすと笑いながら、ディアーナは親しい人々の近況を報告した。

騎士団宿舎の前でシルフィスは足を止めて、建物を見上げていた。
王宮に部屋を用意するというディアーナの申し出を断って、シルフィスはおよそ一年ぶりに宿舎に戻った。
夕暮れの中、訓練場から少年達の掛声が聞こえて来る。
「…懐かしいな」
ほんの一年前には、自分は彼らと同じように毎日訓練に励んでいた。
たったの一年。
それなのにひどく遠い昔の出来事のように感じられる。
そっと肩に手をあてる。
隊長に同行し、巡回中に受けた傷はうっすらと跡が残るだけだ。
あれから、何度となく傷を受け、そしてそれ以上に他者を傷つけてきた。
後悔はしていない。
彼らと対等に自分は自分の命をかけて戦ったのだから。
「まずは、今の隊長殿に挨拶するべきかな」
シルフィスはゆっくりと門をくぐった。

王都の閑静な住宅街の一角を訪れたシルフィスはその屋敷の主を目にして涙をこぼしそうになった。
この瞬間まで、自分がどれほど、今、目の前にいる人物に会いたがっていたのか自分でも分かっていなかった。
「…無事、帰還しました、隊長」
「ああ。よく戻った」
言って、レオニスは苦笑した。
「もう、隊長ではないのだがな」
「失礼しました、クレベール少佐」
「その呼び方も勘弁したもらいたいものだな、カストリーズ少尉」
からかうように称号で呼び返され、うっとシルフィスは言葉に詰まった。
「確かに、居心地の悪いものですね。…未だに慣れません。まるで、他人のことのようで…」
椅子を薦められ、腰掛ける。
執事とおぼしき初老の男がお茶を運んで来た。
カップを手に取り、シルフィスは軽く眉を上げた。
「これは…」
「近ごろでは、アンヘル族の村との交流が盛んになってきていてな。王都でも、手に入るようになった」
「そうなんですか」
シルフィスはほほ笑んだ。忙しくて、ここしばらく故郷との連絡は途絶えていた。

帰ったら、久しぶりに手紙を書こう。

「魔法研究院の方でも、アンヘル族の正式な受け入れを検討しているそうだ。キール・セリアンが頑張ったらしいな」
「キールが…」
昨日はそんなことを一言も言っていなかったが。
まあ、久しぶりの恋人との再会でそれどころではなかったのかもしれない。
気がつくと、深青色の瞳が自分を見詰めていた。
その優しく穏やかな表情に胸が高鳴る。
息苦しくて、逃げ出してしまいたいのに、目が離せない。
先に視線をそらしたのはレオニスだった。
あるかなきかの苦笑を浮かべて、カップを口に運ぶ。
シルフィスは肩の力を抜いた。
「…以前、お前は私の後をつけて神殿に来たことがあったな」
「気付いていらしたんですか?」
「当時のお前の尾行に気付かぬようでは、近衛騎士はつとまらん」
はあ、とシルフィスは決まり悪げにテーブルの上に視線を落とした。
「…亡き妃殿下は、マリーレイン様は私が初めて愛した方だった」
その告白に指先が冷たくなるのをシルフィスは感じた。
そのことは薄々感じ取っていた。
軍団長が彼の娘との縁談を持って来た時、ガゼルとともに立ち聞きしてしまった話からも、彼が過去に誰かを深く愛していたことが推測できた。
その時の縁談は、相次ぐ戦騒ぎで立ち消えになったという。
のろのろとシルフィスは顔を上げた。
レオニスはどこか遠くに視線をさまよわせながら、淡々と彼の過去を語った。

あなたは私にこの想いを諦めろというのですか?
若さゆえの情熱だと、それゆえ、断ち切れというのですか?


シルフィスは彼の顔を食い入るように見詰めた。
「…私はこういう人間なのだ」
いつかどこかで耳にした自嘲めいた言葉。シルフィスはただその姿を見詰め続ける。
「私はこのまま過去のしがらみに縛られ、虚ろな心を抱えたままに、ただ流されて生きていくものだと思っていた」
深青色の瞳がシルフィスをとらえた。
「だが、お前が現れた。お前が私に一途に向けて来る想いに気付いた時、私はお前を遠ざけようとした。
上官として距離を保てば、いつかは諦めるだろうと思った。
…お前のまっすぐな目が怖かったのかもしれん」
シルフィスは目をそらさなかった。
レオニスもまたその瞳を見詰め返す。
しばしの沈黙の後、レオニスは言葉を続けた。
「…だが、気がつけば、私の方が、毅然として時の流れに立ち向かうお前から目が離せなくなっていた。
お前は私に光をくれた。私の中で止まっていた時を解放してくれた。
私はようやく過去から、自分自身から解き放たれることができた。…お前には感謝している」
その先の言葉をシルフィスは聞きたくなかった。
レオニスが言おうとしているのは、自分の想いへの拒絶だと思われた。
「私はお前にふさわしい男ではない」
シルフィスは唇をかんだ。それでも、視線をそらそうとはしなかった。
「…私にこんなことを言う資格はないと分かっている。だが、私はお前を愛している。お前がこんな男でも良いというのなら、私のそばにいてもらいたい」
不意に視界がぼやけた。それが涙のせいだと自覚するのにシルフィスはしばしの時を要した。
次々と溢れる涙で、レオニスの瞳を見詰めつづけることがかなわなくなる。
「…そばにいさせて下さい」
「そばにいさせて欲しいと言うのは私の方だな」
武人らしい、堅い指先が頬をつたう涙をぬぐった。
「…私はあなたを愛しています」
シルフィスは初めてその想いを言葉に紡いだ。
部下としてでなく、騎士としてでなく、初めて一人の女性として自身の前に立ったシルフィスをその思いとともにレオニスは胸に抱きとめた。

おわり

創作:TOKO、CGれいり様