■星見ニ非ズ
銅雀台に政の中心が移ることになって、文官は文若を筆頭に超多忙な日々が続いている。文若の下で働く花も例外ではなく、大量に持ち込まれる書簡の区分けと整理に大忙しだった。連日、膨大な量の竹簡を裁くのは花が思っていた以上に重労働である。午前中はともかく、午後も遅い時間帯になるとどうしても集中力が途切れてしまい、文若に呼ばれても気が付かないくらいぼうっとしてしまうこともあった。

「花」
その日の夕刻近く、花はいつになくぼうっと書簡の整理をしていた。学習の成果か、ある程度文字が読めるようになっていたので、下読みの終わった書簡を文若が決裁しやすいよう案件別に並べ替えるのが、このところの花の主な仕事である。
「花!」
「は、はいっ」
何度か名前を呼ばれて、ようやく返事をした花に、文若は眉間に皺を寄せて言った。
「今日はもうよいから、部屋に戻って休め」
「え、でも、まだこんなに残ってますし」
午後から上がってきた未整理の案件は、まだ半分以上残っている。
「返事がすぐに出来ぬほど疲れているようでは、よい仕事なぞできん」
にべもなく言われて、花は返す言葉がなかった。実際、疲れているのは事実だし、この状態で、正確な区分けができるかと問われると、正直、自信がない。
「わかりました。今日はここまでにして、帰らせていただきます」
仕事に対して人一倍厳しい文若に、中途半端な状態のものを渡すわけにはいかないと花は諦め、書簡を机に戻した。
「よもやと思うが、夜遅くまで手習いなどしようと思っていないだろうな」
いつの間にか、文若が花のすぐ隣まできていて、目の下にうっすらとできている隈をそっとなぞり、眉間の皺が更に深くなった。
「えっと」
文若のいつもより低い声に、花は軽く目を泳がせた。文若は、花が疲れた様子を見せると、仕事を切り上げさせるようにしている。だが、花は、自分だけ早く休むのが申し訳なくて、自室で手習いをしてから寝ていた。

こちらの世界には電気がない。当然夜は真っ暗で、灯りと言えば燭台の頼りない炎と、月と星の淡い光だけである。少しでも文若の役に立てるよう、文字をひとつでも多く覚えたいのは山々だが、薄暗い部屋では、思うように成果が上がらない。眠れない夜などには、つい、頑張って徹夜めいたことをしてしまっていた。
「…無理はしてません」
辛うじて顔を上げ、そう答えたものの、目の下の隈を指摘されたあとだけに、後ろめたさが残ってしまう。
「焦ることはない。前にも言ったが、少しずつ覚えていけばよいのだ。お前はちゃんとやっている」
花を見下ろす文若の眉間には、依然と皺が寄ったままだ。
「お前に倒れられでもしたら、丞相があることないこと騒ぎ立てて仕事にならん」
ぼそりと付け足された言葉に、花はふわりと微笑んだ。丞相を楯に取っているが、文若自身も心配しているとわかっているからだ。
「とりあえず、今夜は早く寝ますから」
「とりあえず?」
やはり消えない皺に、慌てて花は言い直した。
「えーっと、隈が消えるまでは早く寝ます」
文若の心配はわかるけれど、花にだって譲れない一線はある。嘘はつきたくなかったので、文若の皺は消えないだろうが、当面は手習いせずに眠ることだけを約束した。

自室へ戻った花は、文若に約束した通り、手習いをせず早く床についた。だが、人は、疲れすぎても逆に目が冴えて眠れなくなるものらしい。特に今夜のように満月で明るい夜は、遠慮なく窓から入ってくる月光に自然と目がいってしまう。身体は疲れているはずなのに、眠気はどこかへ吹っ飛んでしまったようだ。
「ダメだ。全然眠くならない」
花はゆっくりと起きあがると、そっと寝台から抜け出した。同じ眠れないのなら、このまま寝台に横たわっているより、気分転換に、外に出てじっくり月を見てみたいと思ったのだ。
「月を見るのって久しぶりかも」
月を眺めた最後の記憶は、まだこちらに残るかどうか迷っていた頃、やはり眠れなくて部屋を抜け出した時に遡る。あのときは、月下に佇む文若を此の世に繋ぎ止めるのに必死だった。今は…。
「文若さん、まだお仕事してるんだろうな」
文官達の部屋付近の灯りは、かなりまばらになっているが、確実に残っている灯りがある限り、文若の仕事は終わらない。花のことはこうして気遣ってくれるのに、文若は、自分自身のことには全くといっていいほど無頓着だ。いつか過労で倒れるのではないかと、花は逆に心配していた。それでも、文若の仕事に対して、花は口出しできない。上司だからというより、それが文若の信念に基づいている行動だから、花には止めることができないのだ。

満月の月明かりを受けて、花はそっと回廊を進んでいった。文若の執務室に行くまでに、中庭を回遊しているところがある。まわりに建物がないこともあって、夜空を眺めるのにピッタリの場所だった。中庭に降りると、思ったとおり、満月の明かりに負けていない星の煌めきが頭上に広がった。
「すごい。満月でもこんなに星が見えるんだ」
満天の星空に、思わず感嘆の声がもれた。

「星の煌めきは人の運勢を表しているって、師匠は言ってたけど」
花が師匠・孔明から、星の話を聞いたのは、まだ玄徳軍にいた頃で、それも新野の戦い前の一度だけである。自分の道を見つけられなくて、迷っていた花に、孔明は一緒に星を見て道を示してくれた。その時に星見の話も聞いたような気がするけれど、よく覚えていなかった。
孔明の話は、この世界での常識なのだと思う。だが、花は、どうも釈然としないでいた。自慢できるほど天文学に詳しいわけではないけれど、肉眼で見える星には、恒星と惑星の二種類があって、それぞれ固有の軌道を持っていたと記憶している。
「木星とか火星とか、ぐにゃぐにゃな軌道を進むんだっけ」
外惑星の見かけ上の軌道が順行したり逆行したり、たまに停止してみたりと気まぐれなのも、花の世界では科学的に根拠のある話である。
折しも、満月の輝きにも負けず、ひときわ煌めいている星が目に止まった。
「月に負けない明るい星ってことは、」
火星なら赤、土星なら青白く見えるはずなので、消去法によって、黄色っぽく見えるのは木星ということになる。初めのうちこそ、明るく目立つ星しかわからなかったが、次第にその周りにある無数の星も認識できるようになった。天頂から降るように星が巡っている様は、なかなかに壮観だ。花は真上を向いたまま、その場に佇んでいた。

真夜中近くになって、ようやく文若はその日の仕事に区切りをつけて筆を置いた。やるべきことはまだたくさん残っているが、さすがにこれ以上は集中力が持たない。思考力の落ちた頭では、満足のいく仕事はできないと切り上げることにしたのだ。執務室の戸締まりをして、文若は薄暗い回廊を歩き始めた。
「花は、もう寝ただろうか」
愛しい少女の努力は買っているが、身体を壊すほどに無理をして欲しいわけではない。ゆっくりでよいと言っているのに、目の下に隈を作るほど頑張る花が、文若は心配でならなかった。
中庭に面した回廊に差し掛かった時、文若は、ふと人の気配を感じて一瞬身構えた。が、それはすぐに驚きと腹立たしさに取って代わった。文若の視線は、中庭に、とっくに休んでいるはずの花の姿を認め、釘付けになった。

花は薄様の夜着の上から申し訳程度の薄衣を纏っていた。かすかな風に薄衣が揺れて、月光に照らし出される少女に儚さを添えている。花の目は、頭上の星をあてもなく追っているようだった。軽い苛立ちをもって、文若は花に近付いていった。
「花」
すぐ側に寄るまで、花は全く文若に気が付かなかった。手を伸ばせば捕まえられるほどの距離で声を掛けたところで、ようやく花は、他人の存在に気が付いた。
「文若、さん?」
声のした方に振り向こうとして、花は大きくバランスを崩した。満天の星を長く仰いでいると方向感覚がなくなることがある。姿勢を変えた弾みで、花は自分で気が付かないままに目を回してよろけてしまったのだ。
「あれれ」
だが、転ぶと思った矢先、花の身体は、衣擦れの音と共に暖かな腕に抱き留められた。満天の星に変わって、文若の顔が瞳に映し出されている。突然の変化に花の頭は軽く混乱した。ゆっくりとまぶたを閉じて、開ければ、やはり文若の顔が見える。
「文若さん、ですよね?」
「私以外の誰だというのだ」
文若の不機嫌な声に、今度こそ花の意識は、はっきりした。
「文若さん!」
どうして?という疑問の前に、抱き留められている事実を先に認識して、花は慌てて起きあがろうとしたが、まだ眩暈の余波が残っているのか、頭がくらくらする。自分の意志とは裏腹に、手足に力が入らず、文若の腕に抱かれて辛うじて足が地面についている格好だ。
「私、どうしちゃったんでしょう」
まさか星を見ていて目を回すなどとは思っていなかっただけに、花は不安をそのまま口にした。
「星見が過ぎて、目を回したのであろう」
文若は文若で、事実を淡々と述べた。生粋の文官である文若は、軍師のような星見はしないが、常識としての知識は兼ね備えている。
星見といわれて、花は反射的に小首を傾げた。
「私、星見なんてしてません」
「だが、星を見ていたのであろう?」
重ねて問われ、花は、何と答えたものか考えた。
「ただ、星をみていただけなんですけど」
花の正直な答えは、文若の眉間に皺を寄せた。
「それを星見というのではないのか。伏龍から手ほどきを受けていたのだろう?」
「師匠からは、話は聞いた、と思うんですけど、その、よくわからなくて」
それは、花の偽りのない感想だった。花の中では、孔明から聞いた星見の話よりも、学校で学んだ理科の知識の方が、まだ勝っている。友人との会話で、星占いの話はしたことがあるけれど、たわいのないおしゃべりの一環であって、星の輝きが人の運命をも示すというのは、どうにも理解しがたいのだ。
「私のいた世界では、その時々で、輝きを変化させる星は、変光星っていいました。明るさの変化をグラフにした周期表というのがあって、運気によって明るくなったり暗くなったりするものじゃないってわかってるんです。あ、一時的にぱっと明るくなるのは星が爆発するからで、超新星発見!なんてニュースになります。でも、星の光は何年も掛けて届いているものだから、自分が見てる姿は遙か昔のもので、今の姿を映してるわけじゃなくて。それなのに、今の運勢を示してるのっておかしいですよね」
星見の常識を覆すような花の話は止めどないものであったが、文若は黙って聞いていた。
「今起こっている現象で見られるのは、食くらいじゃなかったっけ。星が一時的に消える星食が一番よく見られるけど、目立たないから知らない人の方が多くて。でも、目立つ星食は、天文年鑑に載ってました。月食や日食は、いつ起こるのか計算されてるから、ちゃんと日時がわかっていて、皆既日食なんて世界中から観測隊が集まるんですよ」
「お前の話は、理解しがたい」
一気に話したあとで大きく息を吐いた花に、文若は短く返した。
「だが、筋は通っている」
続いて紡がれた言葉に、花は、何か言いかけて、思い直したように口を閉じた。理解しがたいけれど筋が通っているということは、少なくとも文若には、花が星見をしていたわけではないことを認めてもらえたと言うことだ。他の誰でもない、文若にわかってもらえたのであれば十分だった。微笑んだ花に文若の眉間の皺が少しだけ緩んだ気がした。

花は話疲れたかのように、ほうっと息を吐いた。文若に支えられた花の身体は、しっとりと収まったままだ。衣を通して、ゆっくりとだが、文若の体温が花に伝わってくる。決してきつくはないが、文若の腕は意外と逞しく、不思議な安らぎを感じていた。不安定な花をきちんと支えてくれるという二重の安心感に、緊張した糸が解れていく。
ぐらついた花の身体を支えた当初、花の身体は緊張に強張っていた。文若の、最初に掛けた声がどこか咎めるような厳しいものであったことも否めない。だが、話しているうちに、花の身体から余分な力が抜け、自然な重みだけが腕に残った。
毎日顔を合わせてはいるけれど、話すのは仕事上、必要なことばかりで、こんな風に何気ない会話を交わしたのは久しぶりのことだった。実際は、話をしたというより、花の一方的な話を文若が聞くというのに近いが、花に束の間の安らぎを与えたことには違いない。不安そうな花の表情が和らぎ、うっとりと文若を見上げた眼差しは、ゆっくりと閉じられていった。同時に更なる重みが文若の腕に掛かる。
「花」
文若のかすかな呼びかけに、花は無意識に身を寄せただけで、まどろみから目覚める気配はなかった。
「寝てしまったのか」
怒るべきか、起こすべきか、一瞬迷ったが、結局、苦笑をひとつ残して、文若は花の身体を衣の中に抱き上げて回廊へ向かった。もしも途中で目を覚ましたならば、小言のひとつでも言わねばならぬが、規則正しい呼吸は乱れることなく、文若の腕の中に収まっている。惑星が星を隠すような密やかさで、文若は花を部屋へ運んだ。
「ゆっくり休むがよい」
寝台に横たえ、なごりを惜しむかのように乱れた前髪を梳いて整えると、額に軽く口づけて扉を閉めた。

2010.07.28
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