■春すぎて夏きたるらし
「尚書令が奥方に木綿の衣装を誂えた由にございます」
その報告を受けた瞬間、ばきっという鈍い音と共に孟徳の簡に滑らせていた筆が止まった。
「文若が花ちゃんに木綿の衣装を着せたというのか」
地獄の奥底から響くような低音に、報をもたらした官吏は、それとわかるほどに後ずさった。だが、退出の許可を得ていない以上、勝手に部屋から出ることはできない。
「そ、そのように聞いております。なんでも、兵卒たちがよく出入りする店で求められたとか」
「文若が、出入りの商人ではなく、わざわざそういう店を選んだと言うことか」
すっと細められた視線に、官吏は顔面蒼白でその場に硬直した。孟徳は、彼が嘘を言っていないことがわかるだけに怒りが深い。

いくら質素倹約を旨とする荀文若とはいえ、(俺の)かわいい花ちゃんに、兵卒達と同等の木綿の衣装を誂えて着せるなんて、言語道断だ。花ちゃんは文若の用意した物なら何でも着るだろうけれど、粗末な木綿の衣装を敢えて与えるなんてあり得ない。彼女は常に最高級の絹の衣装を艶やかに着ているべきなのだ。

「よりによって、なぜ兵卒の衣装を扱う店なんだ」
凍り付いた官吏を睨め付けた孟徳の声はどこまでも低い。
「げ、元譲殿の、ご、ご紹介だそうで…ひいっ」
孟徳の手元から筆が消滅している。替わりに残ったのは、かつては筆の枝とおぼしき木屑だった。
「ふーん、元譲の紹介、ねえ」
進退窮まる官吏が魂の消失を覚悟したとき、ふいに天の助けが現れた。他ならぬ、元譲その人が、いつものように前触れもなしに扉を開き、孟徳の執務室に入ってきたのである。
「おい、孟徳、この書簡だが」
一歩、執務室に足を踏み入れたとたん、元譲は戦場にいるときと同じような戦慄を覚えた。孟徳がぴりぴりした空気を纏っている。以前の彼ならついぞ珍しくもなかったが、非常時でもない今、なぜにそんなことになっているのか。
「そこのお前、なにがあった?」
ひとまず、全身に鳥肌を立て、震えて硬直している官吏に声を掛けてみたが、彼は完全に怯えきって満足に話せる状態になかった。そうなると、気は進まないが孟徳に直接聞くしかない。
「孟徳、」
だが、元譲が質問するより先に、孟徳の詰問する方が早かった。
「文若に木綿を扱う店を紹介したそうだな」
「なんだ、もう聞いたのか。相変わらずそういうところだけは耳敏いな」
「花ちゃんの衣装を木綿で誂えると知っていて紹介したのか」
「ああ、この暑さで花がだいぶ参ってるらしい。城勤めの時は無理だが、家にいるときくらい涼しく過ごさせてやりたいと文若に相談されてな。なんでも彼女の故郷では夏は木綿で過ごすのが普通らしく…」
元譲の話が進むに連れ、孟徳のまとっている空気が変化していく。
「花ちゃんの希望なのか?」
「ああ、そうらしい。まあ、俺も暑いときは鎧を脱いで綿一枚でいることもある。さすがに兵士の着物は無理だが、浴衣とかいう花の国の衣装と似たようなものが作れないか主に聞いてたな」
「いつのことだ」
「いつって?」
「だから、文若から相談を受けたのがいつだと聞いている!」
話ながら苛ついている従兄弟に、元譲は諦め口調で答えた。
「花が休んだ翌日だったかな。珍しく文若が早く帰った次の日だったと思うが」
元譲が答えた日については、孟徳にも心当たりがあった。折からの仕事に一区切り付いたところで、特に急ぎの仕事もないからと文若が花を休ませた日だった。文若はいつもどおりに出仕してきたが、花の体調が優れないからと、午後を幾らか過ぎた頃に珍しく仕事を切り上げて帰宅した。どうやら、花の体調不良と木綿の衣装を誂えたこととは何やら関係があったようだ。
だが、その相談先が、なぜ、元譲なのだ。
「で、お前は文若に請われるまま、店を紹介したというわけだ」
「あ、ああ。なにしろこの暑さだろう。少しでも早い方がいいからと文若に急かされてな。仕事が終わったあと、一緒に店に行ってそのまま誂えることになった」
木綿の着物を誂えている時の花の嬉しそうな顔を思い出してか、自然と元譲の表情が和らいだ。
「孟徳、わかっているとは思うが、花は文若の奥方だ。夫が妻の好む衣装を整えるのは当たり前のことだろう」
元譲としては、これ以上面倒なことにならないよう、孟徳に釘を刺したつもりであったが、面白くないのは孟徳である。自分の知らないところで、元譲が花の衣装作りに一役買っていたのは許し難い。怒りの感情を露わにしている孟徳に、元譲はやれやれとため息を吐いた。こうなると下手に刺激しないのが一番と、元譲は持参した簡を孟徳の机に積み上げ、そのまま執務室から出て行った。

収まらないのは孟徳である。
「家にいるときだけの衣装だなんて、俺が見られないじゃないか」
木綿というだけでも気になるのに、更には、花の国の衣装を真似て誂えた木綿の着物とはいったいいかなる物なのか。しかも、それを滅多と物を強請ることをしない花が希望したというのだから、余計に気に掛かった。逆に言えば、花が気を遣わないくらい安いものだったといえる。そんな安物を贈ったのかという呆れ半分、それなら、花が遠慮せずに受け取ってくれるかもという期待半分、孟徳の頭の中で、天秤が揺れていた。
「花ちゃん、今日は休みだったなあ」
へらりと孟徳の表情が傾く。家でしか着ないという木綿の衣装を見る絶好の機会ではないか。どうせ、今日はもう仕事をやる気など失せてしまったのだから、ちょうどいい。もしかしたら、急ぎの簡だけでもと文若が追ってくるかも知れないが、追った先が自分の家なら、帰宅するのが速まっていいだろう。
「花ちゃんに癒されたら、決裁のひとつでもしてやるか」
勝手にその後の仕事の段取りを付け、孟徳は執務室から姿を消した。

丞相が執務室に居られません。執務室だけではなく、城内のそれらしい場所にも立ち寄った形跡がありません。
孟徳の決裁を求めて簡を持たせた官吏が、しばらくしてから文若の元へ戻ってきたとき、困り果てた様子で未決裁の簡を握りしめて、そう報告した。
またか、という言葉を飲み込み、文若は書きかけの簡をひとまず最後まで進めた。その気になれば、溜まりきった仕事を一日で終わらせる能力を持ちながら、ギリギリまで仕事をしないのが、孟徳という男だ。彼にやる気がないのはいつものことだが、この暑い盛りにどこへ行ったというのだろうか。最近、城下付近で彼の興味を惹くようなものがあっただろうかと、商人たちの動向を思い出すべく、文若はしばし思索した。夕方の涼しくなってからなら、多少は心当たりがあるのだが、昼日中から彼が行きそうな場所は思い浮かばない。
「元譲殿へ報告は行っているか」
答えが返ってくるより先に、元譲本人が入ってきた。
「文若、今日、花は休みか」
唐突に入ってくるのは相変わらずだが、元譲の問う響きに何やら不安を感じて、文若はいつものように苦言を呈すことなく、「花なら休みを取らせてます」と答えを先に返した。
「それが何か?」
「いや、ちょっとな」
一旦は言葉を濁したものの、どうせ余波が来ることだからと思い直し、元譲は、先刻の孟徳とのやり取りを話して聞かせた。はじめは呆れただけだったが、聞き終わる頃には、文若の机は綺麗に整理され、すぐにでも帰れる体勢になっていた。
「おい、文若、どこへいく。お前まで居なくなったら、それでなくとも溜まっている仕事がまわらなくなるぞ。」
「その仕事を回すために、帰らざるを得なくなったと申し上げておきましょう」
首を傾げている元譲をよそに、文若は、立ち尽くしている官吏へ「溜まっている書簡のうち、急ぎのものだけを取りまとめ、我が家へ持って来い」と命じた。
「元譲殿に、先日、お世話になったことが裏目に出たようです」
「意味がわからないんだが」
「花の衣装のことです」
「ああ。だが、あれは花の希望だろう」
「だから、でございましょう」
さっぱり要領を得ないと首をひねっている元譲へ、「あとはよろしくお願いします」と言い置いて、文若は家路についた。

暑い盛りには無理をしなくてもよいと文若に言われ、仕事も一区切り付いたことであり、花は休みをもらって自宅でゆっくりくつろいでいた。ちょうど頃合いを図ったように、文若が誂えてくれた木綿の衣装が届き、花は堅苦しい着物からも解放されて、動きやすさと快適さを優先させた部屋着でのんびり庭を散策していた。夏の日差しはそれなりに強いが、木陰の多い庭は、風が吹くと部屋の中にいるより、遙かに凌ぎやすい。
「帯で締め付けないだけでも随分ちがうよね」
文若が店主に掛け合って誂えてくれた木綿の衣装は、Tシャツとまではいかなくとも、浴衣をさらに簡略した作りになっており、前合わせのワンピースに近いものだった。花としては、もう少し丈の短い方が涼しくていいと思ったのだが、家人達の前でも足を晒すのは認められぬ、とそこは文若が首を楯に振ってくれなかった。その代わり、柄は、花の好みに合わせて大柄の花や花火をイメージした意匠を特注してくれたのだった。
「手書きで描くなんて知らなかったから、好きなように言っちゃったのに、文若さんもお店の人もあっさり頷いちゃうんだもん」
そして、出来上がってきた衣装は、花の想像以上のすばらしさであった。手書きと言うからには一点物に違いなく、とんでもなく高額なお強請りになったと恐縮する花に、
「若手の絵描きが是非とも描かせていただきたいと申し出ておりますし、令夫人の意匠を手がけたとなれば彼らにも箔が付きますので、是非とも機会を与えてやってくださいませ」
と若手芸術家育成を仄めかされては、断りようがなかったのも事実だ。作ってもらったときには困惑したが、できあがった服を着て、庭を散策していると、作ってもらってよかったと心から思えてくる。絹の衣装は、綺麗だけれどきっちり着こなさねばならず、正直、窮屈に感じていた。それに対して、この服は、着やすさと快適さを重視して作ってもらっただけあって、本当に着ていて楽なのだ。気を付けることと言えば、長い裾を踏まない事くらいだろうか。まさに、浴衣感覚で着られる普段着だった。そして、もうひとつ。若手画家育成を口実に、かなりの枚数が作られたため、汗ばめば着替えるにも事欠かない。汗で身体を冷やして体調を崩してはいけないからと、侍女達が気を効かせて着替えさせてくれるので、サッパリした気分でいられるのも嬉しいことだった。
「そのぶん、洗濯は大変だろうけど。でも、綿だからそうでもないのかな」
色とりどりの木綿の衣装が、日当たりのよい軒下ではためいていた。ひらひらと揺れる衣を眺めていると、昔、弟が生まれた頃、祖母が洗濯に勤しんでいた風景を思い出す。あのとき風になびいていた色とりどりの洗濯物は…。

「はーなちゃん、楽しそうだね」
唐突に影が伸びてきたかと思うと、馴染みのある声が花の背中に張り付いてきた。
「も、孟徳さん!?」
地味な着物で、すっかりお馴染みになった孟徳のお忍び姿がちゃっかり花の隣にやってきていた。
「文若が花ちゃんに衣装を誂えたって聞いたから、ちょっと寄ってみたんだけど、涼しそうでよく似合ってるね」
明らかに仕事中を抜け出したとわかるのに、悪びれもせずに話す孟徳に花は苦笑するだけだった。文若のためには一刻も早く戻ってもらうべきなのだろうが、大して仕事のなかった自分ですらこの暑さでバテ気味なのだ。休みをもらって涼んでいる自分が孟徳に仕事へ戻れというのはなんだか申し訳ないよう気がして口に出来なかった。
「ちょっと変わった作りなのは、花ちゃんの国の衣装を真似たんだって?」
「はい、元は浴衣っていう普段着というか部屋着なんですけど。文若さんとお店の方が私が着やすいように工夫してくださったんです」
「あの石頭の文若にしては上出来といってやりたいところだけど、もしかして、コレ、全部?」
「そうなんです。着替えが少しあった方がいいって言ったら、いつの間にかこんなことになっちゃって」
軽く溜息をもらした花に孟徳は「そういうところは相変わらずだねえ」と面白そうに笑った。
「笑い事じゃないです!」
花は至って真面目に反論した。
「一枚一枚、全部、模様が違うんですよ。全部、オーダーメイドの浴衣なんて、すごく贅沢じゃないですか」
「おーだ…め…?」
「オーダーメイドです。服なんかを注文して誂えて作ることですけど、私の国では、有名人とかお金持ちの人しかそういうことはしないので」
文若も名家の出身で、それなりに金持ちなんだから気にしなくて良いのにと言ってやりたいところだが、それでは文若の援護になるので、敢えて黙っておくことにする。
「えー、全然、普通だと思うよ。しかも、花ちゃんの場合、洗って何度か着るんだよね?」
「当たり前じゃないですか…って、孟徳さんは、ちがうんですか?」
「正装の衣装は別だけど、だいたい一度着たら、家臣たちに下げ渡すからねえ」
「え?そうなんですか?」
花には孟徳の答えが心底意外だったようで、目を丸くしていた。
「主人の衣装を賜るのは家臣には名誉なんだってこと。ま、そういう使い方もあるってことさ」
相変わらずの軽い口調だが、花は衣装ひとつですら、使い方によっては権力と無関係ではなくなると知って少しばかり胸が痛んだ。孟徳ほどの権力者ともなると、衣装のリサイクルも気軽にはできないということだ。
「花ちゃんは、この衣装、全部、保管しておくの?まだ、他にもあるよねえ」
内心、絹より安いとはいえ、ここまで手書きの意匠で誂えさせた文若と店主の手腕には感嘆するものがあった。しかし、花の答えは、その感嘆を上回る衝撃があった。
「ふふっ。お母さんの浴衣は、赤ちゃんのおしめになるんです。真新しいのではなくて、お母さんが着慣れて柔らかくなったのが、赤ちゃんの肌に優しくていいって言われてるんですよ」
花はあっけらかんと答え、どこか懐かしむように、はためく木綿の衣装を見上げた。
「私と弟のおしめも母の若い頃着た浴衣のお古でした。自分のときはさすがに覚えてないですけど、弟の時のことは、なんとなく、あれがそうだったのかなって覚えてることがあって」
風になびく衣装ををみつめる花の表情は、遠い故郷を思い出しているだろうか、しかし、その割りには穏やかで楽しそうだった。過去を懐かしむというよりも、いずれ来る未来へ思いを馳せているようにみえる。それは、もしかして?
「花ちゃん、最近体調が優れないって聞いたけど」
「ちょっと夏バテしちゃったみたいです。元々暑いのは苦手だったんですよね。その上、こっちの長雨というか暑さになかなか身体が慣れなかったみたいで。文若さんにも随分心配かけちゃって。着るもので少しでも過ごしやすくなれば、文若さんにも余計な心配かけずにすみますし」
「医者には診てもらったの?」
「はい、軍医のおじいさんに、暑さも我慢すると病気になるから気を付けろって注意されました。それが文若さんにもなぜか伝わったみたいで、休めって口うるさくなっちゃって」
自分は休み時間も無視して仕事してるのに、と花は不満たらたらだ。しかし、孟徳は、なるほど、文若が花に休みをきっちり取らせるようになったのは、そういう事情があったのかとひとり納得した。花の答えは孟徳の予想どおりではなかったが、多いに今後の参考になるものだ。そうとなれば、煩いのがやってくる前に話をつけておくに限ると、孟徳はさっそく次の行動に移った。
「おしめに使うのは、お母さんの着物だけ?お父さんのは使わないの?」
「うーん、どうでしょう。全く使わないってことはないのかもしれませんけど、お父さんってそんなに着物、持ってたかなあ」
花の記憶では、はためいていたおしめの模様は、女性向きの花柄や、明るい格子模様で、祖母達の話からも母の浴衣だけだったような気がしている。そもそも現代の男性は昔ほど着物を着ないしので、確率としてはかなり低いと思うのだ。
「でもさ、男の人の着物でも、着慣れた木綿ならおしめになっても問題ないってことだよね」
「それは…そうかもしれません、けど」
孟徳の意図するところが読めず、花は小首を傾げている。
「けど?」
「なんとなく、ですけど、しっくり来ないというか」
「はは、そう言うところは相変わらずだね」
ますますわからないと、花は困惑気味だ。もちろん、そうなるように孟徳が話を仕向けているからなのであるが。
「じゃあ、おしめはお母さんの着慣れた衣装がいいんだ」
「…そう、ですね」
よし、あともう一息と、孟徳が細く笑んだとき、聞き覚えのある、花にとっては嬉しく孟徳にとってはありがたくない声がやってきた。

「花、こちらに丞相がお見えに…なっているようだな」
眉間に深い皺を寄せ、細められた眼光は鋭く孟徳を捉えていた。並み居る官吏を震え上がらせるという尚書令の視線をものともせず、孟徳は「やれやれ、もう来たのか」と悪戯小僧宜しく舌打ちしたのみだ。
一方、花は文若に気が付くと、それまで落ち着いていた表情が一瞬にして華やかに明るい笑顔へと変わっていった。

「あ、文若さん」
花が孟徳から文若へと目線を変えると、結い上げた髪の後れ毛が襟足に揺れて、不思議な色香を添えた。天真爛漫で子供っぽさの抜けきらない娘ではあるが、たまにこちらがドキリとする艶を見せる事がある。それも決まって、文若が居ないときに、彼の姿を見つけて急激に変化するのだ。ちょうど、いまのように。おそらく本人は無自覚なのであろうが、見ている方はなんともこそばゆい限りだ。だが、それ以上に孟徳を面白がらせるのは、そういう花の変化に気が付いた文若が内心の動揺を必死で押さえている様を間近に見ることができるからである。
「誰かさんが扱き使うもんで、かわいい花ちゃんが夏バテしてるって聞いたから、ちょっと見舞いにきただけじゃないか」
「ほう、一臣下の見舞いが仕事を放り出してまでの重大事とは、到底思えませぬが」
表面だけは好き勝手している主とそれを諫める部下との会話になっているが、そう捉えているのは花だけであろう。
「文若さん、すみません。すぐ、お知らせしようと思ったんですけど」
「花ちゃんは悪くないよ。だって、俺、今きたばかりだもん。その衣、文若の贈り物なんだって?涼しそうでよく似合っているよ」
さすがは孟徳、花の前では卒がない。
「花、いくら木陰だからと言っても昼間の庭は暑い。外で立ち話などして暑気あたりでも起こしたら休ませた意味がないだろう」
文若は花の腕を引き、木陰の奥へと誘った。もちろん、孟徳の立ち位置とは反対方向へ、である。
「すみません」
「あーあ、誰かさんの前だと、花ちゃんは謝ってばかりだねえ」
「すでに聞き及んでおられることと存じますが、花は暑さに弱い。倒れる前に休ませます」
「狭量な男は嫌われるぞ」
「文若さん、私、そこまでひ弱くないですよ」
からかうような孟徳の声と花の抗議の声が重なった。
「そうそう、倒れないようにって、木綿の衣装を誂えさせたんだろう?」
「そうですよ、文若さん。この衣装、すごく涼しくて、着ていて楽で。それにこのお庭は涼しいですから、お城みたいにちょっと歩いたくらいじゃ倒れたりしません」
「え!?まさか、花ちゃん、お城で倒れたりしたの?」
「あ…え、そんな倒れたりしたことは、ない、ですよ」
耳敏い孟徳に問い返され、一瞬、花は返事に詰まった。言葉どおりに倒れたことはないようだが、城内で何かあったのは確かである。その点については文若も初耳だったようで、孟徳とあわせてふたりから無言の圧力がかかった。その手の免疫がない花に対抗できるはずもなく、あたふたと視線を惑わせた挙げ句、諦めて小さく呟いた。
「ちょっとだけ、その…立ちくらみが…して」
「倒れたのか!?」
詰問口調の声に、花は思わず首を縮めた。
「ちょうど、軍医のおじいさんが通りかかったときだったから、ちょっとだけ休ませてもらって。でも、すぐ、元気になりましたから!それに、その翌日、ちゃんとお休みもいただきましたし」
花は必死で取り繕っているが、自分たちの知らないところで、彼女が暑さで倒れかけていたなどと、夫や上司としては許し難い失態である。
「それで、軍医殿がわざわざ休ませた方がよいと助言しに来られたのだな」
ひとりごちた文若に、花の不満そうな声が届く。
「やだ、おじいさんてば文若さんに話しちゃったんですか。あれだけ、内緒だって言ったのに」
「馬鹿者っ!軍医殿がご助言くださらなければ、今頃取り返しの付かないことになっていたかも知れないのだぞ」
「そんな、たかが廊下でちょっと立ちくらみを起こしたくらいで、大袈裟です!」
「廊下ってことは、書簡を配ってるときかな?」
「なるほど。久しぶりに迷いかけて時間がかかったなどと言っていたが、本当は暑気あたりを起こして軍医殿の手当を受けていたというわけだ」
「花ちゃん、嘘はいけないなあ」
直球で事実確認を求める文若と、やんわり責めてくる孟徳に、花は完全に逃げ場を失った。ほんの少し立ちくらみを起こして休んでいたことを黙っていただけなのに、どうしてここまで責められなければならないのだろか。だが、ふたりの態度は真剣そのもので、とても花には「過保護すぎる」と反論できる状態ではなかった。
「文若、花ちゃんが暑さにことのほか弱いってことは、よーっくわかったよ」
「ご理解いただき、痛み入ります」
「だからといって、花ちゃんは、夏の間中仕事を休む気はないんだよね」
「当たり前です!たまたま、その黙っていたのは悪かったですけど、そのくらいのことで、仕事を休むなんて、絶対、嫌です」
「俺も、いかついヤツと眼の細い石頭の顔だけ見ていたら、暑苦しさのあまり倒れてしまうよ」
孟徳のしおらしい発言を文若は頭から無視と決め込んでいる。花は、孟徳の言葉にヒヤリとしたものの、仕事を取り上げるつもりはないらしいと察し、少しだけ安堵した。しかし、安心するのは早かったようで、文若の出した条件は、なかなかに厳しい。
「そうですね。花には早朝と夕刻の涼しいときだけに限り仕事を認めます。丞相に置かれましては、早朝に届いた案件は夕刻までに決裁をお願いいたします。決裁なきときは、花には朝のみで帰宅させましょう」
「うわー、お前って、もぎ取ることしか考えてないよな」
「本来ならば、夏の間は、仕事を休ませたいところですが、本人のたっての希望ということで、無理のない範囲で出仕を認めているのです」
仕事時間より休んでいる時間の方が多いのは明らかだが、とても抗議できる雰囲気ではなかった。
「けど、早朝から夕方までの間、一旦、花ちゃんを家に帰すつもりか?よりによって暑い最中に?」
にやりと孟徳が攻勢に出た。
「まあ、俺達の執務室の間には、小川を備えた庭くらいあるし、風通りのいい東屋は花ちゃん専用に提供するから、そこでゆっくりしているといいよ。それと、休み時間には堅苦しい服でない方がいいかな。ご婦人の立ちくらみには締め付けない緩やかな衣装がいいそうだから、今着てるみたいなので、もう少し改まった感じのものを管服として用意させよう」
あくまで仕事に関してという線を貫いて、孟徳は花に衣装を用意する気満々だ。管服の支給とあっては、文若にも反対する余地がない。だが、花には特例尽くしの対応が不自然に映ったようで、思ったとおりに反対してきた。
「孟徳さん、そんなの贅沢すぎます!」
「俺のやる気と文若の心配と花ちゃんの健康と、全部片付く妥協案だよ」
それは確かにそのとおりかもしれないが、やっぱり納得できないのだ。
「だからって、衣装まではいただけません」
「私的な贈り物じゃない、管服だよ?それに、生地は木綿にするし、そんなにたくさんは作らないから」
にんまりと孟徳は楽しそうだ。
「そうだなあ。木綿の服は、将来、花ちゃんの赤ちゃんのおしめになるんだから、ある程度、着替え分は用意するけどね」
「え?」
さすがに花だけでなく、文若も虚を突かれたようだ。
「丞相、それはいったいどういう意味で?」
「花ちゃんが教えてくれたんだよ。お母さんの着慣れた木綿の衣装が、赤ちゃんのおしめに最適だって。仕事の間は管服として着てもらって、赤ちゃんが出来たらおしめになるんだから、無駄がなくていいだろう」
他愛のない思い出話がとんでもないことになってしまったと花は真っ赤になって、文若の袖に顔を埋めてしまった。
「そういうわけだから、文若、たくさんあっても反故にしないよう、しっかり励めよ」
さすがに具体的なコトは言わなかったが、話の流れから何を言っているのかは明かである。恥ずかしさのあまり花は完全に文若に縋ってしまっている。その花の可憐な姿にかなり動揺させられていた文若へ、孟徳は容赦のない叱咤激励を掛けて、久々に「完全勝利」の四文字を実感したのだった。

2011.7.31
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