■花無心
銅雀台へ丞相府が移ってから、しばらくは「事後処理」とやらに孟徳たちは忙殺されていたが、やがて落ち着きを取り戻し、いつもの日常が機能するようになった。文若の下で働く花も、文若の部屋に持ち込まれる書簡の整理だけでなく、それまでに文官室へ持ち込まれる簡単な書簡の下読みができるようになるまでになった。
「習うより慣れろ、とはよく言ったものよね」
文若の元に届く書簡は、内容が専門的すぎて、分類するだけが精一杯だったが、文官室へ毎日山のように持ち込まれる書簡には、簡易な文字で書かれた内容のものも多く、簡単な案件の下読みは、花にとってよい勉強材料になっていたようだ。たまに、内容のよくわからない書簡が混じっていたりするが、多くの場合、上官へ上げるべき内容のものがうっかり紛れ込んだものだった。そういう書簡を見つけたら、下っ端の役人が不備を叱られないよう、そっと正しい部屋に置いておくのは花なりの心遣いだった。下級役人では入れない部屋でも花なら咎められずに入ることができるからだ。

その日、見つけた書簡も、うっかり紛れ込んだもののひとつだった。
「あれ、これって外交文書?」
あまり見慣れない形式で書かれた書簡だが、その文字のひとつに花の目が吸い寄せられた。
「倭國…?」
花の記憶にひっかかるものがある。普段なら、外交文書など関係ないものとさらりと流してしまうが、根気よく、読める文字を追っていった。
「女子為王名卑彌呼」
その瞬間、花は叫び掛けた声を慌てて飲み込んだ。
(これって、これって…)
いくら歴史に疎い花でも、邪馬台国の女王・卑弥呼の名前くらいは知っている。卑弥呼は「魏志倭人伝」に登場することにより、実在の人物とされたのだ。
「嘘みたい。こんなことって、あるんだ…」

時代は違うけれど、確かに自分と繋がっていると感じられ、なんだか、無性に嬉しくなり、ぎゅっとその書簡を胸に抱きしめた。

「どうしたの、花ちゃん?」
「ひゃあ!」
いきなり背後から声を掛けられ、思わず花は、さきほど飲み込んだ奇声を漏らしてしまった。
「花、なんという声を上げるのだ」
続いて、存外に「はしたない」という語気を含んだ文若の声が続いた。
「す、すみません」
反射的にペコリと謝ったが、書簡はしっかり抱きしめられたままだ。当然、孟徳は、目敏くその書簡に興味を持った。
「それ、何か気になることでも書いてあった?」
にこにこと無邪気さを装って、あっという間に孟徳は花の腕から、その書簡を抜き取った。そのままちらりと横目を走らせ、文若に渡す。
「…ふうん。ねえ、花ちゃん、真珠、好き?」
「はい?」
いきなり、話題を変えられ、花は戸惑った視線を文若に向けた。心なしか、文若の眉間に皺が寄っている。
「あの、それって、その書簡と何か関係あるんですか?」
花も年頃の女の子だ。真珠のようにきれいな宝飾類に興味がないわけではないが、うっかり孟徳の質問に「はい」と答えようものなら、「じゃあ、これあげる」と、とんでもなく高価な真珠を持ってこられるのが目に見えている。ここは、慎重に答えなくては、と花は素直に疑問を返した。
「えー、別に難しく考えなくていいよ」
相変わらず、孟徳はにこやかに笑っているが、滅多に贈り物に興味を示さない花に何か贈れる機会を得たといわんばかりだ。
「即答で嫌いって言わないってことは、好きってことだよね」
「そんなこと…!」
ありません、というのは簡単だが、孟徳に嘘は通じない。「真珠が嫌い」といえば、孟徳に嘘を付くことになり、かといって「好きです」と答えたら、贈り物攻勢が待っている。どうしよう、と泣きそうになって、花の目は自然と文若に助けを求めていた。

今にも泣き出しそうな恋人からの視線を感じて、文若としては助けてやりたいのは山々だが、その書簡の何が花の気を留めることになったのかわからなくては、孟徳を納得させられるだけの説得ができない。文若のみたところ、それはごくありふれた貢ぎ物に対する返礼の文書に過ぎなかった。貢ぎ元の王が女性であるため、女性が好みそうなものを選んで返書に認めてあるだけのことだ。
花が贈り物自体に興味を示したわけではないことは、文若にもわかる。それ以外で、あまり読み慣れない文字を自分たちが声を掛けるまで気が付かないほどに読んでいた理由とは、いったい何なのか。むしろ、文若の方が知りたいくらいだ。そこに考えが至った時、文若は、ゆっくりと呼吸を整え、主に呼びかけた。
「丞相。花がこの書簡を熱心に見ていたのは、たまたま自分の知るところの異国のことが書いてあったからです。丞相もご存じのとおり、花も最近はいろいろな書簡が読めるようになってきております。通常とは異なる書簡で、読めるものがあったので、つい、見入っていたのでございましょう」
果たしてその言い訳が通るかどうか、文若としては半々の掛けだった。
「そうなの?」
文若ではなく、孟徳は、花に質問を返した。
「は、はい。そうなんです!」
「へえ、たとえば、どこの国?」
孟徳の質問には容赦がない。しかし、花は、逆にほっとした。この質問になら答えられる。
「あの、倭国とか、狗奴国とか。えっと、この両国は、仲がよくなくて争っていたって、私の国で習ったことを思い出していたんです」
自分が知っているのは、この程度のことだが、逆にそれだからこそ、書簡にあった文字に見入っていた理由にはなる。
「そっか」
つまんない、と孟徳はむくれた。せっかくの機会をどうやら失ったと諦めたようである。
「ま、あんまり花ちゃんを困らせて、もう、来ません!って言われても困るしね。今回は、諦めるよ」
ほうっと溜息を吐いた花を、薄目で笑い孟徳は名残惜しそうに去って行った。去り際に「ちゃんと花ちゃんから真珠の言い訳を聞き出しておけよ」と文若にだけ聞こえるように呟くことも忘れない。孟徳は、花の手前、諦めたように見せかけただけで、どうでも何か贈りたくてたまらないようである。余計なお世話だと沓でも投げつけたやりたい衝動をこらえ、文若は手元に残された書簡を忌々しげに懐にしまい込んだ。

「すみません、文若さん」
もとはと言えば、自分が見るべきでない書簡にうっかり見入ってしまったため、文若に余計な世話を掛けたことが申し訳なくて、花は深々と謝った。
「書簡を見るくらい、別に、かまわん」
いつもなら、たっぷり小一時はかかるであろうお説教が返ってこない。花は、不謹慎にも拍子抜けした顔を上げてしまった。
「なんだ?叱られたかったのか?」
ふわりと耳に響く低い声に、花は慌てて首を振った。花は文若の低い声は好きだが、今の声は決して機嫌のよいときのものでないとわかる。おずおずと見上げてみれば、文若の眉間にはまだ皺が残っている。とっさに花は首を縮めた。

「花、先ほども言ったが、書簡を見ていたことに対して咎めるつもりはない。が、いったい何をそんなに熱心に見ていたのだ。知っている国があったというのも、まんざら嘘ではないようだが、それだけではあるまい」
孟徳とは違った意味で、文若の直球で来る質問が花は苦手だ。理詰めで聞いてくる文若に対して、ほとんど直感的な答えしか持ち合わせていないからだ。
「文若さん、本当に、その書簡に、知っている国の名前があったから、つい何が書かれているのか気になって読んでいただけなんです。習ったことが現実にあったんだって思ったら嬉しくて。本当にそれだけなんです」
「だが、訳もなく丞相が真珠のことを言い出すとも思えない。もっとも、何かと理由を付けてお前に贈りたいようだが」
「真珠って、そこに書いてあるんですか?」
実は、花はまだその箇所まで読み進めていなかったのだ。
小首を傾げた花に、文若は書簡を広げて、問題の箇所を指さした。
「特に汝に…真珠を賜う…」
ちょうど花が読みつかえていたところと数行ずれているが、見方によっては、そこを見入っていたように見えたともいえる。
「ここは、まだ読んでません!」
花の声に、文若は、ひとつだけ溜息をついた。完全に孟徳の早とちりだが、あの贈る気満々の主の意を覆すのは相当に骨が折れる。かといって、自分以外から贈り物を、ましてや高価な装飾品など、絶対受け取らせたくないとも思う。

「どうしましょう」
おろおろと惑う花に、文若はいまひとつ考えあぐねていた。
「丞相が言っていたが、お前は真珠自体が嫌いなわけではないのだな?」
「…はい。私たちの年代だと、孟徳さんが持っているような大粒じゃなくて、もっと小くてかわいいのが、そう、ベビーパールって言って、ちょっとしたお洒落なアクセサリーで人気だったんです。小さくてもホンモノってとこがいいよねって、かな達とピーズ感覚で選んでました」
花の話には、文若には初めて聞く意味不明な言葉がいくつか混じった。だが、その表情は明るく、いかにも年頃の女の子が話すような弾んだ声色で、花が「そういう装飾品を好んでいる」事実は、文若にも伝わった。
「小さいものが、よいのか?」
少し考えて問えば、花は「はい」と素直に頷いた。
「お店に、穴を開けたものが売っていて、自分でブレスレット…じゃなくて腕輪とか、作るんです」
「それでは、目立たぬではないか」
「目立つほど大きくちゃ、ダメなんです。さりげなく付けるのがいいんですよ」
くすくすと花が笑った。
「なるほどな」
理解しがたいと思いつつも、いかにも花らしい答えに一応、文若は納得した。

文若が納得しても、孟徳が納得しなければ意味はない。解決の糸口を求めて、再び文若は、花に質問した。
「小さな真珠が容易く手に入ると言うことは、お前の国も真珠を産出しているのか」
「はい。簡単に手に入るようになったのは…最近ですけど、昔から、真珠はありました」
ふっと博物館で見た、不揃いな古代真珠の装飾品が脳裏に浮かぶ。産地は確か、伊勢だっけ?真珠じゃなくて、そう、白玉って名札が付いてた…。
「伊勢の白玉?」
声に出していたつもりはないが、文若の声で繰り返されたということは、無意識に呟いていたらしい。恥じるように口元へ手を当てたが、その行為は、返って文若に確信させてしまうものだった。
「伊勢の、白玉か」
「あの、違うんです」
「何が違うのだ?」
「だから、その…えっと」
文若は、まだ何も言っていない。だが、花は、おねだりと取られたのではないかとひどく恐縮しているようだった。そんな花を文若は愛しく思う。同時に、この無欲な花の気持ちをそのままに、かつ、孟徳をも納得させる方法を考えてやらねば、とひとしきり文若は思案した。

「丞相は」
やがて、文若はおおげさに溜息を吐いてから言った。
「お前へ、真珠に限らず、宝飾品を贈りたくて仕方がないらしい。過ぎたる下賜も問題だが、あまりに無碍に断り続けるのも主に対して、不敬だからな」
「文若、さん?」
「確か、倭国から丞相への貢ぎ物の中に、宝飾品としてはいささか小粒すぎる真珠があったはずだ」
文若の声色は不機嫌だが、その目は笑っている。花はきょとんと言葉の続きを待った。
「小さすぎて、誰も欲しがらないシロモノだが、小さくても、ホンモノの真珠だ。それなら、過分な下賜品ともいえまい。そうだな、あとでお前が自分で好きなものが作れるよう、細工師に穴を開けさせてから届けさせよう」
花の表情が明るく輝き、やがて嬉しさにその瞳がみるみる潤んでくる。喜びの雫が溢れる前に、花は、文若の胸に抱きついた。
「ありがとうございます!」
花の、心からの感謝の言葉が、文若にとっては何より幸せの糧になる。
「文若さん、大好きです」
くぐもった声が胸に響き、そっと回された腕に、文若も花の華奢な身体を抱きしめることで応えたのだった。

■魏志倭人伝
著者は西晋の陳寿で、3世紀末頃に書かれたとされる中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称。正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」。
それによると、卑弥呼が貢ぎ物を送ったのは、238年以降とされ、魏の明帝曹叡(孟徳の孫!)の時代らしいです。が、使者を送れるようになったのは、魏が内政を安定させ朝鮮半島経由での交易が可能になったかららしいので、銅雀台で文若が丞相府を取りまとめていれば、内国の安定も早かろうと、ちょっと使者派遣の時期を早めてみました。

2010.09.06
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