■学生の本分
(かな、彩、私、恋人ができたんだよ。とっても真面目で、仕事一筋で、ちょっと、ううん、かなり厳しいけど、でも、優しくて、頼りがいのある人。そしてね、どんなに忙しくても、ちゃんと私の勉強を見てくれるの。今日だってね…)

花は、丞相府に与えられた自分の部屋から長い回廊を通って、一番大きな書庫を目指して歩いていた。花の腕には、手習い道具の一式が抱えられている。それは、自室に戻ってからも勉強をしたいと言った花のために、仕事用とは別に文若が特に誂えて贈ってくれた逸品だった。硯や筆などは、いつも使うものより少し高価な程度(孟徳談)だが、道具一式が持ち運びしやすいようにと添えられた箱に、贈り主の心が込められている。螺鈿細工の美しい漆の箱は、当代きっての細工師に文若が特注したものなのだ。孟徳は、「恋人に贈るなら、ふつう、宝石か衣装だろ」と半ば本気で呆れたようが、届けられた直後に、花が満面の笑みで、お礼を言いにやってきたため、それ以上の追求はしなかった。

魏の丞相府において、文官のトップである文若は、非常に多忙である。はっきりいって、文若には休日などないに等しい。また、本人もそれを特に不満に思っていないところが、仕事一筋の彼らしいところではある。それでも、花に対しては、無理をしすぎないよう休みを取らせるなどの気遣いをみせていた。
文若のために、この世界へ残ることを決意した花にとって、休日は、絶好の勉強日和である。日頃、文若の執務の合間にも、手習いなどの時間を設けてもらってはいるが、書簡の整理なども多く、それだけに集中するわけにはいかない。覚えにくい文字などは、やはりある程度まとまった時間に練習する方が効率がよいのだ。とはいえ、休日に一日中、ひとりで自室に籠もって手習いというのも味気ないのは確かである。だからといって、文若以外の誰かと、どこかへ出かけるとか、一人で外出するという気にはならなかった。
(かなと彩が一緒にいたら、絶対、図書館で勉強するパターンだよね)
何気なく思い出して、はたと気がついた。こちらには花の世界でいうところの図書館はないが、丞相府には仕事で使っている巨大な書庫があった。何度か文若に頼まれて資料を取りに行ったことがあるので、場所はわかるし、明るい窓際には、ちょっとした調べ物ができるようにとの配慮か、わき机と椅子が置いてあったはずだ。そして、もしかしたら、資料を探しに来た文若とバッタリ出会うことがあるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて花は書庫に向かったのだった。

幸運にもその日、花は文若と出会うことができた。休日に、自室ではなく書庫で手習いをしている花に、文若は眉間に皺を寄せて「理解しがたい」とため息をついたが、花の手元を覗き込むや、さらに皺の数を増やして、いつも以上に厳しく添削をしてくれたのだった。
(こういうときの文若さんて、ホント、容赦ない…)
一字一句のみならず、留め、ハネ、はたまた点のひとつにまで、きっちり直しが入り、花は正直凹んだ。自分の未熟さが恥ずかしくもあった。
(あまりのできの悪さに、文若さん、呆れちゃったかも)
だが、文若は退出間際に、花が学習しやすいようなお手本となる書簡をいくつか書庫から探し出して渡してくれた。
「私は仕事に戻らねばならぬが、あとでまた資料を返しに来る」
どうやら、それまで渡された手本で練習していろということらしい。花は口べたな文若らしい心遣いが嬉しくて、元気いっぱいに「はい!」と応えて手本となる書簡を受け取った。果たして、文若が資料を戻しに書庫へやってきたとき、花は練習の成果を見てもらい、きっちり添削してもらったのだった。

文若ほどの高官ともなれば、自らが資料探しに書庫へ赴かなくても、下級役人に一言、命じればすむことである。実際、花が執務室に出仕している時は、資料の受け取りなど任されることが多い。今日はたまたま書庫で文若に会えたが、毎回、そんな幸運が続くとも思えない。
(でも、一応、今日のは図書館デートっていってもいいよね)
心の中でこっそりと、花は、かなと彩に話しかけた。

花が休みを取った翌日は、いつも以上に花に構いたがる孟徳をいかにして仕事に集中させるかが、文若の、強いては丞相府の機能維持に不可欠な課題だった。幸か不幸か、花は男女のことに疎く、孟徳の誘いを素でかわしているところがある。しかもそれが、こちらからすれば、予想外な視点からでているため、孟徳を面白がらせ、文若に深いため息をもたらすのだ。
「ねえねえ、花ちゃん、休みの日にまで勉強してたって、本当?」
「はい。まだまだわからない文字がたくさんありますから、早く覚えて、少しでも文若さんのお役に立てるようになりたいんです」
「だからって、休みの日まで勉強することないでしょ」
「でも、私の国では、私くらいの年代だとそれが普通でしたし、学校は平日しかありませんけど、休みの日でも勉強するように宿題はありました。なんていったらいいのかな」
別に普通ですよ、と花は、書簡を分ける手を休めず笑って答えた。最初の頃は、文字を読むのすら覚束なかった花にしてみれば、格段の進歩が伺える姿だ。
「学生の本分は、勉強することだって言われてますから、今の私にはちょうどいいんじゃないでしょうか」
仕訳の終わった書簡を、重要なものから順に並べ替え、文若の机の上に重ねていく。
「休みの日に恋人を放って仕事しているようなヤツに義理立てしなくていいから、今度の休みは、俺とどこかに出かけようよ」
文若の絶対零度の視線をものともせず、孟徳はにこやかに花の顔を覗き込んだ。たいていの女なら諾と言わせる甘い誘いだが、花は、それとわかるほどに頬を染めて、ちらりと文若に視線を漂わせ、断った。
「文若さんには、ちゃんと勉強をみてもらってますよ?」
書庫でひとり手習いをしていた花をみつけ、仕事の合間を縫って、文若は何度か書庫に足を運び、勉強を見てやった。だが、この執務室でも手すき時間があれば似たようなことを日々行っており、特に赤面するようなものではないはずだ。しかし、明らかに花は動揺している。こういうときの花は、ぽろり、と本音を漏らすことが多いので、孟徳がいるときは、特に要注意だ。案の定、花はもごもごと、文若たちには意味不明なことをつぶやいていた。
「図書館でデートは、相手ができる人じゃないと駄目なんですもん。文若さんは厳しいけど、わかりやすく教えてくれるし。自習しながら、わからないところを教えてもらうのは、図書館デートならではのシチュエーションだし」
「ふーん、なんだかわからないけど、楽しそうだね」
するりと口を挟む孟徳に、花は惰性的に頷いた。
「はい、勉強は好きじゃないですけど、文若さんに教えてもらえるのが嬉しくて…!」
にんまりと面白そうに花を覗き込んでいる孟徳と、憮然としながらも休日の書庫における花の嬉しそうな様子を思い出した文若に挟まれ、花は絶句した。感のいい孟徳には、絶対、バレているに違いない。だが、孟徳はそれ以上の詮索はせず、「続きは、また教えてねー」と鮮やかな波紋を残して立ち去って行った。

文若とふたりきになった花は、今度こそ気まずそうに視線を逸らせて、未整理の書簡を取りに踵を返した。だが、文若の机から離れる寸前、機敏に動いた文若によって花は動きを封じられた。
「花」
恋人特有の低い声で名前を呼ばれると、それだけで花は身体をコチコチに強ばらせてしまう。想いを交わした仲とはいえ、啄むような柔らかな口づけだけでいっぱいいっぱいの初心な花に、これ以上を望むのは、今はまだ時期尚早と、ゆっくりと束縛を解いた。
自分は仕事一筋で、恋人がたまの休日の時でさえも、ひとりで手習いをさせてしまうような為体なのに、花がそれを不満に思っていないとわかり、正直、安堵した。どうやら、休みの日に書庫で勉強をみてやる、というのが花の世界では、恋人らしいことに繋がるらしい。その程度のことで花が満足するなら、いくらでも応じる用意はある。
「お前はこれからも休日は、書庫で、手習いをするつもりなのか?」
「えっと、一応、そのつもりです」
自分の部屋より書庫の窓辺の方が明るいですし、と付け加えると、「そうか」と短い相づちが打たれた。書庫なら、もしかしたら文若に会えるかもしれないからという願望は、ひとまず花の胸の内だけに留められている。
「私は仕事の資料は自分で探す方が効率的だと自負している」
つと、文若が続けた。
「書庫に来たついでに、なるべく、お前の手習いも見るようにしよう」
花は文若を魅了して止まない満面の笑みを浮かべて「ありがとうございます」と礼を言っった。その晴れ晴れとした嬉しそうな笑顔に、文若も穏やかな表情で頷き返すのだった。
2010.12.4
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